102. ただ、それだけのことなのに
それは見たこともないほど幻想的で、――美しい光景だった。
降り注ぐ光の粒に触れるたび、鋭く刺すようだった痛みがやわらぎ、苦しかった呼吸も、驚くほど楽になっていく。
「何が起きている……?」
つい先日、ミランダと時を同じくして廃坑へ運び込まれたひとりの兵士が、呆然と呟いた。
熱も、痛みも、あの絶望的な倦怠感も……そのすべてが消えている。
力を籠めるだけで激痛が走っていた腕を、確かめるようにくるりと回し、彼はゆっくりと上体を起こした。
その傍らで、肺の痛みにうずくまっていた男が、重い瞼を持ち上げる。
あれほど濃くに滲み出ていた黒い斑点は、もうどこにも見当たらない。
無数の光が分け隔てなく、――廃坑内のすべての命に、淡雪のように降り注いだ。
人の手が遠く及ばない存在によって、救われたのだと。
皆が、言葉にせずとも理解する。
明日をもう一度、迎えられるかもしれない――。
ただ、それだけのことなのに。
どこかで誰かが、嗚咽を漏らした。
***
(SIDE:セト)
――その夜。
一日一回と聞かされていた配給の食事は、扉口から放り投げられるようにして届けられた。
「少しでもいいから食べるのよ」
ミランダは一人一人に声をかけながら、配給された食事を手渡していく。
あれが何だったのかは、誰にも分からない。
だからこそ踏み込んではならないのだと……心の奥に秘めておくべきものとして、誰もが固く、口を閉ざしていた。
「食料と一緒に、水も差し入れてくれればいいのに」
水場までの往復により体力は限界を越え、ミランダの息が荒くなる。
不得手な肉体労働。
ミランダ自身もつい先ほどまで意識を失っていたため、体調が万全なわけではない。
それでも、回復したばかりでまだ動けない者のもとへ水を運び、空になった革袋を抱えて、また泉へと向かうのだ。
「早く元気になって手伝いなさい!」
文句ひとつ言わずに……と言いたいところだが、軽症の患者には時折こうして、喝を入れている。
明るく振舞い、水を飲ませるミランダの手が微かに震え出したことに気付き、少し離れた場所で見守っていたセトが、ゆっくりと歩み寄った。
たいした重さもないが、腕も限界なのだろう。
気取られぬようにと微笑んでいるものの、震えを止めきれずにいる。
再び水を飲ませようと転がる兵士に腕を伸ばしたところで、セトがミランダから革袋を取り上げた。
「返してください!」
「……もういい」
ミランダの頬にこびりついた泥を、親指の腹でそっと拭い取ってやる。
「少し、休め。……くだらん矜持など何の役にも立たないと、よく分かった」
それに身体を動かしたほうが、気が紛れる。
目を瞠るミランダをそのままに、セトは何の躊躇いもなく、嘔吐で汚れた兵士の身体を支えた。
「お前に会ってから、思いどおりにならないことばかりだ」
女神の加護など、信じていなかった。
もっと早く知っていたら、皇帝の病も治ったのだろうかと、セトは独り言ちる。
ミランダ自身にもそのような目算があったのかもしれないが、もし仮に治癒していたら皇帝が手放すはずはなく、否が応でも囲われの身となり、二度と生きて帝国を出ることはできなかっただろう。
休ませてやるつもりが、ミランダは「人手が二倍になったわ!」などと嬉々として告げ、すぐさま別の革袋を手にしている。
配給された食べ物は、疫病で亡くなる予定数を差し引いた分しかない。
とてもじゃないが、命をつないだ全員の手に渡る量ではなかった。
「食べ物が足りないのだから、水でお腹を膨らませなさい」
まるで大公女とは思えないセリフを吐き、倒れていた男の口に水を突っ込む様子がかえって場の空気を和ませる。
先ほどまで苦渋の声が響き、息を詰めるような重々しい空気に満ちていた洞窟内。
ふと、小さな笑い声がこぼれた。
ぽつり、ぽつりと。
それは水面に落ちる雫のように、静かに……けれど確かに広がっていく。
「……」
祖国ファゴル大公国で、そして人質として赴いたグランガルドで、彼女はどのように過ごしてきたのだろう。
聞いていた噂と目の前にいるミランダの姿とが、あまりにもかけ離れていて、もう何が真実なのか分からない。
ただ一つ確信が持てるのは、彼女が望めばすぐにでも、四大国すべての統治者がその門を開き、諸手を挙げて招き入れるだろうということだ。
「染め粉がすべて取れてしまったな」
「そうなんです。いつの間にか……せっかく綺麗に染め上がっていたのに」
冗談めかして言葉を返すなり、形の良い唇が柔らかな弧を描く。
陽光の一番美しい上澄みをすくい取ったかのような、まばゆい金の髪が、肩先にさらりと流れ落ちた。
廃坑の亀裂からこぼれた光に縁どられ、ミランダの身体が淡く輝いてみえる。
そういえば想い人がおり、婚約の申し出を待っているのだと言っていた。
「お前の相手は、さぞかし苦労するだろうな」
「そのお言葉、そのままお返しいたします」
「……お前ほどではない」
心外だと言わんばかりのセトが可笑しくて、ミランダは、ふっと笑って肩をすくめた。
「そこが良いと仰る方もいるのですよ」
「もしいたとしたら、とんでもない変わり者だな。……減らず口を叩く暇があるなら、仮眠でも取っておけ」
お前にはこの先まだまだ働いてもらうのだからと休息を促すと、「暴君だわ!」とミランダは口に手を当て、びっくり仰天している。
まったくもって緊張感のない大公女。
軽口をひとつ叩くだけで、その明るさに照らされるように、少しずつ皆の目に光が戻っていく。
岩壁に寄りかかる者、床に横たわる者、自力で身体を起こす者――。
廃坑内で意識のある者は皆、いつの間にか引き寄せられるように彼女を見つめていた。
なぜだろう。
セトもまた、視線を逸らすことができないでいる。
聞きたいことは、数えきれないほどあった。
けれど今は――。
それらすべてが、どうでもいいことのように思えた。







