37.音になる
楽しかったなあ、とソフィは指をそっと撫でた。
15年を過ごしたあの部屋の潰れた枕と違って、ふかふかで、なんだか胸がほっこりする香りがする枕に、ソフィはぽすんと顔を埋める。
楽しくて、うきうきして、嬉しくて、嬉しくて。
今まで生きてきた中で、一番、幸せだった一日を、ソフィは反芻するように目を閉じた。
魔法道具の店を出たリヴィオとソフィは、旅の準備の店だけではなくて、お菓子屋さんや小物屋さんなど、いろんな店を覗いてまわった。ソフィは、店に足を運び、自分で何かを選んで購入したことなどないし、そもそも見た事が無い物ばかりなので、ずっとウキウキわくわくしっぱなしだった。
こんなに楽しくて良いのかしら!なんて、ちょっと不安になるくらい。
しかも隣に並ぶのは、ソフィとおんなじくらい楽しそうに、にこにこ微笑んでくれている超絶美男子だ。世界中にお詫びと感謝を申し上げなければ、明日の朝日は拝めないんじゃなかろうか。いや、まあ疲労でぐっすりスヤスヤなソフィはここ最近、朝日なんぞちっとも見れてないんだが、そこはほら、言葉のあやってえやつだ。
浮かれ脳みそ君も混乱による誤作動を起こしそうなくらい、ソフィは笑って、驚いて、食べた。おなかいっぱい。
昼食をしっかり食べてきたはずなのに、見た事が無い食べ物は、するするとソフィの胃袋へ落ちていった。
食べ歩きをするなんて考えた事も無いソフィにとって、たっぷりのタレが香しい肉の串焼きも、クリームがぎっしり詰まったパイも、夢のような食べ物だった。甘い物はあんまり好きじゃなかったはずなのにな。なめらかなクリームもあっという間に消えてなくなった。
一生分の食事をしたなってくらいに、心もおなかも満ち満ちたソフィは、リヴィオと高台に登ったところで、そうだ、と魔法道具の事を思い出した。
遠くで、キラキラと沈みゆく太陽の光を反射する水面は美しい。
巨大な湖のようにも見えるし、雨上がりの水たまりのようにも見えて、巨大なオレンジにも見える。
そのどれでもない事は、船旅を予定しているソフィ自身がよくわかっていて、だからこそ、街並みの向こうに見える海にソフィの心は踊った。ぴょんぴょんと足を持ち上げて飛び跳ねるダンスは、さぞおかしかろう。
誰も見たことがない、へんてこで、でも一緒に踊りたくなるような、きっと楽しいダンス。
ふふ、とソフィは笑って、鞄に手を入れた。
見た事が無い物は楽しい。うなじを撫でる風が気持ち良い。
正体不明の魔法道具でリヴィオと笑うなら、こんな日がぴったりだ。ソフィはうんと頷いた。
物があるはずなのに何もない気がする。そんな不思議な感触の中で、手をにぎにぎ。すると、「お呼びですかい」ってぐあいに、ひょいと小さな革袋が手に収まる。ソフィはそれを、ぐいっと引っ張って、リヴィオに見せた。
「リヴィオ、これ今日買った魔法道具なんですが、試してみてもいいですか?」
叩くとクッキーが増えるってあれだ。
リヴィオが「もちろん」と笑ったので、ソフィはまた鞄にごそごそと手を突っ込む。立ち寄ったお菓子屋さんで、クッキーもちゃんと買ったのだ。ふふん、抜かりはないぞ。ソフィはこう見えてできる子だ。
「中にクッキーを入れるんですね」
鞄をごそごそやるソフィの手から革袋を預かったリヴィオは、その中に入っていた紙に目を落とした。説明書ってやつだな。リヴィオは頷くと袋を広げた。
「はい、どうぞ」
クッキーを入れやすいように、と広げてくれたそこに、ソフィは一枚、紅茶のクッキーを入れる。
試食をした瞬間に購入を決めた、ナッツが入ったクッキーは、リヴィオもお気に入りのようだった。このクッキーが増えたら楽しい。わくわくだ。
「クッキーを入れたら、袋を縛ります」
説明書を読み上げるリヴィオの声に従って、ソフィはきゅっと袋の紐を引っ張る。袋の中が見えなくなると、リヴィオが次を読んだ。
「で、袋を強めに叩く」
「それだけ?」
「それだけみたいです」
うーん。これは結果が見えているのでは。
ソフィは思ったし、多分リヴィオも思った。でもお互いに口には出さず、まあ良いかと袋に視線を戻した。
ソフィは、パンパン!と袋を叩く。
すると、やっぱりというかなんというか。ぐしゃ、ってクッキーがつぶれる感触がした。
あっははは。いやあ、もう嫌な予感しかしないよね。だって潰れたもんな。
まあしかし。大きな効果を得る事が目的なわけではないし、ソフィにはこの袋が本物かジョークグッズとやらなのか見極める義務がある。ソフィは義務にはちょっとうるさいからな。そこは厳しいんだ。えへん。
なのでソフィは、躊躇いなく袋を開け、左手の上で袋を振った。
すると、まあ!なんてこと!
ころん、ころん、ころん、とクッキーが何枚も零れ落ちてくるではないか!
大きさがバラバラの小さなやつだけどな!
小指の爪くらいしかないクッキーもある。かわいい。小さいってかわいいな。新発見。
「………リヴィオ」
「ちいさっ」
リヴィオは思わず、といったように笑った。あら可愛い笑顔!
ソフィの手から抜き取った革袋をまじまじと見て子供みたいに笑うリヴィオに、ソフィもつられて笑いながらクッキーをつまんだ。ソフィの親指くらいのサイズはある、比較的大きなサイズの物だ。つまみやすい。
つまみにくいクッキーって前提がまずおかしいんだけれども。
「これ、砕いたクッキーの形を整えただけですよね?いえ、形だけ見れば元のクッキーと同じなんで凄いと言えば凄いんですけど…これ増えてます?」
「数だけで言えば?」
まさかの屁理屈袋。くだらない。くだらないぞ。ジョークっていうか嫌がらせグッズだ。詐欺では。
よくもまあ、こんなしょうもない事を考えたものである。この魔法を活かした、もっと別のアイテムは無かったんだろうか。いや、ソフィも「嘘だろうな」と思いつつも買っているわけだけから、これはこれが正解の形なんだろうか。
それにしたって、一体どんな人が、どんな顔をしてつくったんだろう。誰も止めなかったのかね。
考えれば考えるほど意味が分からなくて、ソフィは笑ってしまった。
「くだらねーのに、技術はそこそこあるから笑っちゃいますね」
はは、と声を上げて笑うリヴィオと一緒に、ソフィも笑って袋を受け取った。
こんなよくわからない袋をつくるだなんて、ソフィは思いもつかない。ついでに言えば、この後の使い道も思いつかない。すごいな。いっそ感心するソフィである。
世の中にはいろんな人がいるもんだ。
「…世界は本当に広いですねえ」
クッキー一枚で世界を感じられるなんて、お得な袋だ。
そういうことにしておこう。
うん。おもしろかったし良いや。くだらないって楽しい。
ソフィはお行儀悪くも、つまんだクッキーをぽいと口に放り込む。紅茶のほのかな香りがまた笑いを誘った。ふは、とソフィが堪えきれずに笑いを漏らすと、リヴィオも笑った。
ずっと見ていたいくらい可愛い、平穏と幸福が形を成したような笑顔に、ソフィは目を細めた。
眩しい。
リヴィオの、夕日のオレンジを浴びた瞳は海のように輝き、柔らかそうな黒髪は不思議な色合いで艶めいている。道行く人々が振り返り言葉を失うほどに美しいのに、こんなくだらない事で、ソフィと一緒に笑ってくれるひと。
ソフィはもう、この笑顔を手離せない。
ソフィ以上にソフィを大事にしてくれるリヴィオを、ソフィもずっとずっと大事にしたい。
リヴィオにずっと笑っていてもらうためにはどうすれば良いのかしら。
リヴィオは、ぱちん、と瞬きをした。
長い睫毛が、オレンジを弾く。
「簡単ですよ。ソフィ様が笑ってくれれば良いんです」
「……わたくし、声に出てました?」
「はい、がっつり」
がっつりかー。
ソフィは顔を伏せて、クッキーを袋に戻した。恥ずかしい。
「す、すみません」
思わず謝ると、リヴィオは「なぜ?」とやさしい声で、ソフィの両頬に触れた。
「僕、とても嬉しいですよ。僕も、ソフィ様の笑顔が好きです」
きゅ、とソフィの心臓が音を立てた。
好き。
好きって、今、言った。リヴィオが。
ソフィは、リヴィオからの好意を疑っちゃいない。
全てを、本当に全てを捨ててソフィと逃げ出してくれたリヴィオは、特別な言葉を、笑顔を、時間をたくさんたくさんソフィにくれたのだ。
ソフィが生きてきた時間に比べりゃあ、ほんの僅かなひとときだけれど、今までの全部がどうでも良くなるくらいに大きな時間。自分の元には決して訪れることはないと思っていた、ソフィの人生から最も遠い場所に流れていた時間。
それは、ソフィをやさしく抱きしめ、ソフィを特別な普通の女の子にした。
そんなものはもう、恋でしかなかった。
リヴィオのくれる言葉が、笑顔が、時間が、ソフィに恋を告げていた。
だからそんなこと、知っていたはずなのに。
「ソフィが、好きです」
どうして、こんなにも嬉しくて苦しくて、涙が出るんだろうなあ。
見ていたいんだ。
この、世界で誰よりもソフィを想ってくれる、何よりも美しい瞳を、今、今この瞬間の光華を、ソフィは見ていたいのに。我慢は得意なはずなのに。
まったくソフィの涙腺ときたら。ソフィのいう事をちっとも聞いちゃくれないのだ。
「ひどいわ」
こつん、とリヴィオの額が、ソフィの額に触れた。
「なにが?」
「リヴィオよ」
ぼく?とリヴィオは笑った。
睫毛が揺れる音が聞こえる気がする。
「貴方はいつも、わたくしを泣かせるんだもの」
とんだ言いがかりだな。クッキーを増やしてくださる有難い袋の屁理屈も敵わんだろう。
なんて言い草だと、ソフィは唇を噛んだ。
「ソフィは、泣いても可愛いですよ」
そういうこっちゃない。そんなこと言われたって、ソフィはちっとも、嬉しくなんて、無い、わけがなくて。ああ嫌だ嫌だ。堪えようと目を閉じても開けても、涙が落ちていく。リヴィオといると、そのうちソフィは体中の水分を失うかもしれない。なんて甘やかな恐怖かしらん。
「ね、顔を上げて」
身体の真ん中が痺れて震えるような声に、ソフィはのろのろと顔を上げた。
ソフィの何もかもを包んで溶かしちまいそうな優しい瞳が、ソフィを、ソフィだけを映している。
ソフィは、ソフィの事が一番信じられない。
自分がずっと嫌いだ。
どうして、みんなと同じようにできないんだろうって、ソフィは自分がずっと嫌いだった。
どうして。みんなが当たり前に手にしているものが、ソフィーリアの手にはないのだろう。笑っても、笑わなくても、何をしても、しなくても、ソフィーリアの手はからっぽで、ソフィーリアの隣には誰もいなかった。
どうして、誰かに愛される自分になれないんだろう。
誰にも好かれない自分を好きだなんて言えない。
自分が嫌いな自分を好いてほしいなんてもっと言えない。
本当の本当は、ずっと、ソフィーリアが逃げたかったのは、そんな自分からだった。
ぜーんぶ、無かったことにならないかなあって。自分なんて最初からいなかったことにならないかなあ、なあんて。ね。
思った朝が、昼が、夜が、あったんだ。あったんだよ。
見ないふりをしないと、気付かないふりをしないと、もうどこにも行けない、そんなさあ、粉々に割って形を整えてぽいと口に放り込まれるような、リヴィオが憧れる価値なんて無いソフィーリアがいたんだ。
笑ってくれよ。
それでも、ソフィは、今、自分が自分であって良かったと、思うんだから。
ははあ、人って単純だね。なんともまあ、馬鹿らしくって素敵で笑っちゃう。
「リヴィオ」
誰かに何かを、望むのは怖い。
そんなソフィの恐れを、はい、って微笑んでくれるその笑顔が丁寧に取り払う。
「もういちど、いって」
唇に触れるやさしい体温が、音を紡ぐ瞬間に、ソフィはまた恋をする。
「ソフィがすきです」
ほら、震えるその宝玉に、ソフィは何度だって恋をする。
恐れるな、言え。
両手を握って、震える唇を開けば、リヴィオが目を細めた。
待っている。
リヴィオは、ソフィの言葉を、待っている。誰にも言う事など無いだろうと思っていたその言葉を。
頭の中じゃなくっていい。ソフィは、それを、声に出して良いのだ。
「わたくしも、リヴィオが、すきよ」
ぽすん、とソフィは寝返りを打った。
恥ずかしい。ああ恥ずかしい。
浮かれるのとも舞い上がるのとも違う、こう、夢見心地。ってかんじで。悪くは無い。どっちかって言やあ、とっても良い気分ではあるんだが。恥ずかしい。
さしもの浮かれ脳みそ君も、お布団にこもって羞恥に震えておられる。思い出すだけで、布団を跳ね上げたいくらい暑いのに、ソフィ本体も脳みそ君よろしくお布団にこもっていたいのだ。
うう。
なんだかよくわからんが涙が滲んできて、ソフィは「あー」と声を出してみた。
涙の代わりに何か出て行かないかなって。熱気とか。
ぱちぱちと瞬きをして、ソフィは薬指を撫でた。
紫色の魔法石が光る指輪が、誇らし気にソフィを見ている。
ひんひん泣くソフィに、リヴィオがするっと嵌めた指輪は、魔法道具の店で購入した物なんだとか。
リヴィオの魔力を注いだっていう魔法石は、リヴィオの瞳のように、光の加減で青くも光る、柔らかい紫色。
ソフィの指に通した途端、光ってピッタリサイズに変身した魔法の指輪は、ソフィが魔力を込めればリヴィオに居場所を知らせたり、初級の魔法くらいなら弾いたりできちゃうんだってさ。指輪には、いろんな魔法の術式が刻まれているらしい。何それ凄い。
夕食の席でソフィの指を見たルネッタも「凄いですねそれ」と思わず声を出していたほどだ。きっとさぞお高いんだろうな。
こんな凄いプレゼントを隠しておいて、よくもまあ「プレゼントしたかった」とか、言えたもんだ。
ほんと、ずるいひと。
でも、もう駄目。
今まで駄目じゃないときなんて、これっぽっちも無かったけれど、本気の本気で駄目だ。絶対駄目。
「僕がずっと貴女を守ります」
って。
「やっと言えた」
って。
ほろりとしずくを零したあのひとを、返せって言われたってもう駄目返せない。
リヴィオからのプレゼントも世界からソフィへのプレゼントも、ソフィだけの宝物なんだから。
大事に書きたくて、時間がかかってしまいました。
まもなく最終回。
最後はまとめて投稿予定です。





