第6話 打ち明け話
小笠原貴弘は瑠理香のいわゆる求婚者ということだ。
「彼では、君の相談に乗ることはできないのかな?」
「いけません!」
英恵が声をあげた。その剣幕に尊、瑠理香まで圧倒される。
「小笠原家のご子息方はあまり評判がよくないのです! お嬢様が興信所に調べさせた結果も同じでした」
「ご両親じゃなくて、瑠理香さんが自分で?」
小笠原貴弘に関する調査結果よりも、瑠理香が興信所に調査を依頼したことのほうが尊は意外だった。良家の縁談においては、親が相手方の身辺を調査するものだと思い込んでいたのだ。
「それで、私は縁談を断ったのね」
瑠理香は胸を撫で下ろす。記憶がないとはいえ自分の行動に正当な理由があるとわかって安堵しているようだ。
「仙堂さんも先程の小笠原様の態度をご覧になったでしょう?」
小笠原の不遜な態度は、見ている尊も不快にさせた。かといって第一印象だけで人間を見極めるのも難しい。
「お嬢様が記憶喪失なのをいいことに、三石の旦那様たちに面会しようなんて……とんでもないことです!」
話しているうちに英恵の怒りが爆発した。小笠原に「ただの家政婦」と言われたことが気に入らなかったのかもしれない。
「英恵さん、私は大丈夫よ。小笠原って人には気をつけるわ。仙堂さんだっていてくれるもの」
感情の昂ぶった英恵を瑠理香が宥める。小笠原よりも自分が高く買われていることを知り、尊は優越感を感じた。
「ところで瑠理香さん、メールには俺に聞いてほしい話があると書いてあったけれど――」
見舞いにきた理由を告げると、瑠理香の目が泳いだ。病室では話しづらい内容なのかもしれない。いち早く察知したのは英恵だった。
「気分転換に外の空気でも吸ってらしてはいかがでしょう?」
尊たちに散歩を勧め、英恵は掃除をしておきたいからと病室に残った。
「鴻上先生、こんにちは」
エレベーターの手前で、瑠理香は白衣を着た四十代くらいの男性に声をかけた。
「やあ、瑠理香さん。今日は彼氏が来てくれたのか。どうりで朝から顔色がいいはずだ」
院内のスタッフであることは明らかだ。医者にしては柔和な笑顔が似合う男だと尊は思った。
セレブのプライバシーを尊重する五階病室で、スタッフが患者と雑談する機会は滅多にない。他愛ない会話なら尚更だ。それを許されているのは院内でも責任ある立場の人間に限られている。
「そんなんじゃ……」
鴻上と呼ばれた医師の言葉に瑠理香の頬が赤くなった。
「こちらは担当医の鴻上先生です」
瑠理香が医師を紹介したので、尊もつられて自己紹介した。
「仙堂といいます。鴻上というと――」
「院長の息子です。父は身内にも厳しくてずいぶんコキ使われてますよ」
いずれ病院を継ぐ立場だろうが、小笠原のような傲慢さは感じられない。柔らかな物腰に好感が持てる。
「そろそろ退院だから、外の空気に慣れておいたほうがいいね。彼氏がついてるなら一階に降りても心配ないだろう。気をつけて行っておいで」
にっこり笑って尊たちがエレベーターに乗り込むまで見送ってくれた。
「院長の息子さんか。いい人そうだね」
「あの先生は気軽に話しかけてくれるので……気負わずに済むんです」
鴻上医師は、たしかに瑠理香が三石家の令嬢と知ったうえで、一般病棟の患者と同じように砕けた言葉遣いで話しかけていた。
「あの先生は君の相談相手になれないのかな?」
彼女の周囲には自分以外にも頼れる人間がいるとわかり、慌てて駆けつけた自分が恥ずかしくなった。
「それは、難しいと思います」
瑠理香は尊の言葉に俯き、小さくかぶりを振った。
「私が瑠理香じゃないと知ったら、さすがに応対に困ると思うんです」
隣に立つ瑠理香の発言に、尊は目を瞠る。
「君が瑠理香じゃないって、どういうことなんだ?」
瑠理香は唇を噛み沈黙した。ようやく顔を上げると緊張に強張った表情で尊を見上げる。
「今から話すことを、三石家の人には黙っていてほしいんです」
縋るような眼差しに、尊は首を縦に振ってしまった。
軽い浮遊感を覚えた直後、一階に到着したエレベーターのドアが開いた。
外来患者も利用する一階ラウンジで二人は休憩をとることにした。尊は無糖の缶コーヒー、瑠理香はカフェオレを自販機で購入する。
空いているテーブルに着くと、尊は瑠理香から入院歴と彼女の体に虫垂炎の手術痕がないことを打ち明けられた。
「手術の痕がないって……目立たなくなった、のまちがいじゃないの?」
二年前の手術痕ならば目立たないほどに回復しているかもしれない。だが、瑠理香はかぶりを振った。
「手術の痕どころか、傷一つないんです」
尊は溜息をついた。瑠理香の上着を捲り上げて傷の有無を確認するわけにもいかない。だからといって彼女が三石瑠理香とは別人という結論に飛びつくわけにもいかなかった。
「どうして俺に話したんだ? 三石家とはなんの関係もないのに」
瑠理香は手の中の缶コーヒーを凝視していた。
「関係ないからです。仙堂さんは三石家から利益を受けない人だから……」
彼女の言うとおり、尊は祖母同士が友人だったというだけで金銭は介在しない関係だ。利益重視の人間は彼女に協力する気はないだろう。人選の基準がわかり尊は納得した。
「それで、君はどうしたいの?」
尊の問いに、瑠理香が顔を上げた。くりっとした目がさらに大きく見開かれたように見えた。
「私は、自分が何者なのかはっきりさせたいんです。三石瑠理香なのか、そうでないのか……瑠理香じゃなければ、なぜこうしているのか理由を知りたいんです」
至極まっとうな主張に聞こえた。
彼女は本気だ。自分自身の身の上を疑っている。おそらく尊に会う前から悩んでいたのだろう。
「わかった。どうすれば君の疑問に対する答えを見つけられるか、一緒に考えよう」
「いいんですか? あの、私の言ってることを信じてくれるんですか?」
瑠理香は尊の言葉にもさらに驚いているようだった。尊を呼び出したものの、自分の話を信じてもらえるか自信がなかったのかもしれない。
「少なくとも、君は俺のことを信じてくれているだろ?」
瑠理香は小さく頷いた。
「だから俺も君を信じることにする」
我ながら気障な台詞を言ってしまったと尊は照れ臭くて鼻の頭を掻いた。
「ただし条件がある」
尊の要求に再び瑠理香の表情が曇る。
「何かお礼が必要ですか?」
「いや……まず君が最初にやらなきゃいけないことは、早く病院を出ることだよ」
思いがけない言葉に、瑠理香はキョトンとした。
「君が病室にいたままでは不便だ。それとも興信所に調査を頼む?」
「い、いいえ! 自分で! 自分で確かめたいです!」
身を乗り出した瑠理香の返事に尊は「よし」と頷く。
「君が体力をつけて退院するまでに、俺は今後のプランを立てる。いいね?」
「はい。よろしくお願いします!」
瑠理香は勢いよく尊に頭を下げた。
「仙堂さん。こないだから考えていたんですけど」
面を上げた彼女からは先程までの強張りが解けたように見える。そのせいか、意外な提案を受けて尊は目を瞬かせた。
「私のほうが年下なのに「さん」づけで呼ばれるのは妙な気がして……「瑠理香さん」はやめてもらえませんか?」
「ちがう呼び方というと?」
「「さん」づけに抵抗があるだけで、呼び方は仙堂さんにお任せします」
手術痕の有無を打ち明けられた時よりも頭を悩ませることになった。年下とはいえ「瑠理香ちゃん」では馴れ馴れしい。彼女は三石財閥の令嬢として扱われているのだ。かといって名字で呼ぶのも堅苦しい。呼び捨ては勿論論外である。
「とりあえず、瑠理香……くん、にしておこう」
職場で生徒の名前を呼ぶ場合、名字の呼び捨て以外なら「さん」か「くん」の二択だ。瑠理香の希望を酌むならば「くん」をつけるしかない。
「わかりました」
瑠理香は晴れやかな笑顔で返事した。
「ところで、瑠理香くんはどうやってメールを送ってきたんだ?」
「英恵さんのスマホを借りたんです。私のスマホはあるにはあるんですけど、自分のバッグに入ってるから……三石の家にあるそうです」
「そうか」
どうりでメールに相談内容を書き込めないはずだ。英恵も三石家に雇われている以上、瑠理香の抱えている疑惑を伏せておきたいのだろう。
記憶喪失の彼女にとっては自分のスマホの操作にも手こずる可能性がある。瑠理香の話では操作は英恵に教えてもらったという。
「英恵さんのアドレスでは、メールに話の詳細を書き込むわけにはいかないな」
確認し終えたところで、缶コーヒーの中身が底をついた。瑠理香も同じだったらしい。
「もうすぐ退院が近いって、さっき先生が言ってたね?」
「日にちはまだ決まってないんですけど、今月中には退院できるだろうって言われてます」
その場で解散することもできたが、尊は瑠理香がエレベーターに乗り込むのを見届けてから病院を出た。英恵が病室で待っているのだから直通のエレベーターに乗せれば問題はない。
「おい!」
駐車場に駐めた車へ戻るところを尊は背後から呼び止められた。振り返ると、英恵に追い返されたはずの小笠原貴弘が立っている。
「いい年してお嬢様のご機嫌とりか!」
敵意剥き出しの目で小笠原ががなる。尊はその姿が滑稽だと思った。仕立てのいいブランドスーツを着ていても、中身は飲み屋街の酔っ払いと変わらない。
相手は尊を三石家に取り入ろうとする輩と考えているようだ。
「自分のことを棚に上げて、ずいぶんなご挨拶だな。君も一応、社長令息だろう?」
「うるさい! 俺にはあとがないんだ……アンタなんかに邪魔されてたまるか!」
逆上した小笠原が尊の胸倉へ手を伸ばした。しかし、尊は相手の手首を捉えると後ろへ腕を捻り上げてしまう。
「な、なんだよ、おい! 放せ!」
小笠原は、尊が容易に牽制できる相手だと高を括っていたらしい。もがくほど腕が痛むため小笠原は顔を歪めた。
小笠原が過剰に喚いたことで、他の車からも好奇の視線を集めているのがわかった。
「自分の欲望を満たすためだけに瑠理香くんを利用するな」
「王子様気取りかよ……アンタは、あの女の正体を知らないからそんなことが言えるんだ」
(正体?)
会話に気をとられた尊の腕の力が緩んだ。小笠原がやっとのことで腕を振り解く。
「アンタは何もわかっちゃいないんだ。三石家の跡取りと言われている、あの女がどれほどのアバズレなのか――」
「どういう意味だ?」
眉を顰める尊を見やり、小笠原がにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「あのお嬢様につきあっていけば、嫌でもわかるだろうよ」
振り解いた腕の感覚が鈍いのか、小笠原は自分の肩を回しながら尊から遠ざかっていく。派手な赤のポルシェに乗り込むと、風のように走り去った。
瑠理香との結婚を望んでいながら、小笠原は彼女を「あの女」「アバズレ」と貶している。関心があるのは、瑠理香との結婚によってもたらされる利益だけらしい。
エレベーターの扉が閉まるまで手を振り続けていた瑠理香の姿を思い出す。
(記憶を失うまでの三石瑠理香、か――)
尊は、小笠原貴弘の車が走り去った方向をしばらく眺めていた。




