39.春が来ちゃったので旅立ちの鐘が鳴りました
「馬に乗れない?」
嘘だろ、と言いたげなヴァイスの目から、ソフィはそっと視線を逸らした。
言いたい事はわかります。ソフィも無いなって自分で思っています。でもどうにもできないんです。
「た、高いのが、怖くて…」
「主、なら私が運んでやろう」
「え」
ゆったりした声は、隣でかしかしとクッキーを齧っていたアズウェロだ。厨房が気に入っていたアズウェロは、最近は我が物顔で城を歩き回っていたんだが、今日はソフィの隣で機嫌良さそうに尻尾を揺らしている。白いモフモフ猫。
「私なら、主が怖くない大きさになれるからな」
ぽん!と光ったアズウェロは、次の瞬間大きな猫の姿になった。
ソフィがもふっと両腕を首にまわしても足りないくらいの大きさで、四つん這いになれば高さはソフィの胸くらいまでになった。
確かにこれならば、ソフィの地に足が付いてねぇんだわ!という目覚めし高所恐怖症殿も、静かにしていてくれるだろう。
「で、でも神様に乗るって、どうなんですか…?」
「主ならば良いぞ」
「聖獣ってのもいるしな。良いんじゃねぇか」
良いのか? 良くないような。いや良くないだろ。神様だぞ。ソフィはすでにストーキングする神様を知っているし、この神様はとっても可愛らしいが、それはそれだろう。え、だって神様だぞ。
ソフィは「ええ」と眉を寄せたが、肝心のアズウェロは眠そうに「くあ」と欠伸をし、ぽん!と再び小さな猫に戻った。
「寝る」
「ええ」
ソフィがアズウェロの背に乗る。
ソフィは違和感と「本当に良いの???」という疑問でいっぱいだが、決定事項なんだろうな。興味が無くなったとばかりに、アズウェロはソファに乗り上げると身体を丸めた。
そうしていると神聖さなど皆無だ。
まあ、なあ? 本人、本神? が良いつってんだしな。
ソフィはまあ良いか、と結論付けた。
半ば無理やり己を納得させたソフィは、机の上に視線を戻した。
只今ソフィは、資料として使いたいのだという、他国の書物の翻訳をお手伝いしているところなのだ。文章を目で追い、ペンを走らせると「しかし」と、おもしろそうにヴァイスが呟いた。
「高所恐怖症ねぇ」
「お、お恥ずかしながら…」
ソフィがぐうと呻くと、ヴァイスは「ああ、いや」と首を振った。
「人間らしくていいんじゃねぇか?」
「人間らしい」
「あんた、いつも弱点無いですって顔してたからな」
「え」
んーな馬鹿な阿呆な話があるか。ソフィは心底驚いた。
ソフィーリアの至らぬところなんて、いくらでも挙げられる。人より劣るところばかりだ。
ただ必死で、ただ目の前の仕事をこなしていたに過ぎないのに。
「ソフィーリア様は、いつも完璧でいらっしゃいましたからねえ」
「!」
突然響いた声に、ソフィの肩が大げさに跳ねた。あ、インクが…インクが!
うまい具合に跳ねたインクのせいで、「ということでおまん」になった。おまん、ってなんだ。どういうことだよ。
しょぼん、とソフィが書類を見詰めると、「おい」とヴァイスが硬い声で言った。
「ジェイコス。繊細なお嬢さんを驚かせんな。見ろ、落ち込んだぞ」
「ええ! 僕のせい?!」
突然現れた突然の声に驚いたわけだから、まあジェイコス宰相のせいっちゃあせいなんだけども。インクが跳ねるほど驚いちまったのはソフィの自己責任だわな。ソフィは首を振った。
「いいえ。ちょうど、間違えてしまったのでやり直そうと思っていたところですから」
「嘘だぞ嘘」
「ヴァイス」
いやいや。「すみません」と年上の男性が肩を落とす姿なんてソフィは見たくない。ちくちくと心が痛むじゃないか。
意地悪な王様をソフィはじろりと睨んだ。
はいはい、と肩をすくめたヴァイスは、「それで?」と椅子に座ったまま、ジェイコスを見上げた。
「なんか用か」
「うん。リヴィオ様も一緒にお話ししたいんですけど、お時間もらえますか?」
ぱっと顔を上げたジェイコスは、それまで肩を落としていたのが嘘のように、にこりと笑って言った。
「見ろ、このジジィは真面目に相手するだけ損するぞ」
随分な言いようであるが、ひどいなあ陛下、と笑う顔にしおらしさなんぞ見当たらない。なるほど、ソフィはうまいこと揶揄われたわけだな。まさしく損した気分のソフィである。
ま、それはともかくとして。
そういうわけで、この国での最後の昼食は、ジェイコスも同席することとなった。
「実は、隣国の情報を入手しましてね」
「隣国」
ルネッタが、白身魚のソテーを切る手を止めてソフィを見た。
「そう。ソフィ様がいらっしゃった国です。単刀直入に申しますと、ソフィーリア様とリヴィオニス殿は現在行方不明。捜索は打ち切りになったそうです」
「へえ」
「え」
「ふーん」
ヴァイス、ソフィ、リヴィオ、とそれぞれ反応を示したところで、ルネッタが首を傾げた。
「二人は死んじゃったって思ってるんでしょうか?」
「まさか。ウォーリアン家の人間が簡単に死んでくれるんなら、あの国を欲しがる連中はもっといただろうよ」
「まあ、僕も稚拙な工作だって自覚はありましたしね」
突発的な逃亡劇だった。
それでも、手際よく準備をしてくれたリヴィオのおかげで、ソフィはこうして元気に日々を過ごしている。
が。ソフィとリヴィオは、ルネッタの魔法で隣国に飛ぶというイレギュラーによって、予定より大幅に早く国を出ることができたが、本来であれば騎士たちの捜索圏内にいただろう。
王は、国の仕組みや事情を細部まで知っているソフィを、そう易々と逃がさぬだろうから、今頃、追手から逃げる事に必死だったかもしれない。こんな呑気に、魚のソテーを食べたりできなかっただろう。
「じゃあ生きていると思っているのに、探すのを止めたんですか? へーか、あっちの王様はソフィを逃がさないだろうって言ってませんでしたか」
ルネッタが首を傾げると、ヴァイスはフン、と鼻を鳴らした。
「ジェイコス。悪趣味な真似は止せ」
「人聞きが悪いなあ」
ジェイコスは、はっはと笑って白ワインのグラスを揺らした。
「追手の心配は無さそうだからご安心を、と申し上げたかっただけですよ」
「あれが王位継承権を剥奪されたんだろう。それを先に言えよ」
「!」
ガシャン、とソフィは思わずカトラリーを皿に落とした。
なんですって?
あっさりと告げられた言葉に驚くソフィを置いて、ジェイコスは「さすが陛下」と笑った。
「仰る通りです。ソフィーリア様を逃がして、出来の悪い王子を諦める。その方が、益が高いと判断するものがあったんだと思いますよ」
待ってほしい。ソフィは思わず額に手を当てた。
ソフィーリアがいない事と、王太子がどう関係があるんだろうか。おかしいな。ソフィはあの国の政治にかかわるような位置にいたはずなのに。まったく話についていけない。
そんなソフィを置いて、ヴァイスは笑った。
「オスニールだろ」
「父ですか?」
リヴィオが問うと、ヴァイスは怖いねぇ、とシニカルに笑った。
「ああ見えて、親馬鹿だろうあの男は。お前と嬢ちゃんを黙って見逃せって、圧力かけたんだろうな。俺が王でも、ウォーリアン家を敵にまわすなんて馬鹿な真似はしないね。だったら、あの王子を諦めて、第二王子を祭り上げた方が早いだろうよ」
「ま、待ってください。ウォーリアン家が重要な位置付けであることも、わたくしとリヴィオがご迷惑をお掛けしたこともわかるのですが、殿下の王位継承権とどう関係があるのでしょうか」
「はあ?」
うっわ、怖い顔。
眉がぎゅんと寄って、口をへの字にしたヴァイスの怖い顔に、ソフィは思わず身を引いた。
「ヴァイス様、ソフィを怖がらせないでください」
「俺にどうこう言う前に、お前、嬢ちゃんのこれどうにかしろよ。正気か」
「いーんです。僕は死ぬまでソフィ最高って言い続けますから」
「あ? なら良いか」
良くない。良くないぞ何の話だ。ぼ! と顔を赤くしたソフィに、ジェイコスははっはと笑った。陽気な笑い声と、目尻を下げた優しい目元が温かい。
「あなた方が陛下を気楽にお呼びになる、そういう非公式の場だから言うけどね、あの王子は正しく王になるつもりなど、無かったでしょう。遊んでいれば王になれると、勘違いしておられた。愚鈍な暗君を頂くなど、僕なら御免だねえ。不運なのは、彼が王太子になった後に、優秀な第二王子がお生まれになった事ですよ」
あったかいのに、内容が辛らつだ。今さらっと悪口混ぜたぞ。よその国の王子になんてことを。
まあ、ソフィはジェイコス曰く愚鈍な暗君になろうとしていた王子を、ちっとも好いてはおらんかったし、逃げた身なのでどうでも良いのだけれど。お好きにどうぞ。さながらお皿に乗ったソテーである。あ、料理長に失礼か。あんなもん、ソフィは煮ても焼いても食いたくはないしな。
「あの王子が王太子として立っていられたのは、貴女がいたからですよ」
「え」
お皿の上でふてぶてしく顎を上げる王子を思い浮かべていたソフィは、驚いて顔を上げた。
「公式の場でいつも、王子に何か耳打ちしていたでしょ? あれ、どこの誰だとか、スピーチの内容だとか、教えてあげていたんじゃないですか?」
その通りだった。
いつまでたっても、国内の貴族はおろか他国の有力者の顔も名前も覚えない王子に、ソフィは答えを教える係だった。
婚約者という立場的に、ソフィはどんな場所で隣にいても違和感が無いので適任だったのだ。いつでもピッタリお側にいるソフィを見て、賢い貴族は「仲がよろしいですね」と笑い、地味で平凡なソフィを嫌うレディたちは「はしたない」と嗤った。
だったら代わってください、とソフィは心から思った。
例えば、端的で短いと評判だった王子のスピーチだって、事前に用意されたものをソフィが覚えて、とりあえずここだけ言っておきゃいいだろってのを二言三言、直前に耳打ちしていたんだぞ。
どうしても長いスピーチが必要な時は、二人で寄り添って立っている、と見せかけて隣で原稿を喋った。
あたかも旧来の友に会ったかのように、まるで自分で考えたかのように、堂々と話す姿は立派な王子で、ソフィはその演技力と対応力だけは信頼していた。
「…なんのことでしょう?」
ベラベラと国の事情を話すのも、とソフィは微笑むに留めたが、ヴァイスは鼻で笑った。
「考える頭と目がついてりゃわかる。気づいてる奴は多かっただろうから、誤魔化さなくていいぜ」
それはそれで、ちょっとへこむソフィである。
バレていないつもりだったのに、とんだ道化ではないか。
「そんな馬鹿なのに、王太子だったんですか?」
ルネッタがストレートに言うと、リヴィオがにこりと笑った。
「ソフィが優秀だったので。あの子が王妃になるなら大丈夫だろう、ってみんな思ってたんですよ。クソですよね。だったらいっそソフィを女王にすりゃあ良いんだよ馬鹿かクソったれ」
笑顔と言葉が合っていない。口汚く罵るそのお顔は、光り輝く天使様の微笑みなのだ。
ソフィはリヴィオのこういうところが、ちょっぴし怖いけど好きだ。その落差が良い。しょっぱいのに甘いお菓子みたいで、クセになる。
というかリヴィオだったら何でも良いソフィは、リヴィオが笑っているだけで幸せだ。
きゅん、と鳴いた胸を押さえ、ソフィは笑った。
「とんでもないわ。わたくしがいなくなったって、国は回る。わたくしの代わりなんていくらでもいます。殿下の婚約者としての役割をこなしていたにすぎないんだから」
「それはそうなんだがな」
こんこん、とヴァイスは長い指でテーブルを叩いた。
肘を突いた左手で前髪をかきあげ、「覚えとけ」と大人の顔で言う。
「嬢ちゃんの言う通り、どれほど偉大な人物だろうと、死んだからって世界は終わらない。俺が今日死のうとも、誰かが国を回す。組織にとって、代わりの利かない人間はいない。だから、しんどけりゃいくらだって逃げていいし、違う居場所を探して良いんだ」
けどな、とヴァイスは、眼光は鋭く目つきも悪いくせに、優しさを灯す濃紺の瞳で、ソフィを見詰めた。
忘れるな。持って行け。
そう、言うように。
「誰かにとって代わりの利かない人間は、数えきれないくらい居る」
明日からは、ソフィはリヴィオと二人、見知らぬ世界へ旅に出る。
次に、ヴァイスにこんな風に言葉をかけてもらえるのは、ずっとずっと先だろう。
ソフィが初めて出会った、ソフィを案じて、ソフィを思ってくれる大人は、王のような、友人のような顔で、ソフィに説いた。
「王になるためには王子にとってソフィーリア嬢は代わりの利かない人間で、リヴィオニス・ウォーリアンにとって代わりの利かない唯一だった。それを否定するのは、ソフィーリア嬢があまりに憐れで、あんたをこの国に留めたいと思う俺に失礼だ。もっと自信もってドヤっとけ」
最後はニヤリと。
いつものようにシニカルに笑って、ふいと親指でリヴィオを指した。
「じゃねーと、この坊ちゃんそのうち泣くんじゃねぇの」
「ヴァイス様、最後に決着つけません?」
翌朝は、たくさんの人が城前に集まってくれた。
ソフィのお世話をしてくれていた、ルネッタの侍女さんやメイドさん。お城の司書さん。ソフィが仕事をお手伝いした文官や宰相のジェイコス。研究室に出入りしていた魔導士たち。アズウェロが入り浸っていた厨房の料理人やメイドさん。リヴィオが訓練をしていた軍人さん。
それから、ルネッタとヴァイス。
「ソフィ。お手紙、待ってます」
ルネッタは、長方形の金属のケースを胸にきゅっと抱いた。
封筒の一回りくらい大きいケースには、保護魔法をかけた転移の魔法陣を刻んでいる。それから、ソフィのケースにはルネッタの赤い魔法石、ルネッタのケースにはソフィの茶色の魔法石を、それぞれ嵌め込んだ。細かい装飾や、メインの魔法石の他にも散りばめた小さな魔法石がキラキラと光る、美しくて可愛い手紙ケースは、ソフィとルネッタ渾身の作品である。
「はい。わたくしも待っているわね」
偉大な魔女であるソフィの最初の友人は、黒曜石をふるふるとさせながら、こくんと頷いた。
「昨日も言ったが、追手の心配は無さそうだ。憂いは全てこの国に置いて、楽しんで来い。ソフィ、リヴィオ」
「はい!」
に、と唇を片方に釣り上げたシニカルな笑みに、ソフィは力いっぱい頷いた。
「ヴァイスもお酒はほどほどに。僕達が戻ってくる前に死んじゃわないでくださいね」
「言ってろクソガキ」
追い払うように、しっし、と手を振るヴァイスに、ソフィとリヴィオは笑った。
「そんじゃ、ま」
「おう」
「また」
「はい」
ソフィとリヴィオは、互いの顔を見合わせた。
キラキラと輝く、ソフィの大好きな甘くて優しいブルーベリーが、楽しそうに細められる。
ソフィはその瞳に微笑み返し、見送ってくれる人々に視線を戻した。
誰も彼も、温かい笑顔だ。
降り注ぐ陽光のように、穏やかな春のように、ソフィの心を温める、小さなソフィーリアがずうっと憧れていたおとぎ話のような光景。
そう、それは、リヴィオが手を引いてくれたから。
ソフィーリアが、ソフィが、今日この日まで生きてきたから。
だから見ることができた、手にすることができた、光の粒。
頑張ってよかったなあ、って胸の奥で泣くソフィーリアをそっと撫でて、ソフィは笑った。
大きく口を開けて、大きく手を振って。
それは淑女らしさってやつから、程遠い振る舞いだ。で? だから何だ。
おしとやかな淑女? はーんそれは素敵。綺麗なドレスにピンヒールでリボンとレースを纏って不味いモン飲み込んで。誰も踏み越せない完全武装の笑顔で、自分も他人も騙して騙して、心を砕いて、そんでひとりぼっち。それがソフィの知る淑女だ。呪いだ。
知ったこっちゃない、そんなつまらんモン。
捨てっちまえ捨てっちまえ。
ソフィはもう、どっかの名家のお嬢様じゃない。
家紋も肩書も無い背中は軽くて、魔法がかかった小さな鞄には、たっくさんのワクワクアイテム。
薬指には、最愛の光を飾って。
右手は世界で一番あったかい手の中。
ここに生きている。
ここから生きていく。
ソフィは、もうひとりじゃない。
「行ってきます!」
旅立ち編、終了です。
ここまで応援してくださり、本当に有難うございました。
番外編をたまに投稿しつつお休みをして、次回、少年王編です。
ブックマークをしてお待ちいだけましたら幸いです!
有難うございました!!
そうそう。
アズウェロが馬の役、など先の展開を感想で言い当てられることも連載ならではの体験で楽しかったです。
皆さま、いつも楽しい感想有難うございました!





