34.暴れ馬を乗りこなせ
この世はいつだって不公平で不平等で不条理だ。
なあんてことは、皆々様ご存知の上で毎日をそれなりに、或いは必死に過ごしているわけであるが、それにしたってこんなのは酷い、とソフィは唇を噛んだ。
男に担がれ泣き叫んでいた少女の顔が、声が、頭から離れない。
突如降りかかる暴力に、どれほど恐ろしい思いをしていることだろうか。
その恐怖を思うだけで、ソフィは腹が立って仕方がない。
なあーにが、森にアジトらしきものが無い、だ。
森の奥にひっそりと、だがそれなりの存在感を放つ小屋を、エレノアとレイリ、それから抱えたアズウェロと共にソフィは睨みつける。もとい、しっかりと見張りながら唇を噛んだ。
「主」
もむ、とふいに柔らかな感触が、ソフィの腕に落とされた。
はっとしたソフィが視線を下ろすと、優しさをそのまま丸めたみたいな、もこもこの白い神様が、主、ともう一度ソフィを呼んだ。
「魔力が乱れているぞ」
白い小さな熊さんの姿で、アズウェロは、もむ、ともひとつソフィの腕を叩く。
「心を静めろ」
可愛い容姿からは想像できない、低く落ち着いた声が、ソフィの心にゆっくりと広がった。
ソフィは、目を細める。
「ごめんなさい……」
萎むような自分の声に、ああ、とソフィは眉を寄せた。ああ、まったく、本当に、嫌だ。
ざわめき波立つ心を、表に出さないことなんて。あんなにも簡単だったはずなのに。
ソフィーリアのように、全部を飲み込んで静かに微笑むことが、ソフィにはできない。
美しい庭園を模した箱にしまった、義務とか責任感とか大層な名が付いた灰色の何かで成り立っていたソフィーリアの人生に比べて、ソフィの人生の、なんと賑やかで楽しいことか! キラキラでぺっかぺかなブルーベリーが実る、鮮やかで甘酸っぱい世界。まるで御伽噺のような世界を、ソフィは常に全力疾走で駆け抜けている。脳から身体に指令が行き渡るそのスピードたるや、まさに電光石火。しゃんしゃんと鈴が鳴り響く号令は、輝いている。
リヴィオが手を引いてくれる果ての見えない道を、ソフィは、笑い声を上げながら走り続ける。ソフィは、何処へだって行けるし、なんだってできるのだ。
そんな愛おしい万能感に満たされているのに。
なのに、なのにソフィは今、無性に、ああ、嫌だ。本当に嫌なのに、昔の自分が、羨ましくなる。
「……やり方が、思い出せないの」
「主?」
どうやって生きていたんだろう。
どうやったら、あんな風に生きてこれたんだろう。
「もう、感情を、うまく殺せない」
嫌な感情が、ぎゅうぎゅうと押し込めるソフィの手を振りほどいて暴れようとする。
誰かを羨んだり嫉んだり憎んだり、なんて無駄でなんて無益。こんなもの、少しだっていらんのだ。飲み込んで、殺して、埋めて、それで、
「殺す必要はない」
もむ、もむ、と柔らかい小さな手が、ソフィの手を繰り返し叩いた。
心を温めるような、ふかふかの感触が、声が、繰り返し繰り返し。ソフィの手を叩く。
「主。あの黒い魔女の怒りを喜んだのは誰だ? 主はあの時、心を剝き出しにする魔女を見て何を思った」
「アズウェロ……」
「少なくとも、我が時間を共にしても良いと、面白いと思ったのは、感情に彩られた魔法を使う幼き魔女だ」
くだらん、と乱暴な言葉はけれどもひたすらに穏やかで、ソフィが思わずまじまじと見下ろすと、アズウェロは、ふん、と鼻を鳴らした。
「主はどうも、一か零かしか知らんのかというほど極端すぎるきらいがあるな。もっとテキトーに生きろ。人間であることを楽しめ」
「て、てきとう」
「テキトー、だ。かくあるべき、などくだらんぞ。己を己で縛るな。視野を広く持て」
「視野を……広く……」
なんと、まあ。それはまだ、ソフィーリアが自国の王の前で話すことを許されていた時。彼の王に度々言われていた台詞であった。王は、「君は一直線だなあ」とソフィーリアを笑い、「まぁそこが面白いんだけど」と続けるのだ。
そう言われると、「視野を広く持たなくては」と頭ン中がそれでいっぱいになっちまう所がもう、視野が狭い人間グランプリが開催されれば国代表で出場できるだろなって自覚のあるソフィーリアは、己の不器用さにほとほと嫌気がさしていたわけであるが、ここに来て同じ状態に陥るとは。
ははん。つまりは人間、そう簡単には変われないってわけだ。
名前を変えようが、高尚な台詞を並べ立てようが、所詮は自分。どこまで行っても地続きだ。は、そりゃそうか。
だったら。ソフィーリアが出来た事を、ソフィが出来ない道理はない。
むしろ、ソフィーリアよりもっと上手に、できるんじゃないのか。
だって、ソフィにはリヴィオとアズウェロがついている。すーぐ挫けそうになるソフィを、認めてくれる。
ソフィがぎゅうと拳を握ると、「そうだな」と、エレノアが優しく笑った。
「感情があるからこそ、争いも絶えないのが難点ではあるが」
でもね、とエレノアが小さく笑うと、長い金色の髪がふわふわと揺れる。頬をくすぐる金色の波に、ソフィは瞬きをした。
「感情があるから、私たちは何かを生み出せるし、何かを慈しむことができる。誰かに優しくしたいと思う気持ちも、誰かに優しくしてもらって嬉しいと思う気持ちも、」
生れて初めて寝坊をした、あの日のおひさまみたいな声が、ソフィに降り注いだ。
「殺してしまうには、あまりに脆いだろう?」
「!」
ぎゅう、と思わずソフィがアズウェロを抱える腕に力を入れると「むい」と潰れたような声がしたような気がして、ソフィは再び瞬きした。
ぱちん。ぱちん、ぱちん。
「感情は殺すのではない、御すんだ。それは全て、君の力になるさ」
そうだなあ、とエレノアは歌うように続けた。
「幸いにも、怒りをプレゼントできる相手がいるんだ。それまでしっかり、とっておくといい。素敵な贈り物になるよ」
「アレン……」
ふふ、と上品に笑う顔は少し意地悪げで、楽しそうで、とても優しくて。胸に抱いたアズウェロはとびっきりふかふかのもこもこで温かくて。
気付けば、ソフィの胸であれほど暴れまわっていた感情は、すやすやと寝息を立てていた。ぬくぬくのお布団に、ぐるんと包まれて、両手が空いた脳みそ君が、背伸びをしている。
簡単だな、とソフィは思う。
心が落ちていくのも、浮上するのも、ほんの一瞬。ほんの刹那の動きを、ソフィは追いかけて行くだけで一苦労だ。
だから複雑で、だから愛おしい。
だから、
「さて、中はどんな様子だろうねぇ」
──ち、近いですエレノア近いです……!!!!!!
だから、「声が近い!!!」と、ソフィの心はいとも容易く、それ一色になった。浮かれ脳みそ君が両手を上げて下げての大慌てである。き、緊急事態! 緊急事態!
いや、実はねソフィちゃん。只今エレノアの腕の中なんである。
木陰で小さくなるソフィを宥めようと、なんともまあスマートにソフィの肩を抱き寄せて囁きあそばされる騎士様に、ソフィの心はどっきんどっきんと喧しい。脳みそ君の緊急指令に、心臓君が大忙し。落ちつくのよ! とソフィが号令を出しても、ちっとも聞きゃしない。
なるほど、なるほど。さすがは神様アズウェロ様。心を落ち着かせなければ、人はこんなにも思考力を奪われるものなんだね! たしかにたしかに。ここ最近のソフィは、浮かれ脳みそ君に体の制御を奪われた結果、大胆でアグレッシブな行動力を発揮し続けていた。思い返すだけで、エレノアの腕どころか木陰も転がり出てそのまま、落とし穴にすっぽーんと収まりたくなるソフィは、感情に身を任せてはならない、っていうことを今更に身をもって体感している。ぬおう。
つまりは、貧弱なソフィは暴れ馬のごとき己の感情にぶんぶん振り回されたって、すっ飛ばされた空中で身体を捻ったり羽ばたいたりはできんわけだから、暴れ馬に鞭打って「大人しくしろい!」と怒鳴りつける根性を持たなくてはならない。
いや、お馬さんにそんな乱暴な事はできない。
対話だ。
ソフィの知るお馬さんたちは、とても賢く美しく気高い。
こちらの言葉を理解し、寛大な心でもってソフィに接してくれる。
ならばソフィも、己の胸の内に住まうお馬さんと対話をし、「大人しくしてね」「ヘイご主人」と頷かせる関係性を築かなければならないのだ。
無視したり、無理やり押さえつけようとするから良くない。んなもん、反発があるに決まってらあ。
何に怒っているのか、何が悲しいのか、どうしたいのか、きちんと向き合い、理解し、ここぞって時に駆け出す糧にする。
ソフィが知らないだけで、多分、みんなそうやって生きてんだろう。
んじゃあ、こういう時はどうすれば良いんだろうか。
ソフィの心は言った。
近い。あったかい。いいにおい。
ソフィの心は変態だった。ぐはっ。ソフィはなんか深いところにダメージを負った。
これが噂の匂いフェチね、なんてこんなとこで客観的になってどうすんだ。己の変態性なんぞ認めてなるものか。ここは抗っとくとこだ。なんか大事な何かを失いそうなんだものなあ。
悪いのは、なんかいい香りを纏っているリヴィオとエレノアであって、ソフィじゃない。ソフィはくんかくんか鼻をひくつかせる、破廉恥ガールではない。断じて。
ソフィは、ぐっと歯を食いしばった。
そもそも、友人も恋人もいない人生を送っていたソフィーリアという過去があるソフィは、誰かに抱きしめられたのはリヴィオが初めてなので、人との接触に慣れていない。
人の体温がすぐ側にあるというだけで緊張するし、ソフィの心まで守るように肩を抱かれちゃあ、脳みそ君も大人しくしておられんのだ。
恋のときめきとはまた違う心臓の音に居たたまれなくなると、
「出てきたな」
エレノアが硬い声を上げた。
小屋から、男たちがぞろぞろと出てくる。
少女を抱え、リヴィオとエーリッヒと共に。
ソフィは、カッと腹の中が熱くなるような怒りを噛みしめる。
間違えちゃだめ、とソフィは顎を上げる心に囁いた。
間が空きがちですみません…!
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