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第5話 求婚者

「なんだ仙堂せんどう、もう帰るのか?」


 その日の講義を終えて帰り支度をしていたたけるは、日ノ出予備校の経営者・高平たかひら誠一せいいちに声をかけられた。経営者といっても講師は十人に満たない小さな予備校で、椅子に踏ん反りかえって座っている余裕は全くないのが実情だ。

 高平とは大学からのつきあいである。同じ大学の教育学部だった高平とは共通の友人を介して知り合った。尊は法学部だったが、高平とは妙に気が合ってアルバイトを紹介しあったり、ふところに余裕があれば一緒に飲みにも行った。高校時代に柔道で鍛えたがっちりした体つきと比較的足が短いので、渾名あだなは「原人」と呼ばれていた。

 彼は希望通り教員免許を取得し、高校の教員として働きはじめた。彼の門出は順風満帆じゅんぷうまんぱんと思われたが、授業についていけない不安、受験勉強からのプレッシャーに追い詰められる生徒たちの姿を目の当たりにし、教師の限界を感じるようになったという。

「今の教育じゃ、生徒は学校から離れていくばかりだ」と一緒に飲みに行くたびに高平は嘆いていた。

 そんな彼が予備校を立ち上げると言い出したときは「あいつらしいな」と納得し、尊は陰ながら応援していたのだ。数年後、自分が同じ職場に引き抜かれるとは夢にも思わなかったが。


「一杯どうだ? 久しぶりに熱く語り合おうぜ」

「今日は車なんだ。また今度にしてくれ」

「車とは珍しいな。何かあったのか?」


 高平の問いに、尊はこれまでの経緯を掻い摘まんで話した。


「本気でお嬢様とお友達ごっこをはじめる気じゃないだろうな?」


 自分から望んだことではない。しかし、森川英恵の言いぶんでは、瑠理香には話し相手が必要だという。それに尊は、不安そうな彼女を放っておくことはできないと思った。


「おまえ、お人好しだからなぁ。逆玉ぎゃくたまに乗ることになったら是非ぜひとも彼女を紹介してくれ」


 半ば呆れている高平に送り出され、尊は腕時計で時間を確認する。車を駐めた場所が近所とはいえ、長時間の駐車料金はばかにならない。

 尊は自家用車である白のプリウスを迎えに、コインパーキングへ急いだ。


 カサブランカ麻布あざぶ。名前だけを聞くとスナックとまちがえられそうだが、低層マンションの建物名である。名前の由来は、百合の品種で最もカサブランカが好きだという妻の言葉をヒントに相澤あいざわ聡太郎そういちろう、今は亡き尊の祖父がつけたと後から聞いた。

 自宅マンションに帰った尊は、高平に話したとき以上に鴻上総合病院での出来事を詳しく祖母・里美に説明した。


「記憶をなくしてしまうなんて瑠理香さん、本当にお気の毒ねぇ」


 瑠理香の現状を知った里美の表情は暗い。やはり亡き親友の孫娘のことが心配なのだろう。


「尊。私からも頼むわ。瑠理香さんの力になってあげてね」

「できるだけのことはするけどさ――」


 英恵にも話し相手になると言った以上何もしないわけにはいかない。その場の口約束、社交辞令だからと知らん顔で通せるほど尊はドライな人種ではないのだ。


(あんなに怯えているコを放っておけるものか)


 病室での瑠理香の姿を思い出すと、彼女に協力しようと俄然がぜんやる気がみなぎってくる。


「瑠理香さん……心細い思いをしてるでしょうね。ところで、なぜ瑠理香さんは階段から落ちたの?」

「理由までは聞いてない。本人が覚えてないんだから」


 里美は「それもそうね」と納得した。尊自身は英恵がつぶやいた言葉がずっと気になっている。英恵はなぜあんなことを言ったのか。


「ばあちゃん、記憶を失ったほうがよかったなんて、そんなことがあるんだろうか」


 孫からの問いに、里美は飲んでいたコーヒーのマグカップを両手で包み込み考える。


「そうねぇ……本当に悲しくて、つらい目にあっていたとしたら、すべて忘れてしまいたいと思うかもね」

逃避とうひってことか」


 瑠理香はどんな状況に追い込まれていたのだろうか。自分が何者かわからないほうが楽だというのか。

 かばんのなかからスマホの振動音が聞こえる。

 未登録のアドレスからのメールが一通届いており、件名には「三石瑠理香です」とあった。


 聞いてもらいたいことがある、という瑠理香からのメールを読んで尊は返信を躊躇ためらった。

 夜中にメールを送りつけたことを詫びたうえ、見舞いにきてくれた礼まで添えられている。尊をオジサン呼ばわりしたお嬢様とは思えない低姿勢な文面だった。


「メールで話すにはデリケートな問題なので直接話を聞いていただきたいのです。またお時間をさいていただけないでしょうか?」


(病院で会ってから二十四時間も経ってないんだがどういうわけだろう?)


 記憶を失った彼女に協力するつもりでいる尊だが、自分のなかのもう一人の尊が冷静な言葉を放つのだ。

 なぜ自分なのか。尊はそれがわからなかった。たとえば同性や、年齢が近くて瑠理香が話しやすい人間のほうがいいのではないかと疑問が残る。

 瑠理香の付き添いであり、三石家の家政婦・森川英恵が言うように彼女には話し相手が必要なのだろう。自分でいいのだろうかという迷いが生じた。

 だが、彼女からのメールの最後の言葉を読み、迷うだけ無駄だと悟る。


「今、私の話を真剣に聞いてくれるのは仙堂さんだけだと思います」


 冒頭の挨拶よりも砕けた言葉づかいだ。彼女の抱える問題は、周囲の人間にとりあってもらえないような内容なのか。

 迷いよりも、好奇心のほうが勝った。


「尊、どうしたの?」


 身動ぎせずにメールを読む孫を不審に思ったのか、里美が声をかけた。


「彼女だよ。三石瑠理香。何か深刻な悩みがあるらしい。俺に聞いたもらいたいことがあるってさ」

「あなた時々生徒さんの悩みを聞いてあげることがあるじゃないの。やっぱり適任ね……話しやすい相手ってわかるものなのよね」


 祖母の言葉に、思い当たることがいくつかあった。予備校では成績や受験対策に関して生徒から相談されることが多い。相談を受ける生徒の男女比率は半々。そこそこ話のわかる大人として信頼されているらしい。


「教育者として見られてるのかな」


 苦笑する孫に、里美は苛立ちさえ覚えたようだ。


「何言ってるのよ。あなたのことを頼もしい大人として見てくれているんじゃないの!」


 尊は目からうろこが落ちるような気がした。



 二度目の面会は三日後に設定された。できるだけ早く尊に話をして意見を聞かせてほしいというのが瑠理香の希望だった。記憶が戻らない彼女の焦りもあるのだろう。

 やはり三石家から事前に話を通しているらしく、二度目の訪問ではナースステーションでの確認さえ省略された。

小笠原おがさわら様、お嬢様もお疲れのようですから……このへんで」

「そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。別に瑠理香さんをとって食おうってわけじゃありませんよ」


 瑠理香の病室のほうから鋭い声が聞こえてきた。英恵の声だとすぐにわかったが、前よりもかたい印象を受けた。男性への対応に困っているようだ。


「あなたはただの家政婦でしょう? 瑠理香さんの交友関係に立ち入る権利はないはずだ。それともご家族から見舞い客を追い返すように言われているんですか?」

「そ、そんなことは……」


 廊下の角で二人の姿は遮られていたが、強気な男性の口調に英恵が圧されていのがわかる。


「こんにちは」


 やむを得ず尊は死角から出て、病室の前で押し問答をしている両者の前に近づいていった。


「仙堂さん!」


 英恵は「助かった」と言わんばかりの笑顔を見せた。英恵に向かって高圧的な言葉を吐いていた男と目が合った。

 年は二十代後半くらいだろう。仕立てのいいスーツに身を包んでいるが、どこか不釣り合いな感じがする。英恵の態度から見て、彼は瑠理香にとって招かれざる客らしい。

 小笠原と呼ばれた男は尊と英恵を見比べる。次いで睨みつけてきた小笠原を、尊はとりあわないことにした。


「すみません。約束の時間に遅れてしまって……瑠理香さんのお加減はいかがですか?」

「ええ、経過は順調です。今日はずっと仙堂さんがお越しになるのを心待ちにしておいでで――」


 まったく相手にされていないことに男は驚いている。


「ちょっと待ってくれ! 僕を追い出してコイツを瑠理香さんに会わせるつもりなのか?」


 英恵は尊を病室のなかへ招き入れる。 


「仙堂さんは事前に面会を申し込んでいただいてます。瑠理香お嬢様も了解済みですよ。突然病室に押しかけてくる方とはわけがちがいます!」


 英恵は病室の扉をピシャリと閉めた。


「仙堂さん、ありがとうございます。本当に助かりました」


 英恵が申し訳なさそうに尊に頭を下げる。

 ベッドから起き上がっていた瑠理香も同じように礼を言った。


「あの人……勝手に病室に入ってきて、私の退院後に三石の実家に挨拶に行きたいなんて言っていたんです」

「挨拶? 彼とは知り合い?」


 聞いてしまってから、尊は自分の失言に気づいた。記憶のない彼女に確かめようもない質問だ。代わりに英恵に視線を移す。


「以前、小笠原様とは縁談があったと伺っています。けれど、お嬢様はキッパリと断わられたんです」

「私から断ったの?」


 瑠理香はギョッとして身を乗り出した。英恵は溜息をついてから事情を話しはじめた。


「あの方は小笠原おがさわら貴弘たかひろ様といって、小笠原重工社長のご次男です。三石財閥からの支援を確実にするためにお嬢様との結婚を望んでいらっしゃいます」

「それは政略結婚ってことですか?」


 尊は思わず英恵に問い質した。英恵は間を置かずに大きく頷く。


「実家への支援を取りつけたいのでしょうが、それだけではないようで……」


 英恵は躊躇いつつも説明を続けた。


「会社はご長男が継がれるようですから、ご次男の貴弘様はトップには立てません。ですから、娘婿として三石家に入りこもうという狙いがあるのではないでしょうか」

 瑠理香との縁談は、家同士の政略結婚と小笠原本人の野心が絡んでいるということだ。


「そんな結婚……幸せなのかしら」


 瑠理香は愕然がくぜんとした。


「瑠理香お嬢様は端から相手にしませんでした。自分の結婚が誰かに利用されることを嫌っておいででしたから」


 財閥令嬢ざいばつれいじょうの瑠理香は、結婚相手には困らないようだ。だが、立候補するのが小笠原のような野心家やしんかばかりだとしたら……考えただけでも尊は不愉快になった。

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