100. それは、まどろむほどの温かさ
わずかな月明りが、浮き上がるように辺りを照らしてくれる。
「ああ、起こしてしまったか」
セトが身じろいだ拍子に目が覚めて、ミランダは焼け付くような喉の渇きを覚えた。
食事どころか、まともに水すら飲んでいない。
……そういえば奥に、水場があると言っていた。
喉が渇いたな、と呟いたセトの言葉を受けて奥へと向かうが、一歩進むごとに坑道の空気が冷えていく。
傷んだ外套では風を遮れず、ミランダの腕が粟立ったことに気付き、セトが熱を分け合うように寄り添ってくれた。
「外に抜ける道があったはずだが」
通常、坑道を作る際は地下ガスが発生する可能性も加味し、風の通り道を用意する。
どこの国でもそれは変わらず、入気用と排気用、最低でも二つ以上の坑口を設けるのが常だった。
進んだ先は二股になっており、……落盤事故だろうか。
崩れ落ちた岩塊が無造作に積み重なり、片方の坑道が完全に塞がれている。
「これではとても無理だな」
「もう一方が水場でしょうか。セト様、足を止めず奥へ進みましょう」
落胆を隠そうともしないセトの様子に気付き、ミランダはおや、と小首を傾げた。
帝国にいた頃のセトは無表情で、どこか人を値踏みするような、――狡猾さすら感じさせる態度だったのに。
「何を見ている」
「いえ。こんな時ですが、こうしてセト様とともに過ごせて良かったです」
「お前、……この状況でそれを言うのか」
取りすがって責めるとか、怯えるとか、他にやることがあるだろう?
いつ死んでもおかしくないこの状況で軽口を叩いている場合ではないのだが、あまりのセリフに呆れ致し、セトが独り言ちている。
「会った時から思っていたが、お前は姫君としてちょっとおかしい」
「まぁ! セト様に言われたくありません」
そもそも侍女と身分を偽り、次期大公自らが乗り込んでくること自体、常軌を逸しているのだ。
セトだって人のことは言えず、性別を偽って次期皇帝になろうと目論んでいたではないか。
おかしな姫君という点ではお互い様である。
「帝国でこれなら、祖国に戻ったらどうなるんだ。グランガルドでもその調子だったのか?」
「……どこに行っても変わりませんが」
「人質なのに? ……はぁ。クラウス王はなぜお前を側妃なんぞに召し上げたんだ」
「し、失礼な……ッ! セト様だって妃に据えようとされたではございませんか」
「まさかこのような大公女とは思いも寄らなかった」
挙げ句の果てにこの件を手紙で知らせても、ファゴル大公はさして驚きもせず、もう好きにやらせてくださいでもと言いたげだった。
「ファゴル大公国はどうなっているんだ……」
「どうもこうも、ありません。今回の件だって、お父様から事前に許可を得ています」
普段の様子は、察するに余りある。
得意げに告げるミランダを瞳に映し、セトはまたしても大仰に溜息を吐く。
こうして二人きり。
何もかもを失い、極限の状況を過ごすうちに、少しずつ隠していたセトの表情が……身分を取り払った素の人柄が顔を覗かせる。
「……何を笑っている。今の状況が分かっているのか?」
憮然とし、感情を隠しもせず詰め寄るセトの姿が嬉しくて、こんな時だというのにミランダはどうしたって笑みが零れてしまうのだ。
「セト様、泉が見えて参りました!」
「ッ、待て走るな! まったく……足元が悪いから、気を付けろ」
頬を緩め、気安い様子でセトの腕を引く。
悪路に慣れていないミランダの靴底が、ぬかるみに取られぬよう、――先ほどから、セトがさりげなく支えてくれているのを知っている。
示す先には小さな泉が湧いており、天井から垂れ落ちる雫がぽつり、ぽつりと水面を打ち、緩やかな波紋を広げていた。
「水が確保できたのは良かったが、行き止まりだな」
泉の先に使えそうな道は見当たらず、横壁に人ひとり通れるくらいの穴が空いているだけだった。
口に出すとより一層、絶望感が加速するのだろうか。
それ以上の言葉はなく、セトから小さな溜息が漏れる。
坑道の図面でも落ちていれば有難いが、廃坑なのでそれも期待できない。
何より陽が落ちたため、視界が不明瞭になり先を見ることすら儘ならないのだ。
「行き止まりの気もしますが、横壁の穴も確認したいです」
「そうだな。だが何があるか分からないから、十分な視界が確保できる時間帯にまた来よう」
繋がる先が出口じゃなかったとしても、少しでも展望があれば、とセトは言う。
「ひとまず水を汲むか。……おい、蓋くらい自分で開けたらどうだ」
ブツブツと文句を言うセトに革袋を押し付け、蓋を開けてもらっている間に、ミランダはいち早く水辺に屈みこんだ。
坑内水は鉱物や、有害物質を含む場合もあるから……。
他に水を汲める場所もなく、水源はこの泉一択。
いざとなれば解毒するつもりで、ミランダは冷たい水に指先を差し入れた。
そっと手ですくい喉奥に流し込むと、ピリリと刺激が走ることもなく、乾いた喉を潤してくれる。
つまり人体には無害な真水ということだ。
よし、これなら大丈夫。
受け取った革袋いっぱいに水を汲み、ミランダは踵を返すなり、もと来た道を歩き始めた。
「どこへ行く?」
「廃坑内には、重症患者が殆どです。軽症であっても水場までは歩けません」
「まさか全員に水を飲ませるつもりか? お前、患者が何人いると思ってるんだ!?」
腕や足だけでなく、顔にまで黒い斑点が出ている者もいる。
数日と保たず死んでいくのだから、もう放っておけとセトに言われるが、「確かにそうですね」とだけ呟いて、ミランダはその後も水場を往復することをやめなかった。
「死にゆく者のために、無駄に体力を消費するな」
「分かっています」
再度の忠告を受けるが、ミランダは革袋に水を満たしては運び、手ずから飲ませていく。
「おい、話を聞け!」
「聞いてます。……今できることを、やっているだけです」
いざという時はセトを最優先で治癒しなければならない。
そう思えば迂闊に加護を使うわけにはいかず、自分の不甲斐なさに腹が立つ。
だからせめて水くらいは、十分に届けてあげたかった。
ミランダとセト以外は誰もが横たわったまま、わずかに息をしているだけ。
呻き声すら出せなくなった彼らを抱き起こし、革袋の水を口に押し当てるが、次第に喉奥の反射すら機能しなくなっていく。
全員に配り終えたのは一夜明けて空が白み、陽が昇りかけた頃だった。
ミランダはやっと岩壁沿いに腰を落とし、泥のように眠りについたのだが――。
それから数刻後。
ガリガリと爪先で皮膚を剥がすような音がして、ミランダはパチリと目を覚ました。
横向けばセトが、何かに取り憑かれたように腕を掻きむしっている。
ズルズルと崩れ落ち、地面に身体を横たえたセトの頬は、熱で上気し赤みを帯びていた。
あと二、三日は大丈夫だろうと思っていたのに……。
荒い息遣いと、昨夜とはまるで違う濁った瞳。
腕に浮かぶ黒い斑点がすべてを物語り、セトが罹患したことを教えてくれる。
「症状が出たのはいつ頃ですか?」
「つい先程だ。問題ない」
「……セト様。私の首筋に、手を当てていただけますか?」
疫病を癒したことはないし、一度で治せるかは分からない。
「何を……?」
静かに、と幼子に言い聞かせるように言葉を置くと、ミランダはセトの手を引き、うなじに当てた。
途方もない回数、剣を振り続けてきたのであろう。
その手のひらは、女性にも拘わらずマメが潰れて固くなり、かさついた皮膚から伝わる温かな熱は、クラウスを思い起こさせる。
――こんな時なのに。
ミランダはふっと頬が緩み、慌てて表情を引き締めた。
言葉足らずなのはお互い様。
伝えきれないことは数多くあり、だがふとした瞬間に、その存在が力をくれるのだ。
セトの顎下に両手を添え、ミランダがゆっくりと目を閉じる。
加護の光が漏れないよう、様子を探りながら、……少しずつ。
「――ッ!?」
薄ぼんやりと漏れ始めた光に言葉を失い、ミランダのうなじに当てたセトの手が、固く強張る。
微睡むほどの心地好い熱に包まれて、セトの腕に刻まれた黒い斑点が徐々に色を失っていく。
思っていたよりも症状は重く、一人治癒するだけで息が切れる。
浅い呼吸を繰り返すミランダを、セトは声を失ったまま、……ただ見つめていた。







