51. 侯爵夫妻の圧力(※sideシアーズ男爵夫人)
「返す言葉もございません……。愚女については力ずくでも連れ戻し、今度こそ逆らうことのないよう徹底的に躾けてまいります」
夫はこめかみを流れる汗を乱暴に拭いながら、リグリー侯爵夫妻に詫びる。長いものには大人しく巻かれていたい男なのだ。絶大な権力を持つ侯爵家当主に睨まれるなど、この人には耐えられないことだろう。
同じように頭を垂れながら、頭を目まぐるしく回転させる。ティナレインがセシル様の子を産んだというのなら、その子を盾にこのリグリー侯爵家にたかることができるのでは……? ……いや、無理か。そんなことをしようものなら、うちはあっけなくリグリー侯爵家に潰されるだろう。力関係に差があり過ぎる。財力も権力も、世間からの信頼も、何もかも太刀打ちできない。逆らわないのが身のためだ。ならば、どうすれば……?
思案していると、リグリー侯爵が低く唸った。
「躾ける、か。果たしてどうだろうか。このような大それたことをしでかした娘だ。連れ戻し躾けたところで、そなたたちの言うとおりに大人しく過ごす娘だろうかの」
「……帰国させ、そちらの屋敷に閉じ込めたとて、また様々な手を使ってセシルを誘惑されたのではたまらないわ。セシルももう、すっかり手懐けられてしまっているようだし。また同じようなことになるのではと、私たちはずっと不安なまま過ごさなくてはならないわね」
(……では一体、どうしろと仰っているの……?)
ティナレインを連れ戻すなと?
まさか我々に、一家でこの王国を出ろと、逆にうちの方が娘のところへ行けと、そう言いたいのだろうか。
夫がおそるおそる口を開く。
「ティナレインには、よく言ってきかせます。自分のしでかしたことの重大さを認識させ、徹底的に……」
「信用ならんと言っておるのだ」
「……っ!」
威圧感のある侯爵の声が、室内の空気を揺らす。私と夫はビクッと肩を揺らし、互いの顔を見た。今にも泣き出しそうな情けない表情をした夫が、侯爵に問う。
「どっ……、どのように娘を処罰すれば……?」
夫の言葉に、リグリー侯爵夫人がため息をつく。
「私たちにそれを聞かれましても。どうとも申し上げられませんわ。ただ私たちの望みは、セシルにこのリグリー侯爵家へ戻ってもらうこと。そして、子がセシルの子であるのならば、その子も当然このリグリー侯爵家がもらい受けますわ。男爵家の不義の娘が産んだ子を後継ぎにするかどうかは別として、リグリー侯爵家の血筋である以上は放ってはおけませんもの」
そう言った夫人はそこで一呼吸置き、こう続けた。
「お宅のしたたかなお嬢さんについては……困ったわね。戻ってこられても不安ですし。何せ幼少の頃からセシルにつきまとっていたんですもの。きっと生きている限り、これからも私たちを悩ませ続けるつもりじゃないかしら」
(……っ!!)
夫人のその言葉に、私たちはハッと顔を上げた。リグリー侯爵と目が合う。
「失踪しておよそ四年。ここに来てわざわざあの娘に、シアーズ男爵家へ戻ってもらう必要もないのではないか。いなくなった時のように、また社交界で噂話の的にされるだけであろう。そなたらとしても、男爵の不義の子など、ただの厄介にしかなるまい」
「かと言って、その娘一人をセレネスティア王国に残しておくのもね……。セシルを屋敷に連れ戻しても、また追いかけていこうとするに違いないわ。ああ、本当に困ったこと……。どこに存在していても、苦痛の種にしかならないわね、お宅のお嬢さんは」
「……つ、」
心臓が早鐘を打つ。リグリー侯爵夫妻の言わんとすることは理解できた。夫も同様だろう。大きく喉を鳴らしている。
室内が静まり返った。何度も額を拭い咳払いを繰り返していた夫が、掠れた声を発する。
「……仰りたいことは分かりました。し、しかし、その……どのように処分すれば……」
「何の話をしているのか、我々にはさっぱり分からん。……ああ、そうだ。話は変わるが、以前そなたらがその問題の娘を嫁がせようとしていた、例のダルテリオ商会だがな。相変わらず商売は順調のようだ。何でも会長が近隣諸国から様々な希少価値のある品物を買い付けてきては、富裕層に向けて積極的に販売しているらしい」
突然ダルテリオ商会の話になり、私たちは戸惑った。一体侯爵は何が言いたいのか。怪訝に思いつつも耳を傾けていると、侯爵は無表情のまま言い募る。
「店頭に大っぴらには並べていないようだが、異国の怪しげな薬なども秘密裏に取り引きしているらしい。あくまで噂だがな。効き目の強い高価な媚薬や、劇薬なんかも入手できるとか……。もちろん、正規のルートでは入手できないものばかりだ。まぁ、我々には関係のないことだが」
「────っ!」
私と夫は息を呑んだ。侯爵夫妻は感情を失ったかのような光のない瞳で、私たち夫婦をジッと見据え続ける。誰もが口を開かぬ無言の空間は、逃げ出したくなるほど異様な雰囲気に包まれた。
「……承知いたしました」
やがて夫が真っ白な顔で口を開いた。
「今後もう二度と、娘がご子息に関わることのないよう処理をいたします」
「そうか。それがいいだろう。我がリグリー侯爵家のためにも、そなたたちのためにもな。……言っておくが、そなたらが我々に与えた損害は実に大きい。今後事が上手く運ばなければ、相応の賠償金の支払いは、覚悟しておくように」
リグリー侯爵は表情を崩すことなくそう言った。その暗い瞳は、私と夫を逃げ場のない絶壁に追い詰めるかのような恐ろしさだった。




