101. そう、あの時からだ
一日でこれだけ症状が進むとは。
女神の加護を持ちながら、たった一人を癒すだけでやっとの状況に、どうしようもなく無力感を感じてしまう。
廃坑内にいるすべての患者を癒すことは叶わない。
さらに死に迫られた恐怖の中、選ばれた者だけ助かる方法があると知られれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
疫病患者しかいない、ひっそりとした廃坑内。
まともに起き上がれる者は誰一人としておらず、死を待つだけの者達を前にして、どうしようもない無力感に苛まれたのはミランダだけではないらしい。
「このような形で、巻き込むつもりはなかった」
途切れ途切れの言葉の後に、すまない、とセトは続ける。
思いもよらぬセトの謝罪に、ミランダは目を見張り……それから小さく頭を振った。
他の誰でもない、自分で選んだ結果なのだから。
間違えるのは怖い。
恐れているから、動かずにはいられないのだ。
いつだって、立ち止まることは許されない。
それでも、――途中で道を間違えても、最後に辿り着く場所を見誤らなければ、それでいいのだ。
「……セト様の回復を待って、昨夜の場所に行きましょう」
「もう十分に動ける」
「であれば、すぐに偵察ですね!」
さぁ早く、と手を差し伸べると、セトはためらいがちに握り返してくれる。
そのまま半ば強引に立ち上がらせ、目指すのは、――昨夜見つけた横壁の穴。
歩くのに不自由ない程度の光も差し込み、ミランダ達は身を低くしてその横穴へと滑り込んだ。
先に続くのは、大人ひとりがやっと通れるほどの湿った通路。
ほんの少しでいい。
先に、道が続いてほしい。
そう願いながら進み、やがて開けた空間に辿り着く。
──顔を上げた瞬間、ミランダとセトは揃って息を呑んだ。
空に届きそうなほど高く、開けた大空間。
壁面の岩肌は光を受け、宝石のように煌めいている。
先に道がなければ、横壁を掘ってでも進もうと思っていたのに。
水面に反射した光が天井に揺らぎ、幻想的な模様を描き……まるで別世界のような光景が眼前に広がり、ここがただの洞ではないのだと肌で感じる。
どこか神聖な気配すら漂う、静まり返った洞窟内。
その静けさの中で、切り出された岩が目に留まった。
まるで誰かの意図をなぞるように、不自然な形で積み上げられている。
何かがおかしいと思った瞬間、ミランダの視線がある一点で止まった。
「……石碑?」
かつてグランガルドで目にしたものと同様に。
黒曜石で作られた大きな碑が、半ば地中に埋もれるようにして、静かに鎮座している。
そして刻まれているのはやはり、見覚えのない判読不能な文字だった。
「グランガルドの石碑と似ているわ」
吸い寄せられるようにミランダはしゃがみ込み、指先を石碑へと伸ばす。
触れた瞬間、耐えがたいほどの激痛がミランダを貫いた。
「痛……ッ!?」
その直後、皮膚が焦げつく匂いとともに、加護印が浮かび上がる。
禍々しいほど赤々と――。
血色に染まる、ミランダの加護印。
ふとミランダの視線が落ち、洞窟内にある小さな水たまりに目を留めた。
――気のせいだろうか、水の匂いが鼻腔をくすぐる。
水だけではない。
触れる空気も、岩壁も……そして廃坑に残る、微かな命の光までもが、浮かび上がるように見えてくる。
どれも弱々しい光をまとい、散りかけの火花のように揺らめいて――。
声にならない声が漏れ、感じたことのない力が、触れた指先から流れ込んでくる。
熱を帯びた血液は身体中を駆け巡り、今にも溢れ出しそうに蠢いた。
ミランダの全身が弾かれたようにしなり、天を仰ぐ。
洞窟内が突如、青白い光に包まれた。
無数のきらめく粒子がどこからともなく現れては落ち、脈打つように輝き、地に降り注いでいく。
どこまでも広がるその幻想的な美しさは、女神の加護呼ぶに相応しく、積もっては消える淡雪のように儚く、清らかだった。
すべてを浄化するかのように光の粒が降り注ぎ、ミランダの肩に触れる。
どこからともなく風が吹き込み、艶やかな髪をふわりと揺らす。
染めた髪の一本一本から、ゆっくりと溶け落ちるようにして色が抜け、空中へと離散する。
代わりに現れたのは、陽と見紛うほどの、眩いばかりの黄金色。
美しいという感情すら追いつかないその光景に、セトは圧倒され、ただただ目を奪われていた。
――死に向かうほど、強くなる力。
さほど強くなかった女神の加護が、強く顕現したのはいつからだったか。
初めて異変に気が付いたのは、護衛騎士だったロンに地下通路で刺された時だった。
その直前、触れはしないまでも、グランガルド王太后の私室で石碑と相対したことを思い出す。
そう、あの時からだ。
そして今、石碑に触れた指先は痺れたように感覚を失い、女神の力はミランダという器に収まりきらず、とめどなく溢れていく。
「おい、しっかりしろ!!」
景色が大きく左右に揺れ、遠くセトの声がする。
必死に石碑から引き離そうと、セトはミランダを胸元に抱き込み、距離を取った。
息が上がり、ミランダの肩が苦しげに上下する。
ジジ、と微かな音を立て、加護印がゆっくりと光を失っていく。
次の瞬間、視界がぐらりと揺らいだ。
音も、光も、景色も、……すべてが遠のき。
ミランダは、そのまま意識を手放した――。







