10. 二人の新生活
その後、エイマー治療院での仕事の内容やお給金についての説明を受け、併設された従業員寮や保育園を別の方から案内してもらった。
お給金はただの下働きにしては全然悪くないし、案内された寮の部屋は決して広くはなかったけれど、ユーリと二人で暮らしていくには充分だった。保育園は規模が小さく、保育士さんの数も子どもの人数も少なかったけれど、雰囲気は悪くない。少し年配の方から若い方まで、優しそうな保育士さんばかりだ。しかも寮も保育園も、この治療院のすぐそば。突然の環境の変化と、瞬く間に決まった新たな生活に心臓がバクバクしているけれど、もうこうなったら飛び込んでみるしかないと思った。ここで尻込みしていたって、ここより良い条件の生活なんて見つかる保証はない。何より治療院の雰囲気とエイマー先生の澄んだ瞳を見て、私は確信していた。ここはきっといい職場のはずだ、と。
「従業員寮の部屋は、今九割方埋まっているの。よかったねー、お部屋が空いていて」
案内してくれたポニーテールの快活な女性がそう言って、私たち親子に微笑みかけてくれた。
「は、はい。ありがとうございます」
「私も保育園に子どもを預けて、ここの治療院で受付なんかの仕事をしているのよ。夫の職場の近くに住んでるから、寮にはいないけどねっ。よかったら仲良くしてね」
彼女はそう言って、私たちを残し帰っていった。
仕事は三日後から始めることになった。やって来た初日から早速入居させてもらえることになり、私は抱えていた大きなボストンバッグ二つをその部屋に下ろし、安堵のため息をついた。前のアパートには箱詰めされた荷物がまだいくつか置いてあり、こちらの住所が決まり次第アンナさんが業者を手配して送ってくれる手筈になっている。何から何まで本当にありがたい。すぐに手紙を書いて、何かお礼の品物と一緒に送らなくちゃ。
その日はユーリと二人で部屋の掃除をし、ご近所探索を兼ねて食料品や日用品の買い物に出かけ、夜はユーリの大好きな具だくさんのポトフを作って一緒に食べた。半日以上私と二人でゆっくり過ごすことができて、ユーリはご機嫌だった。この部屋に必要最低限の家具が備え付けられていることも本当にありがたい。テーブルに差し向かいに座って、べちょべちょになる口の周りを時々拭いてやりながら、私はユーリに尋ねる。
「どう? ユーリ。ポトフ美味しい?」
「おいちい! ぱんもしゅごーくおいちい!」
「ふふ。本当ね。美味しいパン屋さんが近くにあってラッキーだわ」
「まま、ぱんがだいしゅきだよねー?」
「うん。ママは焼き立てのパンがだーい好き」
ニシシと笑ったユーリが、ポトフの中のじゃがいもをスプーンに乗せて口に運ぶ。私は安心して、また大きく息をついた。よかった……。勇気を出して王都まで出てきたものの、本当に仕事や住居がすぐに見つかるだろうかと、実はずっと不安ではあったのだ。エイマー先生に感謝しなくては。それと、アンナさんご夫婦にも。どちらも私にとって、最高の出会いだった。
一心不乱にポトフをはくはくと食べているユーリのほっぺたを見つめて幸せを噛みしめながらも、私の心はまだかすかな不安に揺れていた。このセレネスティア王国に渡ってきて約三年、せっかく慣れてきた場所や、知り合えた人々と離れ、また一から自分たちの生活を作っていかなくてはならない。全ては今後の人生のためと分かってはいても、頼れる身内や友人が一人もそばにいないというのは、なかなか心細いものだ。
ユーリのふわふわした栗色の髪や、長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳、真っ白でふくふくしたほっぺや小さなおててを見つめていると、あの人の姿が頭をよぎる。
彼が今、ここにいてくれたら。
ユーリを産んで以来、何度そう思ったか分からない。
この子が誕生した、その瞬間も。
この子が熱を出した時や、怪我をした時。不安で眠れなかった夜も。
ハイハイをはじめた時や、履かせていた靴が入らなくなって、足のサイズが大きくなったことに気付いた時。初めて「まま」と呼んでくれた時も。
この喜びをあの人と分かち合えたら、どんなに幸せだっただろうと、何度も思った。
だけど、私たちの間に、それは決して叶わぬ望みだったのだ。
「おなかいっぱーい」
「ふふ。はい。よく食べました。お利口さんね」
パンとポトフをたっぷり食べたユーリが、私を見てまたニパッと笑った。この子のこの笑顔を守っていくのは、私しかいない。弱気になっていたらダメだ。しっかりしなくちゃ。
ずっと自分に言い聞かせてきた言葉をまた頭の中で繰り返し、私はユーリの頭を撫でた。
疲れていたのか、その夜ユーリはいつもよりだいぶ早い時間に眠りについた。くうくうと小さな寝息を立てるユーリを起こさないようにベッドからそっと抜け出すと、私は静かに部屋の片付けを始めた。何せ今日引っ越してきたばかりなのだ。やるべきことは山ほどある。明日以降の買い物リストも作らなくっちゃ。
二時間ほどゴソゴソ動き回って掃除や片付けをした後、私は灯りを消して再びユーリの隣に滑り込み、そのミルクのような甘い匂いを嗅ぎながら目を閉じた。
(おやすみなさい、セシル)
あの人は今頃、何をしているんだろう。
きっともう婚約者の方と結婚して、自分の家庭を築いているんだろうな。
そんなことを思い、胸にツキリと鈍い痛みを覚える。
想うだけだから、許してほしい。
彼に対する私の恋慕は、今もこの胸の中でだけ、切なく熱く滾り続けている。




