92. 皇帝不在の『謁見式』
差し出された手の上に、白い指先がそっと乗せられる。
帝国中の令嬢が憧れてやまない、皇太子セトのエスコート。
ひとたび煌びやかなドレスに身を包めば、口元を隠していた侍女姿とはまるで別人。
その佇まいは美しく、高貴な生まれだと一目で分かる。
「美しいが……お前に婚約者がいない理由が分かった気がする」
「なッ……」
中性的でありながら、どこか人ならざる美しさを纏うセトの美貌を前に、ある者は頬を染め、またある者は甘い幻想に浸り、呼吸を忘れたように目を奪われるのが常だというのに。
目の前の少女は、興味を惹かれるでもなく、媚びるでもない。
大国の皇太子と同等の圧を放って、ただ隣に佇んでいた。
「父上は不在のまま、皇后と貴族達へのお披露目の場となる」
「皇帝陛下がいらっしゃらないのに、『謁見式』を行うのですか?」
「それがまかり通るほど、エリアスが……引いては皇后達が力を持っているということだ」
帝国において、皇帝とは最も神にも近しい『絶対の存在』。
その言葉は法に等しく、ひとたび口を開けば、天地が覆ろうとも逆らうことは許されない。
だからこそ皇帝の御前で行われる『謁見式』は、未来の皇太子妃候補達にとって、何よりも重要な場となるはずだった。
「何を考えている?」
思案に沈んだミランダの瞳が、自分だけを映しこむように、セトはその手を引き寄せる。
「……剣を握ったことのない、労働を知らない手だ。金糸のように美しく艶やかな髪。あるべき深窓の姫君そのものだな」
「欲しいのは、ファゴル大公国の後ろ盾。そして我儘で強欲な悪女ミランダでしょう? ……深窓の姫君ではないはずです」
そっと伸ばされたセトの指先が、ミランダの頬に触れる。
ミランダはその手を、押しのけるようにそっと退けた。
「務めは果たしますが、与するつもりはありません。ですからエスコートは、是非ドナテラ様に」
私は、ここまでで結構です。
スッパリと線引きをしたミランダを、セトは無言で見下ろした。
***
「随分と少ないこと」
皇帝不在のまま、皇后の楽しげな一声で『謁見式』は幕を開けた。
広すぎる玉座の間の中央で、ドナテラが汗を滲ませながら跪く。
いつもなら注目されることもなく、大衆に埋没できるほど地味なのに……。
セトのエスコートで入場したものの、居並ぶはずの皇太子妃候補が誰一人としておらず、ドナテラだけ悪目立ちしてしまっている。
「ファゴル大公国から大公女ミランダが飛び入り参加し、二人が辞退。エリアスが推挙した者は体調を崩し、この場にいない。ただそれだけのことです」
「始まる前からこの様子では、先が思いやられるわね」
ひしめく貴族達の視線を一身に浴び、次第に顔色を失くしていくドナテラ。
不穏な幕開けとなった皇太子妃選定式を目にし、皇后は悦に入ったように笑みを浮かべる。
「肝心の大公女はこの場に来てさえいないようだけれど……何か理由でもあるのかしら?」
「昨夜、体調を崩したようです。準備が整い次第、参ります」
「あらそう? 楽しみだわ」
わざわざ謁見式直前に毒を盛ったのだ。
辛うじて命を長らえたとしても、この場に出られるような状態ではないことを、皇后とエリアスは誰よりもよくわかっている。
追い打ちをかけるべく、皇后がさらに口を開こうとした瞬間、新たな来訪者を告げる声が高らかに響きわたった。
――来られないだろうと高を括っていたのに。
言葉を失った皇后、そしてエリアスの視線の先には、蕩けるように滑らかなベルベットの、深紅のドレス。
胸元から袖、裾にいたるまで純白のレースをあしらい、金糸がふんだんに使われた刺繍は、緻密な花綱文様を描いている。
身分の高い女性にはあるまじきことだが、エスコートもなく、ゆったりとした足取りで……まるで皇帝さながらに、玉座の間の中央に歩を進めていく。
「帝国の月たる皇后陛下に、ご挨拶申し上げます」
この場に現れるはずのないその少女は、何事もなかったかのようにドナテラが跪く場所に進み出て、それから膝をついて頭を垂れた。
黄金を内包したかのように輝く淡紫の髪が、ふわりと揺れて頬にかかる。
入場からドレスから……その容姿までも、何もかもが過剰なくらいに華やかで、ひとつたりとも控えめな要素がない傾国の悪女ミランダ。
皇太子妃選定式の最有力候補であり、外交上、遅参程度の不敬では罰することが叶わない『ファゴル大公国の次期大公』。
尊い身分がそうさせるのだろうか。
女性の立場が弱い帝国ではあり得ない、あまりにも堂々とした姿に、居並ぶ貴族達の間でざわめきが広がっていく。
「義母上、どうか遅参をお許しください。理由は、――すでにご存じのとおりです」
「……ッ」
ミランダの隣に並び立ったセトが、空の玉座を見据えた。
その隣に座る皇后へ……そして脇に控える第三皇子エリアスへと、冷ややかに視線を巡らせる。
——お前達がやったことだろう、と。
濃藍の瞳が、研ぎ澄まされた剣先のような鋭さを以て、そう告げる。
歴代のものとはその趣旨を異にする、皇帝不在の謁見式。
セトと第三皇子、いずれに従うかを今いちど貴族達に問う『最終通告』の場となるはずだった。
最後の頼みの綱だった皇太子妃候補ミランダを潰し、次代皇帝として擁立するのはエリアス一択であることを示し、圧力をかける。
そんな、政治的な見世物になるはずだったのに。
セトに促され、跪いていたミランダとドナテラが立ち上がる。
対等に、堂々たる姿で並び立つ、ファゴル大公国の大公女ミランダ。
そして控えめで頼りなさげだが、セトを立てるように一歩引いた場所に立つ、カナン王国の王女ドナテラ。
その様はまるで絵画の一幕を切り取ったかのように美しく、その場にいた者は皆、息をするのも忘れて見入っていた。







