41.紅茶のお味
催眠魔法とは、当人も気付かないうちに記憶を書き換えられてしまう魔法だ、とエレノアが気絶させた兵士を見下ろし、アズウェロは説いた。
「例えばそうだな、想像してみろ」
アズウェロの低い声は、静かに言う。
「隣人と笑っていた記憶を、親を殺された記憶に書き換えると、どうなると思う」
「どうって……」
笑顔でおしゃべりして、バイバイじゃあまたねって手を振った記憶が、無かったことになる。またね、ってそれっきり。
楽しかったはずの記憶が、世界で一番忌々しい記憶になる。
「っ」
「本人は当たり前のように、その隣人を恨むだろう。突如湧いた憎しみになんの疑問も抱かず、ずっと長いこと恨み続けてきたのだと、違和感すら感じずに」
恐ろしい事を淡々と告げるアズウェロの声にエレノアは、なるほどな、と顎を撫でた。
「騎士が突然姿を消すなんて、どうやって揉み消したのか不思議だったんだ。騎士はいなくなったんじゃない。憲兵団に変えられていたんだな。そっくりそのまま、街ごと」
「……騎士の記憶だけを操作しても、街の人が気付いては意味がないから、ですね」
昨日まで騎士だった人たちが「憲兵団です」なんて言い出して、「あ、はいそうなんですね」となるわけがない。
だから、街ごと、催眠をかけたのだ。
仮にも国王が配置した騎士達だ。いつかは露見しただろうが、時間稼ぎにはなったはずだ。事実、エーリッヒはこの事態に気付いていなかった。
だって、ねえ。バックにいるのは国王陛下の兄君だ。地方の小さな街の問題を揉み消すくらい、容易いことだろう。
「あの店主の説明から察するに、領主の言うことは無条件で受け入れるような催眠もかけていそうだな」
ち、とエレノアは小さく舌打ちをした。彼女らしからぬ振る舞いであったが、ソフィだってその気持ちはわかる。
だって、朝食の為に立ち寄った街のレストランで店主は、騎士を『身分を笠に着た陰険な奴ら』と評し、『横暴な態度に随分困らされた』と眉を寄せ、『助けてくださったのが領主様の憲兵団』だと、ソフィたちに説明したのだ。やたら自慢げに語るわりに、捜索が甘い事には何も触れない。
自分がおかしな事を言っていると自覚すらなく、根拠のない騎士への嫌悪感と領主への賛辞を並べる。
それはつまり、そういう風に、記憶を操作されていたのだ。
「よくもこんな、人を踏みにじるような真似を……!」
ソフィが今ソフィとして、立って笑っていられるのは、記憶があるからだ。
ソフィーリアとしての記憶、ソフィとしての記憶、まあそらね。楽しい事ばかりじゃあなかったけれど。
でもリヴィオニスに手を引かれたあの夜は、ソフィの抱える記憶の中でいっとうキラキラした、それはもう大切な記憶で、あの夜にたどり着くには、ソフィーリアの人生がなくてはならなかった。
ソフィーリアの一生ってのは、うんざりするほど禄でもないもんだったし、繰り返したいかと聞かれりゃソフィは瞬時に首をふるけども、だけどあの日々があったから、ソフィはソフィなのだ。
それを、知らぬ間に、他者に書き換えられるなど。
「反吐が出るな」
フン、とエレノアは吐き捨てた。嫌悪感と苛立ちがありありと浮かぶその顔に、ソフィは強く頷いた。
まあな、と同意したアズウェロは、「しかし」と顔を上げた。
「人の身には、いささか大掛かりな魔法だな。それなりに実力がいるはずだ。──例えば、」
ちら、と見上げるアズウェロの視線に、エレノアは「はは」と声を上げて笑った。
さら、と揺れる髪が光を反射する。
「私を呪えるくらいの?」
左様、とアズウェロはくつりと笑った。
この瞬間。
寄り道と旅の目的、そしてゴールが、全て結びついた。
エレノアに呪いを掛けた魔導士と、騎士に魔法を掛けた魔導士は恐らく、同一人物。
つまりはどちらも、背後にピューリッツがいる。
ゴール、すなわちピューリッツの糾弾が可能となる。
エレノアは、愉快でたまらないというように笑った。
尻尾を掴んだと笑っているのか、どこまで腐っとるんだと腹を立てているのか。或いは、これで思う存分やれるぞと殺意を燃やしておられるのか。
ソフィには判別のつかない笑みであったが、まあいずれにしろピューリッツの行く末は決まった。後はそこまでいかに上手い絵図を描けるかだろう。
なにせ、エレノアは呪いを受けている。
このままでは、少々分が悪い。
エレノアがピンピンしている事や、ピューリッツが不利になる情報を手にした事を気づかれてしまえば、さらに場が荒れかねない。
──いかにより早く内密に動くかが重要ね。
ソフィと同じ結論に達したのだろう。エレノアは、ソフィの目を見て一つ頷いた。
「エーリッヒと合流しよう」
そう言ってエレノアは、ひょいと。ひょいと領主を担ぎ上げた。
大きな荷物を運ぶように、男一人を軽々と肩に乗せている。お人形さんかなんかかな? って具合に肩に乗っけられた領主は気を失っているが、腹が押さえつけられて苦しいのか。
ぐえ、と蛙のように潰れた声を上げた。
───領主を連れて合流っていうか、領主を運んで合流って感じだったわね。
駆け抜けるエレノアの背中を思い出したソフィは、なんとも言えない気持ちでティーカップを持ち上げた。
今日もリヴィオが淹れた紅茶は最高に美味しい。





