第8話 令嬢の退院
尊が、小笠原貴弘が殺害されたことを知ったのは、朝のニュースを視聴していたときだ。
「アイツが殺された?」
あの態度では方方で恨みを買っていたかもしれない。三石瑠理香の世話係を任されている家政婦・森川英恵が彼は評判のよくない男だと言っていたのを思い出す。
瑠理香のことだから、ニュースを聞いてショックを受けているのではないか。
(メールでは変わったところはなかったな)
事件が報道されて以後、彼女からメールが届いたが、小笠原の事件については何もふれていなかった。もっとも、殺人事件についてメールでやりとりするほど彼女の神経が図太いとも思えない。
小笠原貴弘の遺体が発見されたのは五月十四日の早朝。犯行は前日の十三日の深夜。警察は、周辺の聞き込みや防犯カメラの映像を集めているようだ。報道されている情報がたしかなら、入院中の彼女に犯行は不可能だ。だが、小笠原が瑠理香との結婚を希望して病院を訪れているので無関係を決め込むわけにはいかないだろう。
「尊、どうしたの?」
朝食の支度をしていた祖母の里美が、テレビのまえで微動だにしない孫を不審に思って声をかけた。
「テレビのニュースで小笠原重工の息子が殺されたっていうからさ」
里美は眉を顰めた。
「小笠原さんの息子さんって、瑠理香さんとの縁談が持ち上がってた人ね?」
祖母に頼まれた代行の見舞いがきっかけで尊は瑠理香と出会った。それ以後、里美には瑠理香の状況を報告することにしている。祖母が亡き友人の孫娘である瑠理香を心配しているのと、尊のアドバイザーとして意見を請うためだ。
「早く犯人が見つかるといいわね。でないと、あなたまで容疑者候補になりかねないわよ」
茶目っ気たっぷりの里美が肩を竦めてみせる。尊は「なぜ俺が?」と視線で訴えた。
「あなた、こないだ彼に絡まれたって言ってたじゃない! 小笠原さんにとって、あなたは瑠理香さんを手に入れるためには邪魔な存在だったのよ」
返す言葉がなかった。里美の言うとおり、自分は目障りだったにちがいない。だからこそ小笠原は駐車場で待ち伏せていたのだろう。
しかも、尊は瑠理香を利用するなと小笠原に釘を刺した。第三者から見れば、二人は口論していたととられるだろう。
「尊、瑠理香さんは思っていた以上につらい立場に追いやられるかもしれないわ」
里美の予感は的中した。
後に所轄の担当刑事が瑠理香、尊の事情聴取にやってきたのである。
瑠理香の退院の日、妙に尊は落ち着かなかった。朝から落ち着かない様子に、祖母からは「ソワソワしてどうしたの?」と問われる始末だ。
退院は十時と聞いていたので、少し早めに鴻上総合病院の駐車場に車を乗りつけた。尊が病室まで瑠理香を迎えに行くと、すでに私服に着替えた彼女と英恵は荷物をまとめ終えていた。
「仙堂さん、おはようございます」
瑠理香は笑顔で迎えてくれたが、どこかぎこちない。オフショルダーのシャツと細身のデニムパンツ姿が意外だった。結局肩の露出を避けたのか、上からカーディガンを羽織っている。尊には妙な取り合わせに思えた。
「今回は送迎までしていただいてありがとうございます。正直助かります……田所さんに頼むのも申し訳なくて」
キャスターつきのスーツケースを手にした英恵が尊に頭を下げた。田所という名前は覚えがなかった。
「田所さんは、父の運転手だそうです。私も覚えてないんですけど」
瑠理香の話によれば、彼女の父親は運転手付きの車で会社まで通勤しているという。それ以外は車も人も暇を持て余すことになるので、家族が利用することも珍しくないようだ。運転手つきの車を利用するとは財閥の人間らしい。
「お嬢様ならともかく、私と田所さんは同じ使用人という立場ですから。送り迎えを頼むのも悪い気がして……」
「会社の経費で雇用しているわけではなく、三石家に雇われているんですか?」
尊の問いに英恵は小さく頷く。
「田所さんは以前、三石グループの会社で働いていたと聞いております。何か事情があって辞めたようですが、故郷に燻らせておくのは惜しいと大旦那様が運転手として個人的に雇われたのです」
「大旦那様ということは、私のおじい様?」
今は伊豆の別宅に住まいを移した瑠理香の祖父・伸一が個人的に雇い入れた人物であると英恵から説明を受けた。
(会社勤めの人間が運転手として再雇用……居心地が悪そうだな)
田所は年格好もわからない相手だが、どんな人物か尊は興味を持った。
「俺が田所さんの仕事を奪ったことにならないんですか?」
「いいえ。今日は旦那様の出張先に同行しているはずです。お嬢様のお迎えをどうしようかと考えていたところに仙堂さんの申し出があって……天の助けです」
それでは大袈裟すぎやしないかと尊も苦笑する。英恵は忠実な家政婦だが調子のいいところもあるようだ。
尊は、少し離れたところで瑠理香たちがナースステーションに退院の挨拶をしているのを眺めていた。礼を言い頭を下げる瑠理香をまえに看護師たちは互いに顔を見合わせ困惑している。不思議に思いつつも、戻ってきた瑠理香、英恵とともにエレベーターに乗り込んだ。
「荷物、私も持ちます!」
瑠理香がハッとして尊に申し出た。英恵が荷物をまとめたスーツケースやボストンバッグを両手に持っていたからだ。
「退院したばかりの女のコに重い荷物を持たせるわけにはいかないよ」
華奢な瑠理香に荷物を押しつけるわけにはいかない。英恵は端から瑠理香に荷物を持たせる気はなかったらしい。
「お嬢様、今回は仙堂さんのお言葉に甘えさせていただきましょう。お嬢様も今日はとくに緊張されているようですし……」
英恵の言葉で尊はあることに気づいた。記憶のない瑠理香にとって、三石家は初めて訪問する家と同じなのだ。話でしか知らない他人の家に上がり込むのと変わりない。尊同様、三石家がどんなものなのかはかりかねているのだろう。
「あまり気構えないほうがいい。なるようになるさ」
隣の瑠理香に声をかけると、困惑の眼差しで見上げられた。自宅に帰るだけなのに、やはり瑠理香は警戒しているのだ。
家や家族を。
「俺がきちんと送り届けるよ」
エレベーターが止まる。
「さあ、行こう」
尊に促され、瑠理香は開いたドアから一歩踏み出した。
成城の三石邸に到着後、尊は三石家のスケールの大きさに驚かされた。家屋の大きさではない。表門は車の接近をセンサーで感知、家の者が持つリモコンやカードキーでガレージのシャッターは可動できる。
「このガレージに駐車していいんですか?」
尊は、瑠理香と一緒に後部座席に座っていた英恵に確認をとった。ガレージは最高五台の車が駐車できるスペースが確保されている。すでにボルボやベンツが駐まっている場所に、客である自分が一部でも占領していいのか躊躇われたのだ。
「はい。奥様にも許可をいただいてありますので遠慮なさらないでください」
それを聞いて尊は内心安堵した。高級外車のとなりに自分の国産車を駐車するのは気が引けたが仕方ない。
ガレージから屋根つきの通路を通って玄関までたどり着いた。
「ただいま戻りました」
英恵に誘導されて瑠理香、尊の順に玄関の扉をくぐる。
程なくして奥から足音が聞こえてきた。
「お帰りなさい。思ったよりも早かったのね」
そう軽快な足どりで尊たちを出迎えたのは、屋敷の主である三石元基の妻で、瑠理香の母親である三石由紀だった。
「瑠理香、お帰りなさい。一ヶ月ぶりの帰宅よ」
「え、あ……」
親子の会話だというのに、瑠理香はまともな受け答えができなかった。
「奥様、お嬢様はまだ記憶が戻られていませんし、自宅に帰られてもピンとこないのでしょう」
「そうね……私ったらすっかり忘れていたわ。そちらの方が仙堂さんね」
「はい、仙堂尊です。以前祖父母に同行した際にお会いしました」
由紀の視線を受けて尊は挨拶した。あれから五年は経つのに由紀の美しさは変わっていないように見える。
「そうでしたわね。義母が生きていたら本当に喜んでいると思いますわ。相澤さんのお孫さんと瑠理香がつき合っているんですもの」
「「ちがいます!」」
尊と瑠理香が即座に否定した。
「あら、英恵さん、交際をはじめたわけではないの?」
「私がお話したのは普通の話し相手として、という意味です」
普通の話し相手とはどういうものか尊にはわからないが、由紀に誤解されていたことには確信が持てる。
「ごめんなさい、私ったら早とちりしてたわね。てっきり二人がいいおつきあいを重ねていると思って……恥ずかしいわ」
由紀は朗らかに笑って誤魔化したが、当の二人は肝が冷えた。祖母の希望もあって瑠理香の相談相手になったが、周囲に男女の関係と誤解されるのは違和感がある。年齢的に釣り合いがとれないし、財閥の令嬢を交際相手に選べるほど尊は上昇志向もない。
「娘がすっかりお世話になって……せっかくですから、おあがりになって下さい」
由紀は尊を客人として屋敷のなかへ招いた。
断る理由もなく尊は由紀の招待に応じることにした。あたりを窺えば、瑠理香も英恵も明らかに安堵している。一時的にでも尊が三石家に留まることを喜んでいるようにも見えた。
(美人母娘か)
由紀と瑠理香が並ぶとその美貌に圧倒される。だが、瑠理香の容姿は母親似とは言いがたい。彼女が言うには、父親とも似ていないという。
(瑠理香くんが考えているとおり、三石夫婦の実子でないとしたら……)
尊はにわかに信じられなかった。だが、真っ向から否定もできなくなった。母娘の目が合うと、どういうわけか母親が目を逸らす。まるで娘を避けるように。
「奥様、それでは私はお茶の支度をしてまいりますので……」
「ええ、英恵さん、お願いね」
英恵はお辞儀をしてから一度屋敷の奥へ姿を消した。
「英恵さんもこちらにお住まいなんですね」
「瑠理香が生まれる前からです。瑠理香がこうして元気でいられるのは英恵さんの協力があってこそですから」
英恵は夫と離婚した後、故郷に帰って親を看取った。親が亡くなるまでの介護生活である程度の知識を身につけたらしい。家族がいなくなった英恵は、三石家の希望通り屋敷に住み込みで働いてくれたという。
「瑠理香が生まれてからは、私が育児ノイローゼにならないよう気を遣ってくれて。本当に助かりましたわ。瑠理香は同居していた義母よりも英恵さんに甘えていたんじゃないかしら」
尊は考えた。赤ん坊のころから瑠理香を知っている英恵になら、瑠理香自身が今抱いている疑念を打ち明けられるのではないかと。
(ダメか。言わないって約束したんだよな)
英恵も含めて三石家の人間には黙っておくと瑠理香と約束してしまったのだ。簡単に反故にするわけにはいかない。瑠理香が納得できるように話し合わなければならない。
「さあ、リビングへどうぞ」
白を基調色にしたリビングは吹き抜けの天井に設けられた明かり取りの窓から十分な恩恵を受けていた。部屋全体が明るく、壁に反射した日差しがほどよく暖かい。
ローテーブルは高級そうなアンティーク商品に見える。そこに英恵がお茶を運んできた。
「お待たせしました」
英恵が淹れてきたのは紅茶で、初めて病院に瑠理香を見舞った日に出したもらったものと同じだった。
「紅茶はお嫌い?」
ティーカップの紅茶を凝視していると、由紀が心配して声をかけた。
「いえ。以前に病室でご馳走になったもので……香りがいい紅茶だと思ったものですから」
「まあ! この香りがお好み? 私が紅茶好きなんで英恵さんに頼んで一日一回は淹れてもらうんです」
賛同者に気をよくしたのか、由紀は紅茶の知識を余すことなく披露した。茶葉の種類からお湯の適温、ティーポットやカップ等由紀のこだわりが窺える。
(こりゃ英恵さんは苦労するわな)
由紀の要望に応えて紅茶を淹れる英恵は、日頃から神経を使っていることだろう。こうして彼女が淹れてくれた紅茶は申し分ないほど美味い。
「英恵さんが淹れてくれる紅茶は本当に美味しいんです。専門店で出されるものよりも香りはいいし……」
ふと瑠理香と目が合った。由紀の蘊蓄に困っているのがわかる。記憶がなくても一方的な情報の押しつけはきついだろう。
「そうだわ、瑠理香の好きなクッキーを買っておいたのよ。ちょっと待っててね」
急に席を立った由紀は、英恵と一緒にキッチンへ消えた。直後、尊と瑠理香は同時に溜息をついてしまった。




