68.ミランダの決断
「思ったよりも早かったな」
長い廊下の先にある王の執務室で、山積みの書類からクラウスが顔を覗かせる。
グランガルド、アルディリア、そしてファゴル大公国。
三国が同盟を結ぶ調印式の朝、ミランダは謁見を願い出た。
座るよう促され、ミランダの固定席となりつつあるソファーへと腰掛ける。
「シェリルから報告は受けたか?」
「いえ、昨日は遅くまで外出されていたご様子。本日調印式の後、お話を伺う予定です」
ペンを走らせながら問い掛けられ、ミランダは小さく首を横に振った。
「そうか。俺もまだ詳しくは聞けていないが、良い方向に話が進んだようだ」
「それでは……!?」
わくわくと目を輝かせ、ミランダはソファーから身を乗り出した。
「新しい国の王妃が決まったぞ。ミランダ、よくやったな」
「まぁ! それは良い報せです!! シェリル様が……そうですか」
頬を染め、我が事のように喜びはしゃぐミランダへ目を向け、クラウスは頬を緩ませる。
促されるまま部屋続きのテラスへと足を運ぶと、気持ちの良い風がミランダの頬を撫でた。
「ここに来るのは久しぶりです。自白剤を盛られた翌朝に突然呼び出され、軽食を出されたのには驚きました」
「ああ、そんなこともあったな」
いつの間にか雨季も終わりに近付き、晴れ間がのぞく。
二階のテラス席から一望出来る庭園は、以前と同様花々が咲き乱れ、まるで絵画の一部を切り取ったかのように美しい。
「……今回はガルージャを退ける事が出来たが、年々国力が増し、領土を広げ続けている。国境を接する我が国は、今後も侵略の憂き目にあうだろうな」
クラウスもまた過ぎた日々を思い起こしたのだろうか、手すりに触れ庭園を見下ろすミランダの隣に立ち、ポツリと呟いた。
「だが三国の同盟が為せたのは僥倖だった。ガルージャはともかく、大国アルディリアが控えている以上、インヴェルノ帝国が我が国へと攻め入る事は出来ない」
「いっそのこと帝国と停戦協定を結んでは如何ですか? 貴国は今、国力の蓄えが必要……内政に力を入れるべき時期です。一方帝国は熾烈な後継者争いが続いており、今回のように漁夫の利に乗るならともかく、正面から攻め入る体力はもうありません。良い頃合いかと」
ミランダの言葉に思うところがあったのか、クラウスは喉を鳴らして笑った。
「お前の発想は、為政者のソレだな」
「しがない大公女の戯言ですが、お褒めに預かり光栄です」
「何がしがない大公女だ、まったく……昨日、三国で結ぶ同盟条約について最終確認をしていたのだが、その際アルディリアの王からも同様の提案があった。実は俺も考えていた事だ」
庭園を彩る花々の仄かな香りが風に乗り、ふわりと優しく鼻腔をくすぐる。
ミランダは遠くを見つめるクラウスの横顔に、そっと視線を走らせた。
「停戦協定の草案は複数国間での調整が必要なため、それなりに時間を要するだろう。加えて戦後処理や新たな人員配置、新国家の構想も練らなければならない。以前早くて半年と伝えたが、恐らくこの様子だと、落ち着くまで一年近くかかりそうだな」
難儀なものだ、とクラウスは独り言ちる。
「カナン王国は引き続き従属国とし、ドナテラ王女は本人の希望により、グランガルドへ身柄を移すことになった。どのような立場で過ごしてもらうかは今後検討が必要だが、そもそも皆名ばかりの側妃。お前の結論に依らず水晶宮は廃し、側妃の身分からは解放する予定だ」
口をつぐみ、ミランダは揺れる木々を見つめる。
さざめくような葉の音が、優しく二人を包み込んだ。
「お前がファゴル大公国を治めれば、きっと素晴らしい国になる」
グランガルドで初めて相見え、喉元へと剣を突き付けられた時には、こんなに穏やかな時間を過ごせるとは思いもよらなかった。
「代わりの後継を今から育てるのは、さぞ大変だろうな」
饒舌ではないはずの彼がミランダを気遣い、どんな答えを出してもいいように、懸命に言葉を紡いでくれる。
弱音を吐く場所もなく、泣くことも許されず、ただ強くあらねばならない大国の王。
だが支えて貰わずとも、大国を治めるだけの力が彼にはある。
「……短い間でしたが、陛下と共に過ごし、どのような方か少しは分かっているつもりです。信頼に足り、理知に富み、諫言を受け入れる度量もございます。貴国は今後益々、隆盛を誇っていくことでしょう」
並び立つ王妃がミランダである必要はないのではないか、それよりもファゴル大公国の行く末を案じるべきではないのか。
ずっとずっと、考えていた。
「――そこに、お前はいるのか?」
ミランダの言葉に、クラウスは顔を強張らせる。
握りしめた大きな拳。
戦いに明け暮れ、傷だらけの指先が微かに震える。
シェリルのように身を焦がす愛情がどんなものか、自分にはまだ分からない。
必要とあらば祖国の為、すべてを犠牲にする覚悟を以て日々臨んできたというのに、なぜこんなにも迷うのだろう。
自分がいなくなれば時を経ず、代わりの女性が隣に立つのは分かっている。
だがそれを想うと、なぜこんなにも悲しい気持ちになるのだろう。
緊張で顔を強張らせたクラウスと、視線が交差する。
相変わらずの怖い顔――でも、大切なものには身を惜しまないと告げた、彼の言葉がミランダを甘く揺らす。
「お前は特別大切にしてやる、でしたっけ」
耳を欹てねば聞こえない程の小さな呟きは、クラウスには届かない。
訝し気に眉間へ皺を寄せる彼の姿が、何だか可愛く見えてくる。
そんな自分に驚いて、ミランダは心を落ち着かせるように目を伏せ……そしてふと良い考えが頭を過ぎり、小さく口元を綻ばせた。
「――――はい」
またしても吐息かと思える程の、小さな呟き。
聞き取ろうと向き直ったクラウスの大きな身体に、ミランダはぎゅうっと抱き着いた。
「はい。――陛下の、おそばに」
駄目だと思っていたのだろう、驚きに目を瞠るクラウスの瞳が次第に湿り気を帯びてくる。
揺れる葉の音以外は何も聞こえない、二人だけの静かな時間。
逞しい腕が躊躇うようにゆっくりと、ミランダの小さな身体を優しく優しく包み込んだ。
「大切にする」
先程のミランダ同様、聞き取れない程の小さな答え。
微かに震えるその声は、吹き抜ける風に運ばれ、湿った空気に染み込むように溶けていった。







