45.嵐の前の静けさ
「でも、いつもの習慣で身元が割れるような高価な紙を使っちゃうって、馬鹿すぎませんか? なんかの罠だったりします?」
手紙をソファーテーブルに戻し、カップの乗ったソーサーを持ち上げたリヴィオにエーリッヒは「うーん」と眉を下げて笑った。
「ヴィクトール兄上ならありえるけど、ピューリッツ兄上はなあ……」
「あ、馬鹿なんだ」
明け透けなリヴィオの物言いに、エーリッヒの笑いには覇気がない。同じ王家の血を引く身としては、色々と複雑な思いになるのだろうなあ。だって、馬鹿だ。馬鹿だって言われてんだもの。そんな悲しいことがあるか。いくら否定ができぬとはいえ、いや、否定ができぬからこそだろうか。
しかも、その「馬鹿」に振り回されてんだぞ。地獄だ。
「そ、その、伯爵は相手が誰だかわかっているわけですし、それに王族ともなれば、便箋に気を遣うのはあまりに当たり前のことでしょうから、それを改めるという発想自体、容易でないのではないでしょうか」
思わず諸悪の根源をフォローしてしまうソフィだった。
エーリッヒは「気を遣わなくていいよ」とシャツの襟を緩める。まだ若いのに気苦労が絶えない姿を見るソフィは、ほんとに悲しくなってくる。きっと子供らしい子供時代を知らない王様は、仕方がないさ、と首を鳴らした。
「入手困難の高価な便箋だ、という認識があれば違っただろうに、それすらピューリッツ兄上の頭にはないに違いない。いや、あっても同じかな。情けないが、それが俺の兄で、かつては王位に近かった人だって現実は受け入れないとね」
はあ、とため息をつくエーリッヒの憂いを帯びた姿には、色気と哀愁が漂っていた。
「あの」
ソフィのティーカップが空になった頃。ふう、と各々感情のこもったため息をついたところで、ワイズが声を上げた。
「どうして、一介の騎士の俺にここまで話してくれるんでしょうか」
「いい質問だね」
立ち上がったエーリッヒは、テーブルの上の手紙を束ねた。職人が魂と技術を込めた紙を、考えうる限り最も無駄な使い方をしたそれらを、トン、と綺麗にまとめるとニコリと笑う。
「領主は今、地下牢に閉じ込めている。エレノアの侍従が見張ってくれているから逃げることはないだろうが、この手紙と詳細をまとめた資料とともに、彼を王都に連れて行かなくてはいけない。君にはその間、領主の代わりをしてほしい」
「なるほど」
頷いたワイズは、けれど「え?!」と目を見開き、勢いよく立ち上がった。さながら、死んだと思った虫が暴れだしたのを見て驚くねこちゃん。びょいん! と飛び退くような動きはとっても俊敏だ。
「な、は、え、は?!」
絵に描いたような動揺ぶりを笑えるわけがない。ソフィだって、いきなり「君、領主の代わりね」なんて言われたらとりあえず逃げる。逃げ切ってやる。大丈夫、ソフィには最強の騎士と最高の神様がついている。
「陛下、こ、この状況でなんて冗談を」
「冗談か」
「……冗談ですよね」
残念ながら、ふふ、と笑うお可愛らしい顔が、冗談なんかじゃないことを物語っている。アーメン。
ソフィはそろりと立ち上がり、ソーサーとティーカップをワゴンに載せた。
「ねえエレノア。もしも今、街の人間全員の催眠魔法を解いたらどうなると思う?」
「術師に気づかれるだろうな」
仕方がないなあとばかりに眉を下げたエレノアは、長い脚を組んだ。さらりと波打つ金色の髪が肩に落ちる。
「そうすれば、ピューリッツ殿下にこちらの動きを気取られるだろう」
つまり、エレノアが元気にお城の外にいることも、王様が王都を離れていることも、ぜーんぶ敵に筒抜けになっちまう。ついでに言えば、エーリッヒのいない城内で対策を練られる可能性だってある。ただでさえ遅れを取ってるってのに、そりゃ不味い。
「領主を捕縛しに騎士が来ても同じだろうな」
「いくらピューリッツ兄上でも、外に騎士を動かせば気取られかねない」
一応は部隊を率いて戦をしていたわけだから、まるきりのお馬鹿さんってわけでもないんだろう。秘密裏に、こっそりと、背後から動かにゃならんエーリッヒにしてみりゃあ、この場だけの解決は悪手でしかない。
「何も起きていない、そう見せるためには、明日も明後日も、今日と同じ日常を繰り返してもらわなきゃいけない。今それができるのは、催眠魔法がかかっていないワイズだけですね」
一人くらいは誤差の範囲だろう、とワイズの魔法が解かれたことによる影響がないことは神様のお墨付きだ。
ソフィと同じく、ティーカップをワゴンに戻したリヴィオが朗らかに笑った。楽しくて仕方ないって顔だな。うーん、かわいい。いつでもどこでも、どんな時でもリヴィオは可愛くて綺麗。それって凄いことなんじゃないかと、ソフィは改めて思うんだけども。そんなソフィの感慨深い気持ちも知らない顔で、リヴィオはワイズのティーカップも引き上げる。
「そんな……! 陛下はどこに行かれるのですか!」
「少々事情があってね。俺は王都にいることになっている。一つの場所にじっとしてうっかり見つかるわけにはいかないんだよ。それに、まだ終わっちゃいない」
エーリッヒは、子どもたちの証言を記録した魔法石を撫でた。
無機質で透明な球体に閉じ込められた、禍々しい闇を、エーリッヒの整った爪先が、するりと撫でた。
「魔道士を捕まえる。これ以上、恥をさらしてなるものか」
あれはもう、王族などではない。
そう言って、エーリッヒはただ微笑んだ。





