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第4話 闇のなか

瑠理香るりか……瑠理香!」


 女性の声が聞こえた。何度も同じ名前を呼んでいる。


(誰……?)


 彼女は意識を取り戻したと同時にひどい頭痛に見舞われた。頭だけじゃない。体のあちこちが痛くて、まぶたを持ち上げることさえ苦痛だった。

 それでも、呼びかける声の正体を知りたくて必死で目を開けた。ぼんやりとぞうを結んだのは女の姿だ。顔も判別できない。


「瑠理香!」


 見分けもつかない女性が、声の主であることはわかった。


(るり、か……?)


 この時、彼女は肝心なことに気づいていなかった。呼びかけてくる相手の正体はおろか、自分自身が何者なのかわからなくなっていたことを。


「瑠理香、わかる?」

(いいえ、わからない)


 声も出なかった。呼びかけにも応じることができない。とにかく、意識を保つこと自体苦痛だった。


(わからない……)


 再び彼女の意識は闇に呑み込まれた。


 自分が三石瑠理香という人間であることを知らされたのは、さらに二日後のことだった。完全に意識を取り戻し、視界もクリアになると人の区別がつくようになった。

 医師の診察を受けた彼女は、逆行性ぎゃっこうせい健忘症けんぼうしょうという診断を受けた。すぐに思い出せなくても、ふとしたきっかけで記憶が戻る可能性はあるという。焦らずケガを治すことを優先するように指導された。


 自分に呼びかけてきた女性は、「母親」だという。

 母親の三石みついし由紀ゆきは、五十代にしてはたぐまれ美貌びぼうの持ち主だった。切れ長の目にスッと通った鼻筋。艶やかな黒髪は地毛らしい。


 由紀は、娘が病院に搬送された直後は面会時間が許す限り付き添っていた。娘を案じて離れがたいのだろうと周囲は同情をしめしたものだ。ところが、瑠理香が意識を取り戻し、ベッドから体を起こせるまでに回復すると由紀が見舞いに来る回数は極端きょくたんに減ったのである。面会にやってきても、瑠理香が意識を失っていた間ほどの熱心さはなかった。

 母親が顔を出すことが減り、三石家の家政婦という英恵ふさえが世話を焼いてくれるようになった。英恵は瑠理香が生まれる前から三石家で働いていたらしい。

 自分が気に障ることでも言っただろうかと考えたが、英恵がすぐに否定してくれた。


「ずっとお嬢様につきっきりでしたから、奥様もお疲れなんですよ」


 回復するにつれて病棟内の移動手段が車椅子から松葉杖まつばづえに変わっても、瑠理香の記憶が戻る気配はない。

 その頃から、鏡に映る自分の姿を観察することが増えた。

 特徴のある顔立ちと思えなかった。唯一チャームポイントと言えるのは、ぱっちり開いた二重ふたえの目だ。茶髪は根元までキレイに染まっているので、最近染めたばかりなのかもしれない。瑠理香にはそれさえ記憶にないのだが……

 英恵が三石邸から持ってきてくれたアルバムのなかには、自分と母、そして父親である三石みついし元基もときの三人が写っている家族写真があった。


 中学校の入学式に校門の前で撮影されたものだ。


「英恵さん、私はどちらに似ているのかしら……父にも、母にも似ていないけど」

「そんなことはありません。どちらにも似てますよ」


 母親は人の目を引きつけるほど美人だし、父親も面長だがバランスのいいパーツの配置で、女性にモテる気がする。

 しかし、自分は両親に似てるとは思えなかった。両親の間に自分が無理矢理にコラージュされたようで違和感を覚える。母親の由紀はともかく、入院してから父親と対面していないことが、家族という繋がりを他人事ひとごとのように思わせるのだ。

 三石グループの重役である父親は仕事に追われて面会にさえこない。だが、多忙たぼうでただの一度も病院に顔を出せないというのは大袈裟おおげさ過ぎやしないか。

 それとも、自分に会いたくない理由があるのだろうか。


「私……退院したら、どこに帰ればいいのかしら?」

「どこって、三石のお家に決まってるじゃないですか!」


 英恵は当然とばかりに答えたが、瑠理香は「家」という言葉に抵抗さえ感じた。同時に退院が決まることが怖くなったのだ。日に日に自分という人間がわからなくなっていった。


「なんだか人が変わったみたいよね。あのお嬢様」


 気分転換に病室から出た日のことだ。瑠理香の病室がかど部屋だったため、部屋を出た直後には瑠理香の姿はナースステーションから死角に入っていた。


「そうねぇ。三年前だったっけ? 虫垂炎ちゅうすいえんで緊急入院した時はワガママ言い放題だったものね」


 瑠理香は思わず息を潜めて聞き耳を立てた。自分の知らない自分。記憶喪失に陥る前の三石瑠理香を知る人間が病院内にもいたのだ。


「病院食が不味くて食べられないだの、友達の面会は確認手続き飛ばせだの、本当にやりたい放題だったのよね」

「そうそう! ちょっとでも気に入らないことがあると、看護師名指しで院長にクレーム入れたりして、こっちはいい迷惑よ。ここはホテルじゃないんだから。術後じゅつごの経過も良好だったんだからさっさと退院してくれればいいのに」


 噂の当人が聞いているとは露知らず、看護師二人は自分たちの記憶を掘り出しはじめた。

 看護師たちの愚痴ぐちを要約すると、三年前に入院した際、瑠理香は三石家の跡取りという立場をいいことに病院へのクレーマーと化していたらしい。

 どうりで定期的に顔を出す看護師たちの態度が余所余所よそよそしいはずだ。それに親戚筋しんせきすじの見舞い客は来ても、瑠理香の友人という人間は訪ねてこない。


(私、友達もできないほど、ひどい人間だったんじゃ……)


 周囲から煙たがられても仕方がない。両親も同じように自分を避けているのではないか――瑠理香は、すべての元凶は自分なのではないかと考えるようになった。


「英恵さん、私……英恵さんにも嫌な態度をとっていたの?」


 一度生まれた疑惑は自分のなかで膨れ上がり、瑠理香は黙っていられなくなった。英恵は母・由紀と入れ替わるようにして瑠理香に付き添ってくれている。仕事とはいえ、行き届いた英恵の心遣いに感謝しているし、母親よりも本音で話せる相手になっていた。


「前にもここに入院したことがあったのよね?」

「はい。虫垂炎で手術を受けたんですよ」

「この病院で聞いただけでも、私はまわりの人を不愉快にしていたみたい。いつもよくしてくれる英恵さんにまでひどいことを言ってたとしたら……」


 誰彼だれかれかまわず当たり散らしていたとしたら、自分自身を嫌悪けんおしてしまう。


「お嬢様は口下手なところがあります。思ったように気持ちを伝えられないんです。でも、本当は優しいお方で、私のことも気にかけてくれていました」


 英恵は瑠理香の目を見て断言した。それに加えて英恵らしい注文をつける。


「お嬢様、今はケガを治すことに専念してください。体調が回復すれば自然と気持ちにも余裕が出てくるはずです」

「英恵さん……ありがとう」


 礼を言いながら、彼女の言葉が本心であってほしいと瑠理香は心から願った。


(私は人としてまちがった生き方をしてきたの?)


 瑠理香は記憶とともに、自信まで失ってしまったのである。


 そんなときにだった。仙堂尊せんどうたけるという人物が現れたのは。

 仙堂尊は亡き祖母の友人・相澤あいざわ未亡人の孫で、彼女の代理で瑠理香の見舞いにやってきたという。

 彼が三石家から恩恵おんけいを受けていない人間であることが、いち早く瑠理香の警戒心けいかいしんを解いた。


 本人に確かめたわけではないが、年の頃は三十代半ば。院内の医師や男性看護師たちよりも背が高い。転倒した瑠理香を抱き起こしてくれた際、その長身に驚き、ぽかんと見上げてしまうほどだった。どこか頼りなさそうな優男やさおとこだが、彼の話を聞いていると心が和んだ。尊の話から彼の生活感が感じられるからだろう。英恵から聞く三石グループの話よりも想像力を駆り立てられた。


「よけいなことだとは思ったんですけど、またお越しいただけるよう仙堂さんにお願いしておきました」


 仙堂を見送りに出た英恵が笑顔で戻ってきたのだ。その笑顔が妙に潑剌はつらつとしている。

「え……どうして?」

「私は、あの方のお話をもっと聞いてみたいと思いました。お嬢様もそう思いませんでしたか?」


 瑠理香は自分の気持ちを見透かされたようでドキッとした。どぎまぎしながら「それはそうだけど」と同意してみせる。


「でも、あの人忙しそうだし……来てくれるかしら?」

「ダメで元々って言うじゃないですか! 何もしないよりはマシですよ」


 英恵はずいぶん自信がある様子で、瑠理香に白い紙片を手渡した。

 名刺だ。


 日ノ出予備校 講師 仙堂尊


 予備校の住所、連絡先には電話・FAX、メールアドレスも記されている。裏を返すと手書きで携帯の電話番号まで書かれてあった。


「携帯の番号まで書いてもらったの?」

「仙堂さんが自分から書いてくれたんですよ。あの方、性格も良さそうだし……お嬢様の話し相手にピッタリだと思います!」


 英恵はたしかに気が利く。だが、あまりの行動力に瑠理香は舌を巻いた。


(あの人……本当に来てくれるかしら?)


 電話番号を知らせてきたということは、こちらから連絡をとる必要がありそうだが、社交辞令だとしたら――


「お嬢様からお願いすればきっと会って下さいますよ」

「!」


 またしても心を読まれたような気がして瑠理香は顔が熱くなった。


「それと今日はシャワーの許可が出てますよ」


 英恵はナースステーションからの言伝を思い出したらしい。頭を打っている瑠理香は、シャワーを浴びることが許されなかった。足の回復に合わせてその回数は増えてきたが、毎日というわけにはいかない。


「シャワーが使えるだけでもありがたいわね」


 シャワーを浴びている間に患者の体調が急変する可能性があるので個室にはシャワー室は設置されていない。ナースステーションわきに二室だけ設置されている。

 石鹸せっけんやボディーソープの類いは、患者が用意することになっていた。


(前に入院したときも、こんな風にシャワーを浴びたのかも……ダメだ。何も思い出せない)


 夕方、予定通りシャワー室の利用を許された。

 シャワーの飛沫に打たれながら、何度思い出そうとしても、失われた過去の糸口は見つからない。他人の会話から得た情報だけが頭のなかを駆け巡る。


(前は虫垂炎で入院したって言ってたのよね)


 虫垂炎。看護師たちの話を思い出して瑠理香はハッとした。


「緊急入院して手術を……」


 自分の白い腹部を恐る恐る確かめる。

 手術の痕跡こんせきと思われるものは一切見当たらない。注意深く観察したが、女性の柔肌やわはだには傷一つついていなかった。


(なんで? 私……手術、したんでしょう?)


 記憶がないうえ、事実とも符合ふごうしない。体に残っているはずの証拠がないのだ。


「どうなってるの?」


 その日以来、彼女は同じ疑問を何度も自分に投げかけることになった。

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