104. 立ち回りの上手さは、まったく見事というほかない
山道を抜けて迂回し、ティールへ辿り着いたのは、ラゴンを発ってちょうど一日後の夜だった。
広い街道の両脇には、隙なく区切られた整形地。
三大都市のひとつ、それも商業都市ということで活気ある夜景を想像していたのだが……陽が沈んだばかりだというのに、わずかな明かりも見られない。
検問のある正規の街道を避け、裏手側へ回ったはいいが、行商人どころか荷馬車ひとつ見当たらなかった。
「……静かすぎるな」
山際から見下ろすティールは息を潜めるかのように静まり返り、裏門はピタリと閉じられている。
「夜半の往来に紛れて入れれば良かったのですが……難しそうですね。これほどに静かなのは、皇帝陛下の一件があるからですか?」
「いや、わたしの件を差し引いても往来がなさすぎる」
ミランダの疑問を否定するように、セトはゆっくりと首を振る。
裏門の両脇には三名の兵士が立ち、眠気に負けたのか、一人はあくびを噛み殺し、もう一人は槍を杖代わりにもたれている。
街中の様子とは一転し、なんとも緊張感のない裏門の兵士達。
三人目は休憩中だろうか、木箱に腰かけ、レタスたっぷりのサンドイッチを頬張っていた。
「……ここで待っていろ」
告げるなりミランダを木陰へ押しやると、セトは返事を待たず馬の手綱を放した。
美味しそうなサンドイッチを見つけ、馬が喜びに嘶くと同時に、兵士達が身構える。
「う、馬!?」
走り続けてすっかり空腹……呑気にポクポクと歩み寄り、休憩中の兵士が持っていたサンドイッチに鼻先を突っ込んだ。
「お、おい待て、これは俺の――」
慌てふためく兵士から、悲鳴とも抗議ともつかぬ声が上がる。
混乱する場に乗じてセトが飛び込み、欠伸をしていた最初に兵士の首筋を打った。
「……ッ!」
鈍い音とともに小さな呻きが漏れ、抵抗する間もなく崩れ落ちる。
もう一人の兵士もまた、ゴッという鈍い音とともに、剣を抜くことなく地に崩れ落ちた。
――無駄のない動き。容赦もない。
残るはサンドイッチを奪われた兵士だけだが、呆然と立ち尽くし、パンの切れ端を握りしめている。
セトは音もなく背後に回り込み、むき出しの剣先を兵士の喉元に押し当てた。
「……ティールの領主は、まだ皇太子派か?」
低く、押し殺した声。
夜気がひやりと兵士の肌を撫で、刃先の冷たさに喉がびくりと震えた。
「は、はいっ!?」
「答えろ」
「し、信じております! 我らは殿下のご無事を……!」
「なら、いい」
剣が引かれ、兵士は糸の切れた人形のように、その場に尻もちをつく。
「正規兵か?」
「いえ、封鎖のため兵士を正面に回したので、交代で住民が……」
限時的な志願兵らしい。
慣れない夜勤で疲れているのだろうが、どうりで緊張感がないわけだ。
「……門を開けろ」
命令とも、脅しともつかぬ声。
すぐ耳元で告げられ、横目でセトの顔を見た兵士が、息を呑む。
「こ、皇太子殿下!?」
「騒ぐなよ?」
「は、はいっ!」
兵士の体がびくりと強張り、立ち上がるなり鎖を引くと、軋む音を立てながら門がゆっくりと開いていく。
「では、案内してもらおうか」
兵士は青ざめた顔で頷き、震える手で灯りを掲げる。
その横にはいつの間にか少女がおり、夜目にも映える金の髪が月光を受け、淡く光りながら揺れていた。
***
「エリアス殿下が即位を宣言されましたので、これが貴族院で認められれば、正式な即位式が執り行われます」
ティールの領主はそう告げるなり、ミランダに温かなミルクを手渡した。
ほのかな香りに緊張がほどけ、ようやく人心地がつく。
隣に座るセトの手には帝都からの書状が握られており、覗き込むようにして目を走らせたミランダは、思わず眉を寄せた。
「状況の真偽を確かめるべきとの声は、まったく上がらなかったのね」
「皇太子殿下のお立場は、あまり強くありません。状況証拠もありますので……」
後継者争いが激化しているとはいえ、廃嫡されない限り、黙っていれば皇帝の座が転がり込んでくる。
少し考えれば分かることだが、言ったが最後、立場を失うことになるという。
「それにジャノバの領主アルゼン様がいち早く帝都へ祝辞に向かわれたとか。この状況で『疑義あり』などと、言えるわけがありません」
残してきたドナテラの身を案じていたが、アルゼンとは面識がある。
対外的にドナテラ支持を表明した彼が赴くのなら、そうぞんざいな扱いは受けずに済みそうだ。
「三大都市のうち二つも閉鎖して、帝都の物資をまかなえるのですか?」
「当面は問題ありませんが、ジャノバだけでは長くはもちません。帝国北部の輸送をティールが、南部をジャノバが担っています。経路も扱う品もまるで違いますから、代替も利きません」
「ティールとラゴンが封鎖されたいま、帝都への物資はすべてジャノバ頼みということですね……」
なるほど言い換えれば帝都の命綱を握っているのは、今やアルゼンということだ。
何かを要求するにも発言力を高めるにも、これ以上の好機はない。
立ち回りの上手さは、まったく見事というほかなかった。
「ここ、ティールは、ジャノバのように駐屯地を持つわけでもなく、いざ戦いになれば指揮できる者もおりません。閉鎖したのは、せめてもの抵抗です」
皇太子殿下のおかげで長らく平和だったものですから、と領主が力無く微笑んだ。
「そもそも皇帝陛下暗殺など、ありえない話。エリアス殿下が皇帝になれば、皇太子殿下に連なる者達は皆まとめて粛清されます。……とはいえ、こうして公然と意思を示せる貴族など、今やわたしくらいなものです」
「帝都の貴族達は、当てになりそうもありませんね」
「己の立場を守るのに精一杯なのですよ」
ミランダの静かな言葉に、領主が小さく肩を竦める。
裏門の兵士に案内され、極秘裏に領主館を訪れたセトの隣には、見知らぬ少女が寄り添っていた。
三大都市――それも貴族階級に属する領主を前にして、恐れも気負いもなく、さも当たり前のように領主館へ足を踏み入れ、いつの間にかその場の空気に溶け込んでいる。
説明はなかったが、道中でセトを助けた者なのだろう。
そう思い至るがそれにしても見目美しく、仕草の端々に育ちの良さが滲んでいる。
とても平民には見えないその少女を前にして、『どなたなのですか』という問いを口にする勇気を、誰も持ち合わせてはいなかった。
淡々と話を進めるその姿は、まるで長くこの場所にいたかのように錯覚させる。
ところでこの少女は誰なのだろう。
――そう、領主の目が語っていた。







