90. 死んでる……?
「ミランダ様、もしご気分が優れないようでしたら、香木を焚かれますか?」
「――そうね」
ドナテラから贈られた香木を気に入り、何度も焚いていたのを覚えていたらしい。
侍女は香炉に火を灯し、そっと寝室をあとにする。
偽物がベッドに身を沈めると、ふわりと白檀の香りが広がった。
「もし皇帝陛下の体調が回復されれば、『ミランダ』として謁見を……?」
偽物である自分が『ミランダ』と称し、大衆の面前で、大公女だと名乗りを上げる、ということだ。
あの『ミランダ』が、すぐさま手を挙げるはずだったのに。
目論見が外れ、思い通りにいかない展開に吐き気すら覚えるが、落ち着いた香りが、張りつめていた気持ちを少しだけ和らげてくれる。
――そう思ったのは、最初だけだった。
「……ッ」
頭の奥に、鈍い痛みが走る。
軽い違和感。けれど時が経つにつれ、その痛みはジワジワと身体を侵食するように広がっていく。
鼓動に合わせてドクドクと脈打ち始めたソレはやがて、こめかみが割れるような痛みに変わった。
「……なに、これ……?」
鼻腔をくすぐる香りは相変わらず穏やかで、だがその奥に、ごくわずかだが刺激を伴う何かが混じっている。
「息が……ッ」
助けを呼ばなければと立ち上がり、覚束ない足取りで寝室を出る。
だめだ、まっすぐに歩けない……!!
よろめく身体を支えようと腕を伸ばすが、宙をさまよい、何か硬いものに触れた。
陶器の花瓶がグラリと傾き、ゆっくりと床へ――。
ガシャン、と音を立てて砕け散った陶片は、床一面に飛び散り、素足のまま踏み出した足裏が、鋭い陶片を踏み抜く。
物音に気付いて先程の侍女が戻ってきたのだろうか、コンコン、と扉をノックする音がした。
まさか、という思いとともに、ゾワリとしたものが背筋を這う。
偽物の脳裏を過ぎったのは、どこかで見たような……けれど思い出せない侍女の顔。
「……逃、げ…………」
側仕えの貴族たちが暮らす、皇太子宮の敷地内。
口にするもの、身につけるもの――すべてに暗殺の危険がつきまとうセトの日常で、信頼できる者だけを集めて構成されたこの区域では、徹底した『安全』管理がなされていたはずだった。
この帝国で唯一、気を休めて過ごせる場所だと聞いていたのに。
「逃げ、……なけ、れ、ば……」
ノックされた扉とは反対側にある窓を、手探りで探し当てる。
ここは二階。そんなことは分かっている。
でもあの扉の向こうは、もはや『安全』ではないのだ。
一刻も早く逃げなければと錠を下ろし、偽物はバルコニーから身を乗り出して、そのまま石畳へと飛び降りた。
軽やかに着地すると同時に、反射的に身を低く屈める。その動きは洗練されていて、とても育ちの良い令嬢には見えなかった。
逃げなければ……でも、一体どこへ?
この状態で皇太子宮に駆け込めば、騒ぎになるのは目に見えている。
かといって第三皇子の息がかかった者に見つかれば、今度こそ殺される。
どこに逃げたらよいかも分からない状況下、のほほんとした王女の顔が、ふと脳裏を過ぎった。
地味な印象は拭えないが、所作のひとつひとつに品があり、親しみを感じさせる王女ドナテラ。
その傍らには、やたら体格のいい侍女と、見るからに歴戦の騎士と分かる男が控えていた。
そして噂の本物らしきミランダはというと、殺戮ゲームの提案中に、まさかの「想い人への告白」をやってのける始末。
偽物だと分かっていてもなお、殺意どころか、害意すら向けられなかった。
視界は歪み、呼吸すらままならない。
それでも、――まるで引き寄せられるように、偽物はその館を目指していた。
***
気が滅入るような会食を終えた数日後。
殊更に夜が深まり、ドナテラ達が部屋で人心地ついていた、その時だった。
不規則に草を踏む音が、ミランダ達の耳へと届く。
静かにするよう、目で合図をしたヴィンセントの手が、反射的に剣柄へと伸びる。
「……正面扉ですね」
しばらく息を殺し、外の気配に神経を集中させていたヴィンセント。
コニーもまた椅子に立てかけていた剣へと手を伸ばした。
ミランダたちを背後に庇い、足音を忍ばせながら、エントランスホールの扉へと向かう。
音を立てないよう、ゆっくりと取っ手に手をかけ、慎重に扉を押し開けた。
「――!?」
ヴィンセントが周囲を確認し、だが珍しく動揺している。
こんな時間に一体誰が?
夜更けの訪問者を確認すべく、ミランダは大きな肩越しに背伸びをし、ひょいっと顔を覗かせた。
「あら?」
下向けたミランダ達の視界には、殺人の事件現場よろしく倒れている偽物の姿。
苦悶に歪んだ顔には脂汗が滲み、その肩が苦し気に震えている。
「すぐに中へ。皇太子殿下には、こちらに泊まるとだけ連絡してちょうだい」
だがよりによって、なぜここで……?
理由は不明だが、騒ぎを大きくしたくない。
外傷はなく、どうみても毒。
瀕死と言っても差し支えない状態である。
吐く息は熱を帯びながら浅く、切れ切れに口端からこぼれ落ちた。







