第五十五話 勘違いと名前
「食欲はあるか?」
「んー少しならあるかな」
「スープがあるけど食べられるか?」
「うん。そのくらいなら」
俺は立ち上がって、キッチンの方に向かう。
さっき作ったオニオンスープを温めからカップに入れて、スプーンと一緒に和奏へ持っていった。
「熱いから気を付けろよ」
「うん」
和奏は慎重にカップを持って、ふーふーと冷ましてから口をつける。
一口飲むと和奏はほっと温まって、美味そうにもう一口と飲んでくれた。
俺は和奏の美味そうな顔を見て、安心する気持ちと嬉しい気持ちが込み上がってくる。
「ご馳走様……。美味しかった」
「お粗末様。気に入ってもらえてよかったよ」
俺は和奏から空になったカップを受け取ると、キッチンに戻ってカップを洗っていた。
「……くしゅん!」
すると、寝室のほうからくしゃみをする音が聞こえてきた。
俺はカップを洗い終えると、すぐに寝室に向かった。
「寒いか?」
「少しだけ……汗で冷えたみたい」
「えっと、着替えられるか?」
「……頑張る」
和奏はまだ熱があるようで、フラフラしながら出て立ち上がった。
そのまま頑張って服を取りに行こうとするが、俺のほうに倒れて来たので支えてやった。
「……ごめん」
「病人なんだから無理するな。服の場所を教えてくれ」
和奏は部屋にあった箪笥に指を指して教えてくれた。
俺は一番上の棚を開けると、そこにはピンクや水色、派手な色で言えば赤と黒の下着達が綺麗に並んであった。
俺は何も見なかったかのように静かに箪笥を閉める。
その瞬間、風を切るような音と共に頭に衝撃を受けた。
「痛っ」
その衝撃で、俺は箪笥の角に額をぶつけてしまった。
額を抑えながら周りを見ると、どうやら飛んできたものは床に落ちている熊のぬいぐるみ。
だが、ぬいぐるみが衝撃を与えるほどの勢いで、勝手に飛んでくるわけがない。
恐る恐る後ろを振り返ると、息を荒げて顔を真っ赤にしている和奏がいた。
「そこじゃない!」
「いや、お前が指を指したんだろ!」
「私はちゃんと二段目に指を指したー!」
そう言いながら和奏は近くにあった小物を俺に投げつけてくる。
最初はぬいぐるみや枕やクッションの比較的に柔らかいものだったが、それらが無くなると当たったら怪我してもおかしくない目覚まし時計に手をつけそうになる。
「すまん和奏! 俺が悪かった!」
俺は痛みに備えるために目を瞑って、両手で身を守りながら謝った。
すると、しばらく目を瞑っているが何も飛んでこない。
俺はゆっくり目を開けると、和奏は目覚まし時計を投げようとしたまま、顔を真っ赤にして口をパクパクさせていた。
「な……なっ……」
「和奏? どうした?」
「なんで名前で呼んでるの!」
「がっ!」
油断していた俺に、飛んできた目覚まし時計が顔面に直撃する。
そのまま後ろによろけて後頭部を箪笥の角にぶつけた。
こいつ……めっちゃ元気じゃん……。
俺は痛みで床にのたうち回りながら、そんなことを思った。
「で? 苗字だとお婆ちゃんとごっちゃになるから私を名前で呼んでたら、そのまま名前で呼んじゃったってこと?」
「……その通りです」
俺は反省するために、床に正座させられて俯きながら肯定した。
神代はベッドの上に体育座りをして、膝に布団を掛けている。
顔半分が膝で隠れているため、目だけ俺を見るようにして話しかけていた。
俺はうつむいて神代の怒りが収まるのを待っていると、神代がため息をつく。
「はぁ……別に……嫌じゃないけど……その急って言うか……もっとこう……雰囲気が……はぁ~」
神代は布団に顔を埋めて、ぼそぼそと何か言っているが、俺には聞き取れなかった。
うつむいている俺にわかるのは深いため息をついていることと、何かに対して残念がっていることくらいだった。
「とりあえず、もういいから着替え持ってきて」
「……はい」
俺は今度は間違えることなく二段目の箪笥を開けた。
中にはスウェットや部屋着として使っていると思われるシャツ、それと半纏が並んでいた。
俺はその中からシャツと上下のスウェット、半纏を取り出して神代に見せる。
「……これで問題ないか?」
「うん。それでいい」
「それじゃ俺は部屋の外に……って、体を拭くもの持ってきたほうがいいよな?」
「……ほしいかな」
「わかった」
そう言って寝室から出たものの、タオルがどこにあるのかわからなかった。
仕方なく、また自分の家に戻って電子レンジで蒸しタオルを作り、それとは別に乾いたタオルを用意する。
……怒らせちまったなぁ……次から気を付けないと。
いつもなら特に何とも思わないはずなのに、神代を怒らせたことが思ったよりもショックなのか、かなり気にしている自分がいる。
俺は気分が沈んだまま、二つのタオルを神代のところに持っていった。
「……これでいいか?」
「ありがとう」
「……それじゃ俺は外に出てるから、終わったら呼んでくれ」
「……ちょっと待って」
俺が寝室から出て行こうとするが、両手で蒸しタオルの方を持って下を向きながら俺を引き止めた。
「……お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「……一人じゃ背中に手が届かないから手伝って……」
え? おいおい……今のは俺の聞き間違いですか? この金髪のお嬢さんは手伝えだって? つまり俺に背中の方を拭けということですか?
俺はあまりにも驚き過ぎて、声が出なくなってしまった。
「……なんか言ってよ」
「え!? いや、俺が手伝うのはまずいだろ!」
「仕方ないでしょ! 頼めるのが……しゅっ……修司しか………だから」
いや仕方ないって……そもそも年頃の女が同い年の男にそう言うのを頼むってことが……ん? 今、神代が俺の名前を言った気がするんだが。
「なぁ? 最後の方なんて言ったんだ?」
「う~! うるさい! 頼めるのが修司しかいないって言ったの! 」
「なっ! というか俺の名前!?」
「そうよ!? 修司が私を名前で呼ぶなら、私も名前で呼んでもおかしくないでしょ!?」
もうなんか自棄にやっているのか、神代は興奮してそう言いながら肩で息をしていた。
少し呆然としていると、神代が寒さで身震いをする。
俺はその様子を見て、ごちゃごちゃ考えるのをやめた。
「好きに呼んでくれ。このままだと風邪が悪化しちまうから、タオル貸して背中出せ」
「……うん」
和奏は俺に背中を向けて上着を脱ぐ。
一応袖の部分は腕を通したまま、前の方を服で隠していた。
それから蒸しタオルで和奏の背中を優しく拭いていく。
「あー……和奏。どこか痒いところとかはないか?」
「……大丈夫。ありがと……修司」
そんな感じで、ただ名前を呼び合っただけのことだが、何故か俺の心に温かいものが広がった。




