14. 過去 ── 永遠の別れ
毎日が同じようなことの繰り返しだった。ダルテリオ商会へ赴き仕事を学び、ハーマンのいやらしい視線や言葉、気持ちの悪いスキンシップに耐え、屈辱にまみれて屋敷に戻る。そこではまるで空気のように家族に無視され、誰にも相手にされず、苦しい辛いと弱音を吐くことのできる相手さえいない中、夜になればベッドで一人涙を流した。
国内外を行ったり来たりしていたハーマンが、外国に長期の視察に行っている間に、私は十八歳の誕生日を迎えた。誰からも祝いの言葉さえかけられない虚しい誕生日は、いつもと同じように過ぎていった。学園を卒業した兄と姉は無事結婚し、次はいよいよ私の番だった。
予定では二ヶ月後に、ハーマンが帰国する。そうすればいよいよ正式に、私はあの男と夫婦になる。ようやくシアーズ男爵家からは離れられるけれど、新しく暮らす場所では、きっとこれまで以上の地獄の日々が待っていることだろう。
その日の夕暮れ時、私はいつものように勉強と仕事を終え、ダルテリオ商会の建物を後にした。辺りはすでに薄暗く、人通りもまばらだった。
少し歩いた先から辻馬車を拾ってシアーズ男爵家の屋敷の近くまで帰るのが、私の日課だった。私はいつものようにトボトボと通りを歩き、馬車の停まっているであろう広場を目指していた。
ふと前方を見ると、大きな人影があった。ほとんど日が落ちているため顔は分からないけれど、その人はおぼつかない足取りで、こちらへ向かって歩いてくる。
(……怖いな。酔っ払いかしら……)
酩酊しているような、頼りない足取り。通り過ぎる時に絡まれたらどうしよう。
鼓動が大きくなり、胃がキュッと縮むような感覚がした。……とにかく、平静を装ってスッと通り過ぎよう。
そんなことを考えていた、その時だった。
目の前のその大きな人影が、街灯にぶつかって大きくよろめいた。そしてそのまま、道に倒れ込んでしまったのだ。
「……っ、」
動悸はますます激しくなり、指先が震える。どうしよう。具合が悪いのかしら。それともやっぱり、ただの酔っ払い……? このまま黙って去ってもいいものだろうか……。
悩んでいるうちに、あっという間にその人のそばまで来てしまった。逡巡しながら前を向いたまま歩いていると、横を通り過ぎる瞬間、その人の呻くような低い声が小さく聞こえた。
「……ティナ……」
(────え……っ?)
自分の愛称を呼ばれた気がして、私は思わず倒れ込んだその人を振り返った。その瞬間、私は息を呑んだ。
「……セシル……ッ!!」
ほのかに街灯に照らされた、整ったその横顔。乱れてはいるけれど、艶やかにきらめいている金色の髪。
何を考える間もなく、私はその人に飛びついた。
「セ、セシル……! セシル……! どうしたのセシル! しっかりして……!」
「……。……え……?」
閉じていた瞳が私の声に反応し、ゆっくりと開く。そしてそのまま、彼は私の方を見上げた。
美しいアメジスト色の瞳と視線が絡み合う。私たちはしばらくの間、どちらも身動き一つしなかった。私はセシルの体に両手を添えたまま、ただひたすらに彼の顔を見つめていた。
「……セシル……。大丈夫なの……?」
「ティナ……。本当に、君なのか……? まさか、そんな……。そんなに都合の良い話が、あるわけない……」
独り言のようにそんなことを呟きながら私に手を伸ばす彼からは、アルコールの匂いがした。彼自身の甘く爽やかな香りと相まって、妙に蠱惑的に感じる。胸がいっぱいになった。セシルの手が、私の頬にそっと触れた。
「……そうか……。これは夢だな。俺の想いが見せる、幻だ……。幻なら、言ってもいいだろう? ティナ、君が恋しい。君を諦めることなど、忘れることなど、俺にできるはずがない」
「……セシル……」
「愛してるよ、ティナ。子どもの頃からずっと、君だけを想っていた。ティナ……お願いだ。君に触れさせてくれ」
「────っ!」
ふいにセシルは私の腕を引き、その広い胸の中に私を抱きしめた。
街灯の下、座り込んだ彼の腕の中に閉じ込められ、私はしばし呆然とした。そして瞬く間に、私の瞳からはポロポロと涙が溢れだした。
「セシル……、セシル……ッ!」
気付けば私は彼に縋りつくように、その大きな背中に両手を回していた。そして、決して離れることのないよう、全身の力を込めて彼を抱きしめる。
「ティナ……俺のティナ……!」
切なげに私の名を呼ぶセシルの顔を見上げた瞬間、私たちの唇は引き寄せられるように自然と重なった。
強く抱き合いながら彼の唇の熱を感じ、私はその体温に縋りついた。そして、願ってしまった。
一度だけでいい。この先どれほど、地獄のような夜が続くとしても。
あんな男に散らされたくはない。今夜だけ。せめて初めての夜を、人生でたった一人の大好きな人と過ごしたい、と。
屈辱にまみれた孤独と苦しみの日々の中、その夜運命的に出会えたセシルに、私は縋ってしまったのだった。
彼に手を引かれるまま、私は抵抗しなかった。
近くの宿に入り、部屋の中で、彼に抱きしめられた時も。
抱き上げられ、ベッドの上に降ろされた時も。
その瞬間だけ、私は何もかもを忘れようとした。ただ目の前にいるセシルのことだけを想っていたかった。そして、これから先の苦悶の人生を生き抜くために、この夜の全てを覚えていようと思ったのだった。
初めての痛みも、大好きな人の重みと熱も。触れ合う喜びも切なさも、恥ずかしさも高揚感も。
甘い時間が終わり、セシルは私を抱いたまま、幸せそうな顔をして眠りに落ちた。その腕とブランケットからそっと抜け出し、彼の顔を目に焼き付ける。そして私は、物音を立てないよう静かに服を着て、部屋を去った。
扉を閉める瞬間、また新たな涙が頬を伝った。
その後何度か届いたセシルからの手紙は、返事を書くことなく誰にも見られないよう処分した。
そしてハーマンの帰国を目前に控えたある日、私は自分が妊娠していることに気付いたのだった。
いろいろなことを悩んだのは、ほんの数日間だけだった。




