20.幕開けについて
「リック様、ご準備はよろしいですか?」
きゅ。
はらりと落ちる前髪、美しい所作。立ち香るような色気と気品を放つ、リヴィオの笑顔とお辞儀にソフィが唇を噛むと、群青色の髪の少年が目を細めた。長い前髪の奥でキラキラと輝くアクアマリンは、びっくりするくらいに綺麗だ。
「もちろんだよ、リヴィオ。いつも苦労をかけてすまないね」
「リックの我儘にも困ったものだよなあ。ねえ、ソフィ」
さら、と波打つ金色の髪を風に揺らして虹色の瞳が輝くので、ソフィはにっこりと微笑んだ。
「わたくしは楽しいですよ、アレン」
「聞いたかレイリ、私の妹は可愛いなあ」
かわいい! かわいい?!
ふ、と浮かべられた笑みにソフィがぎしりと固まると、レイリ、と呼ばれた男は、鞍から顔を上げた。
そして、ペリドットのような緑の瞳で、片方の口の端を上げ、シニカルに笑う。
「あんた達兄妹はどっちも可愛いんじゃない?」
「なんだそれ」
「!」
「ちょっと待ってくださいその通りなんですけど、なんですけど聞き逃せないって言うか」
「重いなこのイケメン」
さあて。
真っ黒の馬が二頭、真っ白の馬が一頭、それからポン! と大きな身体に変わった真っ白の熊さん。
そんでもって、身分を偽る怪しげで、それでいてやけに楽しそうな一行は、かくも愉快な珍道中。もとい、エレノアの呪いを解く旅の幕を開けたわけである。
そう、シリアスな旅だ。国王に牙向く不届き者が始まりに在る、どシリアス待ったなしの旅だ。当人たちに、ちっとその緊張感が足りんような気はするが、それはそれ。秘密裏に動かねばならん。
そんなお忍びの旅とあっちゃあ、おいそれと姿を晒すわけには、いかんわな。
だって、金髪の美少年と長身の黒い騎士の組み合わせって、目立つんだもの。一人で立っているだけで目立つのに、二人揃ったら「陛下だ!」と指さされまくりのバレまくりだ。お忍びとは? って話だね。
そこでアドルファスが提案したのは、名前と一緒に髪と目の色を変えることである。
「母上を呼びましょう」
そんなわけで夜も更けた頃。
こつん、とエレノアの部屋の窓が音を立てた。
メイドが窓を開けると、さあ、と風が室内に通る。空気が揺れ、小さな花びらが一枚、ひらりと床に落ちた。花びらを拾ったメイドは、静かに窓を閉める。
すると、何もない空間から突然、紺色のブーツのつま先が現れた。
まるでそこから生まれるかのように、編み上げの長いブーツ、短いワンピース、綺麗な鎖骨、小さな顔に大きなピアスが順に姿を現し、最後に短い水色の髪が見えると、その人は目を開けた。
呆気にとられるソフィの前で、猫のようなアーモンド型の大きな瞳が、きゅうと少女のように微笑む。
「ハァイ! 空色の魔女レイジニアン、華麗に復活よ!」
「母上……」
がく、と肩を落としたアドルファスはどう少なく見積もっても二十代後半だろう。その母親だというレイジニアンの若々しさと美しさに、ソフィは目をぱちくりさせた。スタイル抜群。お肌ツヤツヤ。一体おいくつですか? 女性に年齢を聞くほどソフィは阿呆じゃないが、その美の秘訣は聞いてみたいような。
それに、何もないように見えた手には、青いマントがある。一体あれはなんだろう? 魔女が使う秘密道具だろうか。
そわそわうきうきが止まらないソフィは、けれど鍛えぬいた表情筋で何でもない顔をする。そういう空気じゃない事くらい、わかりますよ。はい。
「二度も呼びつけることになって、すまないね」
エーリッヒが声を掛けると、レイジニアンは華やかな登場シーンから打って変わって、深く頭を下げた。
「とんでもありません。力及ばなかった私に挽回の機会をいただけたこと、心よりお礼を申し上げます」
エーリッヒは、それに静かに首を振った。
「来てくれて有難う、夫人」
「その呼称に釣り合わない登場をお許しくださいませね、陛下」
「勿論だよ、空色の魔女殿」
エーリッヒが楽しそうに笑うと、身体を起こして、ぱちん、とウィンクを返すチャーミングすぎる母親に、アドルファスは片手で顔を覆った。
「母上……」
「今の私は貴族の奥様じゃないもん。自由を飛ぶ空色の魔女よ」
「自分の母親がもん、とか言うのマジで聞きたくねぇ」
「あんたってほんと口が悪いよねぇ。誰に似たんだろ」
「父上じゃねぇことだけは確かです」
「おほほ、言うじゃないのこの腹黒息子が」
「いって!」
すい、とレイジニアンが指を動かすと、小さな光がアドルファスの顔の横で爆ぜる。バチッ、と音がするとアドルファスが頬を押さえた。
「無詠唱でいきなり息子の顔に雷魔法放つ母親がいますか!」
「おかげで強く育ったね?」
「あーあー! そりゃあどうも!」
凄い親子だな。
ソフィは自分の両親は大層な変わり者であったと、世間を眺めて思うわけだけれど、この親子もかなり変わっている。いろんな親子がいるなあ、とソフィが思わず一人で頷いていると、隣から「なんか親近感わくなあ」とほんわかした声が言うので、ソフィは顔を上げられなかった。いや、なんとなく。
「エレノア様」
「え?」
楽しそうにやりとりを見守っていたエレノアは、名前を呼ばれて瞬いた。
ぱち、と開かれる瞳に、レイジニアンは目を細め、そして、深々と頭を下げる。
「夫人?!」
「お力になれず、申し訳ありませんでした」
「あ、頭を上げてくれ!」
「国母となられる貴女様をお救いできなかったこと、お詫び申し上げます。そして、陛下をお救いくださったことを、心より、心より、お礼申し上げます」
「夫人……」
エレノアは、右手を上げ、迷うように、ぎゅ、と握り締めた。
そして、とん、と優しくレイジニアンの肩に手を添える。
「これからもどうか、陛下を支えて差し上げてほしい」
「有難きお言葉、しかと」
美しい絵だ。
主の為に忠誠を誓う臣下と、それを共に支える、王の婚約者。二人が交わす言葉は美しく、重く、清廉だ。
———なのに、なんだろう。
なんだろうなあ。上手く言葉にならない。こう、もや、とよくわからないものに、頭の中を引っかかれるようで、ソフィは眉を寄せた。なんだろう、これ。
「ソフィ?」
ソフィの変化に気づいたのか、リヴィオがソフィの顔を覗き込むように腰を曲げる。不思議そうな紫の瞳は、いつでもどこでも綺麗。唯一、揺るがないわかりやすい真実に、なんでもない、とソフィは首を振った。
違和感、と言うのも大げさなくらいの、小さなひっかかりだ。わざわざここで口に出す事もないだろうと、ソフィは笑った。
リヴィオは不思議そうな顔をしているが、説明できんのだから仕方がない。いっそ誰か代わりに説明してくれたら楽なんだけど。なんて思った時である。
「あなたがソフィさん?」
エレノアに頭を上げさせられたレイジニアンが、ふと、ソフィに目を合わせた。
猫が首を上げるような、そんな好奇心に彩られた瞳が輝いている。
「は、はい」
ソフィが思わず背筋を伸ばすと、なんと、レイジニアンはソフィにまで頭を下げた。
「エレノア様をお救いくださったことを、国民を代表してお礼申し上げます」
「お、おやめください! わたくしは夫人に頭を下げられるような身分ではございません!」
部外者があれこれ聞くわけにもいかんので、ソフィはレイジニアンの身分を知らない。知らないが、国王の補佐をする男の母親が、国王と面識があり「夫人」と呼ばれる彼女が、まさか平民というわけでもなかろう。
ソフィが慌てて両手を振ると、頭を上げないまま、レイジニアンは続けた。
「恩人に頭を下げるのに、身分はございませんわ」
「そ、それでもいけません!」
「では……」
レイジニアンは顔を上げると、にこりと子供のように笑った。
「レイジニアンとしてお礼を言うね。———本当に、有難う」
喜びをそのまま形にしたような笑みには、一点の曇りもなく、謝意に満ちている。だから、困る。困るのだ。そんな立派なものを向けられても、ソフィはどう受け取って良いのかがわからない。
すっかり困り果てたソフィは、ソファで寝っ転がって欠伸をするアズウェロを見た。が。いつも通りの熊さんの姿に戻っているアズウェロは、ソフィの視線に気づくと、なんだ、とばかりに首を傾げただけだった。
もふもふと動く、頼りになるが頼りにならん神様に、ソフィは眉を下げる。
「夫人、わたくしの力ではないのです。加護がなければ、杖がなければ、わたくしには何もできませんでした」
「へえ?」
弱り切ったソフィが情けなく言うと、レイジニアンは不思議そうに首を傾げ、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、「でもさ」と陽気に笑う。
「それも全部含めて、あなたの力でしょ? 何をそんなびびってんの?」
「び、びびる?」
「うん。あなたが、私すごいでしょー! って胸張っても、誰も怒んないんじゃない?」
ねえ? とレイジニアンが振り向くと、アドルファスもエーリッヒもエレノアも頷いて、「そう!」リヴィオが拳を握った。ぎょっとしたソフィが見上げると、リヴィオは頬を上気させて、ふんすと言う。
「そうなんです! ソフィは自分がどんなに凄いか、素晴らしいか、自覚が足りないんです! もっと言ってください!」
「え、やだちょっと、すごい綺麗な顔してるね君。旦那様の次にイケメンだ」
「母上、その評価はどうかと思います」
「何言ってるのアディ。旦那様が世界で一番素敵じゃない」
「そう思ってるの母上だけなんですよ。恥ずかしいので自覚してください」
「アドルファス、おまえも似たような事をよく言っているじゃないか」
「あ? 俺の妻が世界で一番可愛いのは純然たる事実ですよ陛下」
「似たもの親子ってこういう時に使うんですね」
「どういう意味だリヴィオ殿」
「ふ、」
口をはさむ隙すら、ありゃしない。
ポンポンと飛び交う楽し気な会話に、なんだか気が抜けちまって、ソフィは思わず笑ってしまった。
「ソフィ?」
ああ、ああ。おかしいったらない。
ソフィは、自分には大層な価値も力もないと、そう思って生きてきた。それが一番、楽だったから。
思考を放棄し、心を閉ざせば、傷つかずにいられるからな。なんとも短絡的だ。
けれど、でも、もうそんなんじゃ駄目だ。そんなんじゃあ、ソフィは、大好きな人たちの隣に立てない。何度もそう思うのに。強くあろうと決意をするのに。
未だ、誉め言葉すら正面から受け止められない、そういう自分が嫌になるのに、ちっとも変えられないそれは、だから、つまり、
びびってたのか。
ソフィが自分の名前で生きることを、もう、誰も咎めたりしない。失敗だけを押し付けられたりなんかしない。おざなりの賛辞なんて、どこにもない。
褒められても、間違えても、良い結果も悪い結果も全部ソフィのものだ。誰もソフィからソフィを奪えない。
なのに恐ろしい?
だから恐ろしい?
ふざけるなってんだよね。一体いつまで、逃げ出して捨てたはずの日々に怯え、閉じこもっているつもりなんだろう。
とっくに、ソフィは世界へ飛び出したはずなのに。
少なくとも、ソフィーリアの人生にこんな賑やかな会話はなかったはずだ。それで、十分じゃないか。
「わたくし、”びびって”たのね」
「……僕には難しい事はわかりませんが」
笑いながら小さく呟くと、その声を拾ったリヴィオが、再び目線を合わせるように身体を曲げた。
「ソフィの邪魔をする奴は僕が全部なぎ倒すから大丈夫です」
うーん、そういう話じゃないと思うんだがなあ。
でも、ね。この綺麗な顔にそうやって微笑まれたら、ソフィはもう、なんも言えんのだ。まあいっか、なあんて、それこそ短絡的。楽天的。いっそ刹那的ですらある愚かしいこの衝動を、けれどソフィは愛しているのだ。
「過激ね」
「家風ですから」
捨てたくても捨てられないものとか、捨てても捨てなくて良いものとか、いろんな繋がりのその全部が、今日や、明日になる。嬉しいも苦しいも、全部、全部繋げて、それがソフィだ。
「わたくし、もっと強くなるわ」
何度も言い聞かせる自分が情けなくもあるが、そう簡単に性格が変えられるなら苦労はせんだろ。一番大好きな人が、大丈夫って笑ってくれるなら、大丈夫なんじゃないかな。
ふふ、とソフィは目の前でまだ飛び交う、賑やかな会話を見ながら笑った。





