2.やわらかい世界で
仁義なき男たちのカードゲーム大会。
初めのうちは、ほうほう、と勝敗の行方を見守ってみたり、小さくてもこもこのお手で器用にカードを扱うアズウェロの謎を考えてみたりしていたソフィだが、早々に付き合いきれなくなった。
眠い。
昼間興奮しすぎたソフィは目を擦りながら退席を申し出たが、聞いていたのは多分リヴィオだけだ。
アズウェロによると日が昇るまで男たちの戦いは続いたらしい。
最後までゲームに参加したらしいアズウェロは、「われらは負けぬ……むにゃあ」とか言って、朝日が差し込む部屋のベッドに丸くなった。
ソフィは、くうくうと上下する柔らかな毛並みを堪能した後、美味しい朝食を食堂でいただき、甲板で海を満喫していたわけだ。
朝食の席には、そういえば、微笑ましい親子の姿もあったはず、とソフィは思い出した。
小さな両手で一生懸命食事をする幼子の姿は、遠目からでもソフィの心を和ませたのだ。ごはん食べてるだけで人を幸せにできんだから、子どもって凄い。
ところで、リヴィオは当然のように食堂に現れた。
惨敗でした、と語る姿に眠気は少しも無く楽しそうで、眩い。いや、ほんっとに眩いさわやかで美しい笑みなのだ。一晩中起きていた名残など無い。
一か月ちょっとは不眠不休で動ける、といつぞや語ってくれた姿の真実を、思いもよらぬところで実感したソフィである。
「勝ってスッキリです。朝食の後、船長の部屋に押しかけた甲斐がありました」
押しかけたの? とソフィは瞬きした。相変わらずハートが強い騎士様である。
ちなみにソフィは、リヴィオのそんなところも好きだ。
「パパ、ゲーム? ぼくもゲームしたいなあ」
「おっと」
好奇心に彩られた幼い声に、男性はその場に屈んだ。
「えっと、テオにはまだちょっと早いんじゃないかなあ」
「早くないんじゃないかなあ。テオ、なんだかゲームしたくなっちゃったなあ」
「うーんと、でもテオ、まだ数字数えられないでしょ?」
「かぞえられるよ? 1、2、3、でしょ? 」
「その先は?」
「ない!」
「えぇー、無いの? あるよ?」
「ありませんが?」
「ええ……」
同じ方向に首を傾げる親子に、ぶほ、とソフィの隣でリヴィオが吹き出した。
「し、失礼」
ふくく、と横を向いて肩を揺らす可愛い姿に、ソフィもふふ、と小さく笑った。
テオ、と呼ばれた子どもは、その声に、大きな瞳でこちらを見上げる。
「おねーさん、テオのおともだち?」
「え、ええ?」
初対面のテオくんに、己と友達か、と聞かれびっくりしたソフィは、素っ頓狂な声を上げた。
どう答えるべきなんだ。ナニコレ哲学?
鍛えた舌弁など役に立たぬ子どもの問いに慌てるソフィを置いて、当のテオは、くん、とリヴィオのズボンを引っ張った。
「おねーさんキレーねぇ。おねーさんのおともだち?」
「え?」
おねーさん?
リヴィオは、ぱちん、と長い睫毛で瞬きをする。
「すっすみません!」
慌てて詫びる父親に、リヴィオは笑って「いえいえ」と手を振った。
「ぶっぶー。ぼくはおにーさんです。リヴィオって呼んでね」
「りーお」
「そうそう」
テオに目線を合わせるように、座って身体を丸めたリヴィオにソフィは、なるほど、と心の中で頷いた。
首が折れるんじゃないかってくらいリヴィオを見上げていたテオは、リヴィオと視線が近づいて嬉しそうだ。
子どもと話す時は座って目線を近づける。覚えておこう、とソフィもその場に座った。
すると、テオのくるんと大きな瞳がソフィに向けられる。
「おねーさんは、おねーさん?」
ソフィは、にこにこするテオにつられて笑った。
「はい、おねーさんですよ。ソフィっていいます」
「そひー」
「はい。お上手です」
おぼつかない口調で繰り返したテオは、にこお、と破顔した。はー、かわいらしい。
無垢ってなこういう笑顔を言うんだな。心が洗われるようだ。ふくふくのほっぺに触りたい衝動をぐっとこらえ、ソフィが微笑むと、テオは小さなおててを持ち上げた。
ソフィが首を傾げると、伸ばされた小さな両手が、きゅ、とソフィの首にまわされる。
「っ」
やっわい。
やっわくて温かい存在に、ソフィの胸が、きゅううん、と締め付けられた。かっわいい。こどもって、かわいい。え、かわいいな?
これまで漠然と、子どもは守らなければならない。子どもの将来を守らなければならない。と公務にあたってきたソフィは、心臓を撃ち抜かれたような思いであった。
子どもを守るとか当然じゃんこんな可愛い存在守って当然じゃん無限の未来まってんじゃん守って尽くそう子どもの笑顔。てな感じ。
「す、すみませんっ」
「い、いえいえいえいえ!」
その可愛さと、お恥ずかしいかな不慣れさによって固まってしまったソフィの挙動を不快と捉えられたのか、父親が慌てて詫びるので、ソフィは必死に両手を振った。
テオは何が楽しいのか、ソフィの首元でくふくふと笑う。かっわいい。
「あ、あの、わたくし子どもとこうしてお話しするのは初めてで、そのっどうしていいか、わからなくて」
ソフィが学んできた事など、まっじで何の役にも立たない。
バララララッと頭の中で辞書を捲ったとて、小さな子どもとの触れ合い方など、どこにも載っていないのだ。それはそう。ソフィが子どもと触れるのはこれが初めてなのだ。レッツはつたいけーん。じゃない。
「ソフィ、抱っこさせてもらっては?」
「え、ええ?」
まーた何か言い出したぞこの美貌の天才。難しい事を簡単に言う事に定評があるリヴィオは、にこ、と笑った。わーかわいいー、じゃねぇ。
「だっこ」
「ええ????」
抱き着くテオにまで要求され、ソフィの思考回路はショート寸前。今すぐ抱きたいよって気持ちはあるがしかしして、作法がわからん。いや作法てなんだ。まずは手を洗ってくればいいのか。
「すみません、うちの子、人見知りしなくて……好きだなって思った人にはすぐ抱っこ強請っちゃうんです……」
何そのプレイボーイ。将来が恐ろしいな。
ソフィはちら、と隣のプレイボーイを見やった。にこ、じゃない、にこ、じゃ。可愛いじゃないかくそう。
「ご迷惑をお掛けしてすみません。テオ、おいで」
テオは、きょとん、とソフィを見上げた。
かわいい。睫毛が長い子どもである。将来がマジで恐ろしい綺麗な榛色。
ソフィは、ぎゅう、と小さな身体に両手をまわした。
ち、小さい!
しかも、やわらかいし力を入れたらつぶしちゃいそうな怖さがある。
「め、迷惑ではないんです。つぶしちゃいそうで怖いだけで!」
軽いパニックに陥ったソフィが言うと、父親は「ああ」と笑った。
「私も初めてこの子を抱いた時、同じように思いましたが、大丈夫ですよ。思ったより、子どもは丈夫です。けれど思ったより脆いから、僕たち大人は子供を守るのですよ」
だから結局脆いんですよね?! とツッコミを入れる逞しさはソフィには無い。
「だっこ?」
嬉しそうに見上げるテオに、ソフィは覚悟をして頷いた。こんな可愛い顔で可愛い声でおねだりされて知らん顔できる奴ぁ生まれなおした方が良い。
ソフィは柔らかい身体を持ち上げようと力を込めて、ちょっと血の気が引いた。
え、やわらかい。これほんとに力入れて大丈夫なやつ? つぶれちゃわない? 内臓出ちゃわない??
「り、りびお……」
あわわとソフィがリヴィオに助けを求めると、リヴィオは器用に片方の眉を上げて、くしゃりと笑った。
「しかたがないなあ、ソフィ」
ほわほわとした声は、愛しくってしょうがない、って可愛さで、ソフィの脳みそくんが血を流して歯を食いしばった。かんわいいよう。大変だ。かわいいとかわいいが衝突事故を起こしている。誰か助けて。
「テオ、僕がだっこしてもいい?」
だっこだって。だっこだって。可愛いなだっこ。ソフィは色んな意味で泣きそうだ。
「いいよ」
テオはソフィから手を離し、そのままドン! とリヴィオに突進した。難なく受け止めたリヴィオは、笑いながら、テオを抱きかかえて立ち上がる。
「わあああ! パパ! うみだよ! うーみー!」
「こらテオ! お兄さんのお耳の近くで大きな声を出しちゃ駄目だよっ」
「うううみいいいいいいいい!」
「テオ聞いて!」
「大丈夫ですよー」
あはは、と笑うリヴィオの目線は父親よりも高い。大はしゃぎのテオに父親は慌てたが、リヴィオはテオの絶叫もなんのその。楽しそうに笑った。
「綺麗だねぇ」
「きれーねぇ」
なるほどなあ、とソフィは思った。
美しい騎士と愛らしい子ども。最高の絵だった。
綺麗と可愛いを掛け合わせると、こんなにも威力が上がるとは。一つ賢くなったソフィは、しっかりとこの素敵な絵を目に焼き付けようと頷いた。かわいい。
「ソフィ、代わりますか?」
「ひゃいっ?!」
噛んだ。
ソフィは思わず口に手をやって、リヴィオを見上げた。
「テオ。おねーさんも、だっこしていい?」
「いいよ」
ぱ、とテオはソフィに向かって両手を伸ばす。
抱き上げるのが恐ろしくても、腕に抱くだけならば。できるかもしれない。子どもを抱く抱かないくらいで何を、と思われるだろうが、それくらい、をできないのは何だか寂しいので。
ソフィはリヴィオがやったように、脇に両手を差し込んで、
「ひっ」
腕抜けちゃわないっ?! って固まりそうになって手を引っこ抜いた。
こわい。幼児の柔らかさ怖い。
リヴィオを見上げると、リヴィオは、ふふ、と柔らかく笑った。
「リヴィオさんは、随分慣れていらっしゃるんですね」
「はい。昔働いていた場所では、休憩時間にお母さんと一緒にお父さんに会いに来る、なんて子も多かったので」
騎士団の事だろうな。
騎士服で子供を抱くリヴィオはさぞ美しかろう、とソフィが油断しているすきに、テオの両手がソフィの首に回る。
「!」
「はい、ソフィ。そのままテオのおしりと背中を支えて、そう、お上手ですよ」
気付くと、ソフィはテオをだっこできていた。
が、重い。重いぞ。よろけそうになった身体を、すかさずリヴィオが支えてくれる。落としてなるものか、とソフィは歯を食いしばった。ぬぬぬ。
「腰を少し突き出して、そこに乗せるようにすると楽ですよ」
テオの父親が言う柔らかい声に従って、ソフィは少し体勢を変える。
重いには重いが、確かに少し楽になった。すると、少しだけ心に余裕ができて、「すごいねえきれいねえ」と海にはしゃぐテオが可愛くて仕方がなくなる。心が浄化されていく……。
「何歳なんですか?」
「3さい!」
父親に問いかけたリヴィオに、テオが指を4本つきだした。
「テオ、多いですよ。3は、こう」
父親が笑いながら、指を3本立てる。テオは自分の小さな指と、父親の指を見比べ、ぐぱぐぱと手を動かした後、指を3本立てた。
「こう!」
おおー、とリヴィオが拍手をするとテオは、ふふんと胸を張った。
「えらいねえテオ。はい、じゃあもう一回ですよ。テオは何歳ですかー」
「3さい!」
指は4本だった。
「ぶっ」
「一回覚えちゃうと駄目なんですよねえ。うちの子……頑固で……」
「がんこってなに?」
「え?」
テオに見上げられ、ソフィはたじろいだ。
頑固と言えば、いっつもむすりと眉を寄せて、赤ワインは嫌だメイン料理は肉じゃないと駄目だソースは赤ワインを使え畑はどこどこだ、と食事にやたら煩い大臣殿に、みんなが気を遣っていた姿を思い出すのだが、世の中にはこういう悪い頑固おやじと、良い頑固さんがいるだろうからな。
それに子どもに悪い言葉を教えるのも良くない。
自分がこう! って思ったら譲らない迷惑な奴のことだよーとか言えないし、テオをそれに当てはめたくはない。うぬと悩んだソフィは、なんとか言葉を捻りだす。
「意思の強い人のことかしら?」
「テオいしじゃないよ?」
「?」
「?」
「テオ、石じゃなくて意思だよ」
「パパ、テオはテオだよ」
「うーんそうだねえ」
「ほのぼのしますねえ」
あは、と笑うリヴィオに、ソフィも思わず笑ってしまった。
かわいいは強い。
そんな、ほのぼのする時間も、終わりを迎える。
船が港に着いたのだ。
「わあああああ! ふね! ふねがあるよ! ねえパパふねだよ! あっあっちにも! あっちもふね! ねえ! ふね! ふねだよ! おおきい! つよい!!」
父親の腕の中できゃっきゃとはしゃぐテオに、ソフィは心からの同意で笑った。
賑やかな人の声。あっちを見ても船。こっちを見ても船。大きな船が帆を畳み、人々を見下ろす姿はなんとも心が躍るではないか。強そう。そうねそうね。
「リヴィオさん、ソフィさん、お世話になりました」
「僕たちは何も……」
「いいえ。人に優しくしてもらえることで、この子は世界を優しい目で見ることができますから。誰かに優しくされれば、この子も誰かに優しくしてあげられる人になるでしょう」
パパ! パパ! と大興奮のテオがきゃあきゃあと声を上げるのを宥めながら笑う父の姿に、ソフィはなぜだろうな。胸が、ぎゅ、と苦しくなった。ソフィはその、ぎゅ、と心臓を刺す痛みが何か知っているが、それを見なかった事にして、微笑み返した。
「わたくしの方こそ、短い時間でしたが、テオと過ごせて楽しかったですわ」
「そう言っていだけると嬉しいです。ああ、申し遅れました。私はランディと申します。またどこかでお会いできましたら嬉しいです。良い旅を」
「ええ、良い旅を」
「良い旅を」
バイバイ! と元気良く振られた両手に手を振り返し、ソフィとリヴィオは顔を見合わせた。
「可愛かったですね」
「はい。とっても」
小さな子どもは本当に可愛くて、父親とはとても頼もしく優しいもので、世界は思ったよりも温かい。
それはソフィの知らない世界の姿だ。
胸が、ぎゅう、と痛くなるような寂しさを感じるけれど、泣くこた無い。これはもう、おとぎ話でも夢物語でもない、ここにある、ソフィが生きる、ソフィの世界なのだから。
「リヴィオ」
「はい」
優しい目で首を傾げる、リヴィオの手を、ソフィはぎゅっと握った。
「有難う」
「なっなにがですかっ?!」
「言いたくなったの」
ええ? と顔を真っ赤にするリヴィオに、ソフィは微笑んだ。
ソフィはもう、誰かをうらやむ必要は無いのだ。
「む」
ほわん、と心が温まるソフィの腕の中、アズウェロが声を上げた。
振り返ると、ラエルが眉を寄せて立っている。
「あー、今、いいか」
「はい」
ソフィが頷くと、ラエルは唇を噛んで、それで、
「!」
ばっ! と頭を下げた。
「悪かった!」
「え、え?」
ソフィは、ぱちん、と瞬きして、さらさらと風に揺れる銀糸を見下ろす。
ラエルに頭を下げられる心当たりが全く無くて慌てたソフィは思った。
──あ、つむじ綺麗だわ。
テオは友人の子供がモデルです。
会うたびに可愛くなる恐ろしい子。





