22.赤い男
「それは、きっと魔女です」
ぱちん、と瞬きをした真っ黒の瞳に、ソフィは思わずごきゅりと紅茶を飲み込んだ。あっっつい!
小さな街の小さな宿の、ベッドの上。
巨大な鳥のモンスターをあっさりと倒した小さな女の子は、とっても無口で無表情であったが、魔法の事になると、それはもう饒舌だった。濁流のように流し込まれる情報量に、ソフィはついていくだけで必死であったが、同時に、その未知の水流に夢中でもあった。
ソフィが頷いたり質問をしたりする度に、心なしかオニキスのような瞳が輝いている気がして、もっと楽しくなる。
だって、女の子とお喋りだ。
派閥も思惑も政略もない、まっさらでピカピカでなんかふわふわするお喋りだ。小難しく頭を悩ませることも、顔色を伺うこともない、言ってしまえば無益で無価値な、ただのお喋りだ! そんなもん、楽しくないわけがない。
ソフィにまた一つ、「楽しい」を教えてくれた「ルネッタ」と気軽に呼ぶことを求めた彼女は、オブドラエルという国の王様の婚約者であり、魔女でもあるのだとか。
そんな魔女殿が、仰った。
「ソフィの魔法は、魔女の魔法に似ていますね」
魔女と魔導士について話をしていたルネッタが、「そういえば」とソフィに目を合わせて、言ったのだ。
「似ている、というよりそのもののように思えるのですが……魔女に魔法を習ったんですか?」
魔女について深く考えたことがなかったソフィには、いまいちピンとこないが、それは珍しい話なのだという。
魔女ってのは、決して少ないわけではないらしいが、それでもほいほいと師事できるような存在ではないんだと。まあ、たしかにソフィだって魔女と出会ったのはこれが初めてだ。
ルネッタは、ソフィがどこで魔法を学んだのかと興味津々だったが、おもしろい話などないので、ソフィはちっと困った。王城の馬鹿でかい図書館の隅にひっそりと埃被っていた本が物珍しくて、自室でこっそり読んでいただけなんだものなあ。
そもそも。
王妃になるためのお有難い教育科目に「魔法」なんてものは無い。
母親から受けた淑女になるための教育になんて、もっと無い。あるはずもない。
美しく歩いて、完璧なスピーチをして、優雅に扇を開いて、感情を表に出さずにっこり微笑む。そういう、四角い箱に綺麗に収められるようなものが、ソフィーリアに求められていたんだからね。はは、なんっておもしろくねーんだって話で、そりゃあ面白味のない人間になりますよ、って話なんだが、まあつまり。
そんな日々の中で偶然出会った本は、ソフィの心をちょっとだけ元気にしたわけだ。
まるで、王妃がこっそり貸してくれる本みたいに、ソフィーリアの人生に無用とされている物に触れる間だけは、何者でもないし何者にでもなれた。
「では、本を読んで魔法を覚えたのですか?」
「基本的にはそうですが……魔法を使えるようになったきっかけをくれた人がいたんです」
お茶会の定義ってなんだっけね。
なんて嫌味を言う暇すらない、二人っきりのお茶会。席にも着かず、婚約者の顔だけ見て「義務は果たした」とくるりと踵を返す、なんて真似が許されるのは王太子殿下様だからで、それにハイそうですかと大人しく家に帰れば、ソフィーリアは「婚約者を楽しませることもできない無能」と父親の怒りを買っちまう。
そんなお茶会がこの世にあってたまるかクソッタレ。ってなことも無論、ソフィーリアが言えるわけはないので、諦めの境地に至ったソフィーリアは、お茶会の後は図書室の隅っこで、王妃の本や、見つけた魔法の本を読みふけった。
そんなある日、不思議な男に会った。
「おチビ、魔女になりたいん?」
あっかい。
真っ赤な長い髪に、真っ赤な瞳、真っ赤なコート、真っ赤なインナーに、真っ赤な靴。よく見りゃ爪まで真っ赤。
赤いとしか表現しようがない赤い男が、気が付いたらソフィーリアを見下ろしていた。
誰だ。どこから現れた。当たり前の疑問も質問も忘れて、ソフィーリアが自分に影をつくる男をぽかん、と見上げると、男は「それ」と本を指した。
「君が見よんの、魔女の本やで」
「え」
当然、ソフィーリアは魔女になりたいなんて思った事は無い。
ソフィーリアには、王妃以外の道なんぞないのだ。王城に入ることができる人間が、それを知らない事はないだろう。
ならばこれは誘導か。罠か。
そう思うのに、男の瞳は、ソフィーリアの見慣れない色をしている。あ、いやすっげ赤いんだけど、って意味じゃなくて。
「手ぇ貸しちゃろか」
答えあぐねるソフィーリアをどう思ったのか、底の読めない瞳は、不思議な響きの言葉で首を傾げる。さら、と肩を落ちていく赤い髪を、ソフィーリアはぼんやりと見詰めた。
「手、出して」
「え」
貸してくれるんじゃなくて? なんてとぼける暇もなく。問答無用で右手を掴まれた。
「っ」
骨ばったごつごつとした手がソフィーリアの手を握り、そして赤い瞳がじっと見詰めてくる。
火の玉みたいな瞳は、じ、とソフィーリアを透かしてひっくり返すようだ。ぐる、と獣が喉を鳴らす音が聞こえた気がして、ぞく、とソフィーリアの背筋を何かが走り抜けて、
爪先に、唇を落とされた。
──瞬間、バチ、と脳内で弾けるような音が響く。
「!」
ソフィーリアが思わず目を閉じて頭を押さえると、反対の手をぎゅうと握られた。
放してくれない、繋がれたままの自分の左手は、燃えるように熱い。は、とソフィーリアが喘ぐように息を零すと、のんびりした声が歌うように言った。
「だいじょーぶ。ほら、目ぇ開けて視てみ。ど?」
ど? って、何が、と言われるがままに目を開けて、ソフィーリアは言葉を失った。
「……綺麗……」
キラキラと、火の粉が舞うように、男が赤く光っているのだ。
力強いのに儚くて、熱い気がするのに、凍えるように寒い気もする。
頭の芯が痺れるような感覚のまま、ぽつりとソフィーリアが零すと、男は瞬きをした。
「それは初めて言われたわ。……ふーん、悪い気はせんね」
にやり、と唇の端を上げた男は、「んで?」とソフィーリアの手を放した。
「どんな風に視えとんの?」
「え、と、たくさんの、赤い、光の粒、みたいな」
目の前にふわふわと揺れる火の粉をなんとか言語化すると、なるほど、と男は、ぽんと。ソフィーリアの頭に大きな手を乗せた。
「君、才能あるよ。普段から周りをよく見よんやろうね。魔力がよく見えてるやん。良き良き」
「魔力? この光が?」
頷くと、男はソフィーリアの頭から手を放した。
「いろんなもん見てみ。いろんな視え方があるから」
「人によって違うんですか?」
「ぉん。魔導力の色や形は人それぞれやもん。魔法を使う才能があろうがなかろうが、全てのものに魔力はあるんやから」
「……では、貴方にはわたくしの魔力が視えていらっしゃるのですか?」
「気になる?」
なんでもないように言う男に、ソフィーリアは言葉に詰まった。
気に、ならないと言えば、嘘になる。
本の上の文字でしかなかった世界が今突然目の前に広がっていて、でも、聞けなかった。
聞けなかった。
はく、と唇を震わせるソフィーリアに、男は、ふ、と小さく笑った。
「んじゃ次に会った時、教えたげるよ」
おチビが俺様のこと覚えちょったらね、と悪戯に笑った男は、次の瞬間には消えていた。
瞬きする一瞬の隙に姿が消えるだなんて! まるで化かされたような気分だ。夢か幻か、なんてね。己の正気を疑わずに済んだのは、手元の本に走り書きがあったからだ。
『その感覚を忘れなければ、本に書いてることがちゃんと視えるようになるよ』
「王城の本に書き込みをするなんて、驚きました」
おかげさまで、ソフィーリアはそれまで以上にその本を読んでいる姿を周囲に見られないように必死だった。何落書きしてんだって疑われたらやだもの。
懐かしいなあ、とソフィが呑気に零すと、ルネッタはこっくりと頷く。
「それは、きっと魔女です」
ぱちん、と瞬きをした真っ黒の瞳に、ソフィは思わずごきゅりと紅茶を飲み込んだ。あっっつい。
淹れ立ての紅茶の急襲にソフィが咳き込むと、ルネッタがびくりと肩を揺らした。
「だ、大丈夫ですか」
「大、丈夫、」
ちょっと死ぬかと思っただけだ。
慌てて水を持ってきてくれるルネッタに礼を言い、水を煽る。やー冷たい水って最高だね。今ならソフィは水の有難さと尊さについて語りつくせそうだった。水が無いところに生命は生まれない。すなわち水は生命そのものなのではなかろうか。ああ、賛美の詩すらスラスラかけちゃいそう。だけどま、今はそういう空気じゃない。んじゃ後で詩を詠みますかつったら絶対やらんから、ソフィが水を賛美する詩を書くことはないだろう。残念だね。
ふう、と滲んだ涙を拭ったソフィを、ルネッタはじっと見ている。表情はちっとも変わらないが、その熱視線はまさか恋のハリケーンってわけじゃないだろう。
心配されているのね、とソフィはにこりと笑った。
「大丈夫です」
「はい」
こく、と頷く表情はやっぱり変わらないけれど、ほっとしたのか、ルネッタは「その魔女」と話を戻した。
「自分の魔力をソフィに流したのでしょう。荒療治ですが、手っ取り早い。……ですが、とても繊細な魔力操作が必要です。かなりの実力者だったのかと」
なんとなくそうだろうな、と思っていたので今更そのとこに驚きはない。
が。
「あの、ルネッタ」
考えるように視線を落としてたルネッタは、はい、と顔を上げ、ソフィに視線を合わせた。
「その人は男の人なのだけれど……」
「はい」
「でも魔女なんですか?」
「それが何か?」
え、ええ……。ソフィは眉を下げた。
わたくしがおかしいの?
「魔女っていうから、女性だけなのかと……」
「ああ」
今気が付きました、とばかりにルネッタは少しだけ目を見張り、頷いた。さら、と長い髪が肩を落ちていく。
「魔女に魔女の魔法を学べば魔女ですから、性差はないようです」
「まあ……魔女って、自由なんですね」
ソフィーリアはひたすらに、淑女らしくあることを求められ生きていた。
貴族女性とはかくあるべしと、そっりゃもう厳しく厳しく。厳しいって言葉が実体化してドレスを着ればそれがソフィーリアの母であり、ソフィーリアという女の象徴だった。息がし辛いったらないが、泣いている暇なんざない。
顔上げて背筋伸ばして笑顔貼り付けて、自由なんて言葉はキラキラした文字が並ぶ本の中にしまい込んで生きていた。
「魔女は本来、自然と共に生きる、縛られることを嫌う性分なんだそうです」
そんな生き方があるだなんて、がっちがちの頭をスコーンと殴られるような気分だ。
羨望すら抱かない。
なるほどなあ、なんて遠い世界の言葉をソフィは咀嚼する。もぐもぐごくん。うん、今はまだ、味がよくわからないけれど。
ただ、ルネッタの瞳が、ぼんやりとしていて、ソフィはそれが気がかりだった。
その時のソフィには、ルネッタが何を考えているのかなんて、わかるはずもない。たくさん話して打ち解けることができたってだけ。
ふと見える、人と人の間にある壁。そんで、ソフィはその壁の壊し方も登り方も知らない。踵を返すべきか、じっと待つべきか、どうすべきかすらわからんのだ。
できたのは紅茶をすするだけ。うむ、情けなし。
──今思えば、ルネッタもまた、自由という言葉からほど遠い場所で生きていたのだろう。
魔女らしく生きられなかった魔女の、悲しい片鱗。
思い出すだけで胸がぎゅっと痛むソフィに、記憶の中のルネッタは、「それで」と落ちてきた髪をはらった。
「その後は、本で勉強を?」
「ええ。視ることをやめられなかったんです」
ふふ、とソフィが笑うと、ルネッタが小さく頷いた。笑ったのだろうか、とソフィは笑みを深めた。
「いろんなものを視るようになりました」
そう。不思議な赤い男との出会いは、ソフィーリアの見る景色を一変させたのだ。





