95. 陛下、たまには休暇を取られたらいかがですか?
「……ッ、ごほッ……!」
外に出るために鉄格子をくぐったつもりが、気付けば洞窟の中にいる。
凍えるような水底からようやく地上に出たまでは良かったが、ひんやりとした岩肌の冷たさが、ぐっしょりと濡れた布地が、容赦なくミランダの体温を奪っていく。
見上げれば、天井にはひび割れたような亀裂があり、そこから零れ落ちる光が、岩壁にキラキラと縞模様を描いていた。
「……気が付いたか」
くぐもった声がすぐ隣から聞こえる。
岩壁に背を預けて座り、セトが静かに息を整えていた。
「運んでくださり、ありがとうございます」
一人だったらとても浮かび上がれなかったため礼を言うと、恨み言でも言われると思っていたのだろうか。
セトの瞳が、ほんの一瞬戸惑うように揺れる。
「ところで、私達は今どこに?」
土地感もなく、帝国のどの辺りなのかさえ分からない。
「身を隠せる場所はありますか? 容疑を晴らさない限り、亡命すらままなりません」
ファゴル大公国やグランガルドなら受け入れ可能だが、停戦が破られると同時に、火種が再燃してしまう。
それは、ミランダの本意ではなかった。
「容疑を晴らす手段があると思うか? ……この国に来たことを、後悔しているだろう?」
自嘲気味に呟くと、それきり黙り込んでしまう。
本日を以て、晴れてエリアスが『皇太子』。
友誼を深めるはずの次期皇帝は、一夜にして追われる立場になってしまった。
「身分がなくなったから、何だというのです。他の誰でもない、自分自身が選んだ結果だというのに」
容疑を晴らすのは並大抵のことではないが、できることを一つずつやっていくほかない。
だが向き直り、濡れたシャツ越しに浮かび上がったセトの身体を目にし、ミランダは思わず息を呑む。
「――もう、隠す必要もない」
男性とも、女性ともつかぬ中性的な容姿に、しなやかに流れる肩甲骨のライン。
上着を着ている時には分からなかったが、今まで見てきた屈強な騎士達とは明らかに違う、細い腰。
「一人で投降しろ。ファゴル大公国の支援と引き換えにエリアスに与すれば、お前だけは助けてもらえる。安全なところまで連れて行ってやろう」
すべてを諦め、すべてを失った。
だがこの状況で、ミランダを助けてくれるという。
自嘲気味に呟くその姿はどこか心細げで、ミランダは岩肌で膝がすれるのも構わず、ぐっと身を乗り出した。
信頼できる者だけを近くに置き、皇太子妃選定式にミランダの偽物を立ててまでも、他の候補者を退けなければならなかったのは。
どうしても地位を守るための後ろ盾が欲しかった、――その理由。
「……お断りします」
迷う素振りすらないミランダの答えに、視線の先にある濃藍の目が、大きく大きく開かれる。
「なくしたものなど、たいした問題じゃないわ」
戸惑うように揺れた濃藍をただまっすぐに覗き込むと、豆がつぶれて硬くなった手のひらが、遠慮がちに伸ばされた。
冷え切った手がミランダの頬を包み込み、それを温めるようにして、そっと自分の手を重ねあわせる。
「だって私が手を携えたいと思ったのは、――あなただもの」
亀裂から零れ落ちる光は驚くほどわずかで、セトの表情は薄ぼんやりとしか分からない。
誰よりも強欲で、傲慢で、冷徹なはずの稀代の悪女はびしょ濡れのまま、軽やかにそう告げたのだ――。
***
その頃、差し迫った状況に置かれているらしいミランダの報告を立て続けに受け、グランガルド国王クラウスは、混乱の最中にあった。
インヴェルノ帝国の地を踏んだミランダが、一体どのようにして国交を開く気なのか皆目見当もつかないが、ある程度好きにやらせても彼女なら大丈夫だろう。
もし無理でも三国で同盟を結んでいる以上、何かあればファゴル大公国を守る術はある。
あくまで正式な婚約が発表され、グランガルドへ迎え入れるまでの、ほんの一時だと思っていたのだが——。
「何を以てしても、止めるべきだった」
ドナテラ付きの侍女として向かったはずなのに、早速見つかり、処遇についての問い合わせがあったとファゴル大公国から報せが届いたのは、つい先日のこと。
さらに候補として擁立されることになったが心配はいらないと聞き、何がどうなっているのか理解ができないまま、必死にこらえて続報を待った。
ところがその後、なぜかアルディリアを通して届いた手紙には、『皇帝暗殺の容疑で皇太子と共に逃亡中』と書いてある。
「あいつは一体何をしているんだ!?」
あれほどの知略を備えながら追われる身になったということは、何かに巻き込まれたのであろうと容易に想像がつく。
わずかに繋がりかけていた和平が霧散するが、もういっそのことミランダを救出するついでに、帝国へ攻め入ってしまおうか――。
お互い無傷では済まないが、そんなことまで頭を過ぎり始めたクラウスの執務室には今、ザハドに加え、三派閥の筆頭が勢揃いしていた。
――『皇太子妃選定式』に関して困ったことがあれば、アルディリアを頼れ。
セノルヴォ自ら口にしたからには、何かしらの伝手があるのだろうが、その一方でクラウスには今、グランガルドを離れるわけにはいかない理由が山ほどある。
グランガルドの国王として為すべきことは山積みで、どれ一つとして任せてよいとは思えなかった。
ミランダが帝国に入り、大きな局面を迎えているというのに……どれほどもどかしくても、彼女の傍に駆けつけることすら許されない。
さらに政務を放り出して行った日には、眉をひそめて怒りだしそうな気配すらある。
そもそもミランダは、誰かに大人しく守られるような娘ではない。
それはよく分かっている。
分かっているのだが。
――だからこそ、厄介なのだ。
「自らの立場はわきまえている。問題ない」
「そうですね、陛下が動かずとも、ミランダ様なら自力で何とかなさるでしょう」
ミランダの意志を尊重するべきだと頭では理解しているが、『帝国の皇太子と二人きりで昼夜逃亡している』という事実もまた、理屈や分別が吹き飛ぶほど胸の奥をざわつかせる。
言葉にできないほどの焦燥感。
クラウスは手に持ったペンを、ヒビが入るほど強く握り締めた。
「それで、お前達はなぜここに?」
「戦後処理が思ったよりも早く進み、我々当面の間、手隙になってしまったのですが」
せっかく王都に来たのに困ったことになりました、とクラウスの叔父であるワーグマン公爵が溜息をつく。
「どうでしょう。ここに集まったのは、これまでグランガルドの屋台骨となって支えてきた者達です。一ヶ月程度であれば、お任せいただける政務もあるかと」
ですので陛下、たまには休暇を取られたらいかがですか?
ワーグマン公爵の言葉を受け、「まぁ振り回されるのは、今に始まったことではないですし」と、すかさずザハドが合いの手を入れる。
王妃として迎え入れる日を、誰よりも楽しみにしているグランガルド王国の重鎮達。
好き勝手やっているように見えて、いつも誰かのために動いている。
それを、ここにいる誰もが分かっている。
腰の剣鞘に結び付けた組紐に、クラウスがそっと触れた。
未来の王妃が目指す先に何があるのか、見届けたいと願うのは、――皆、同じなのだ。







