28.普段大人しい人が怒ると恐い
それは、9代目の王が国を治めていた時代の話。
王に、二人目の子が産まれた。
王子が5つになる頃だ。第一王女として生まれた少女は、サーネットと名付けられた。
サーネットは、異端の子供だと王宮の深くで隠されるようにして育った。
ただ、人の口に戸は立てられん。
誰もが「呪われた子供」と王女を恐れ、王妃の不義を噂し、王妃はついに病に倒れた。
「髪と目が黒かったから、ですね」
ルネッタが問うと、ヴァイスは本から顔を上げ頷いた。ルネッタは、言葉を重ねる。
「それから、魔力も高かった」
ああ、とヴァイスは再び本に視線を落とす。
サーネットは、美しい娘に成長した。
だがその美貌も、黒い髪と黒い目を引き立てる悪魔のような魅力にすぎない。城の魔導士が何人集まっても辿り着けないような術式を、いとも簡単に歌いながら展開するサーネットを、誰もが恐れ、忌避していたのだ。
部屋から歌が聞こえる度に、皆石を投げた。なんと恐ろしい。なんと忌々しい。あれは悪魔だ。あれは呪いの子だ。サーネットは、泣きも笑いもせず、ただひっそりと生きていた。
そんなサーネットが、毎日のように森に出かけるようになった。
気味が悪い。何かを企んでいるのではないか。皆が恐れていたある日、第一王子がサーネットの後を追った。
そして、森で王子が見たのは、人ならざる者と仲睦まじく微笑みあう、サーネットの姿だった。
「人ならざる者?」
リヴィオの声に、ソフィの胸が熱くなる。
思わず胸を押さえ目を閉じると、白い光が広がり、ちょん、とぬいぐるみサイズの白い熊さんが着地した。
「やっと出られたぞ…」
白い熊さんは、ふうと短い手で額を拭った。え、汗かくの?
「アズウェロ」
「どうりで、この国に入ってから動き辛いわけだな。ここには、違う神の片鱗が漂っている」
「え」
アズウェロは、小さな首を、もふっと持ち上げてヴァイスを見た。
「神だろう」
ああ、とヴァイスはページを捲る。
サーネットと手を取り合っていたのは、美しい一人の神だった。
頬を染め恥じらうように笑うサーネット。それを慈しむように見詰める神気を纏う男に、王子はサーネットが神と恋に落ちたことを知った。
王子は、すぐさま王に報告した。
サーネットが、神を誑かし、国を呪う気だと。
「はあ?」
リヴィオが、低い声で足元の王を蹴飛ばした。
「なんですかそれ。飛躍するにも程があるでしょう。そいつ、何を考えていたんです」
手記をまとめた王は、二つの仮説を立てた。
一つは、サーネットに力を持たせることを恐れたから。
ただでさえ、サーネットは城の魔導士が敵わないほどの強大な力を持っていた。そこに神の力が渡れば、いよいよ誰も手を出せなくなる。それを防ぎたかったのではないか。
もう一つは、王子がサーネットを愛していたから。
「は?」
思わず声を上げたのは、ソフィだ。
愛? 酷い扱いをしておいて? 気持ち悪。
恥じらう事無く、げえ、と眉を寄せるソフィに、ヴァイスは小さく笑った。
王子は、周囲の人間と同様に、サーネットを不気味だと、呪われた魔女だと、厭うていた。
けれども毎日、足繫くサーネットの部屋に通い、食事を届けていたのもまた、この王子だったのだ。
王子は、気持ちが悪い、煩い、と嫌味を言いながらも、一日も欠かすことなく、サーネットの元に通っていた。そこにどのような意味があったのか、さて誰にもわからぬが。
王子は、サーネットと神を引き離すべきだと、それは大層な剣幕で王に進言したのだという。
「…いや、マジで何考えてるのか全然理解できないんですけど」
不快感を隠さないリヴィオに、ヴァイスは肩をすくめて言った。
王子は、サーネットを自分の手元に置いておきたかったのだろう、と。
サーネットを絶対に城から出したくなかった。
神を城に近付けることもしたくなかった。
そのための、強い理由が欲しかったのだ。
二つ目の仮説が真実だとすれば、だが。
真相はともかく、王子の目論見通り、サーネットは封印が施された部屋に閉じ込められた。
城中の魔導士が作り上げた、強固な封印。
サーネットは部屋から一歩も出ることができず、部屋からは昼夜問わず、すすり泣く声が聞こえた。
王子はそれまでと同じように、サーネットの元へ通った。
会いたい、あの人に会いたい、と泣くサーネットに、王子はもう二度と逆らわないように。企みごとをしないように。お前を見張っているぞと。毎日言い聞かせたそうだ。
ただ、全てが王子の思い通りに行ったわけではなかった。
「神は諦めなかったのだろう」
アズウェロはふん、と鼻を鳴らした。
「神が人の思い通りになんぞなるものか。その娘を愛していたのならば、猶の事だ」
愚かな、とアズウェロが笑うその通り。
神はサーネットを求め、サーネットの名を呼び続けた。幸か不幸か、魔導士が施した結界を超えて、サーネットを見つけることができなかったのだ。国のあちこちで、サーネットを呼ぶ不気味な声が聞こえ、雨が降り続いた。
神の存在を知らない人々は、サーネットがついに牙を剥いたのだと恐れた。
これ以上の混乱を恐れた王は、けれど神にサーネットを渡さなかった。
サーネットが力を付けた時、真っ先に首を切られるのは国ではなく王族だと、王子が王を説得したのだ。
果たしてそれが本心だったのか。
それとも、後世に残したように、国を乗っ取られる事を恐れたのか。
王子の心は誰にもわからない。残ったのは、恐怖に駆られた王が、神がサーネットを見つける前に、その命を奪ってしまった事実だけ。
ただ、それに誰よりも動揺していたのは、王子だったという。まるで、サーネットを失いたくなかったかのように。
「…それから一年間、雨が降り続けたんですよね。つまりその雨は、神様が降らせていたんですか…?」
ソフィが問うと、ヴァイスは、恐らく、とページを捲った。
サーネットが死んだ事に気付くことなく、神はサーネットを探し続けていたのだろう。
雨は止まず、魔導士は病や災害、飢饉の対応に明け暮れた。
すべてが落ち着くころには、王はすっかりやつれ、王子が即位した。新しい時代の幕開けに誰もが喜んだ。
国中が喜びに沸く中、王は妻を迎えた。
金色の髪と目が美しい優秀な魔導士はすぐに子を授かり、次の年に王女が生まれた。
黒い髪と、黒い目の王女だ。
王は、すぐにその娘に結界を張り巡らせた部屋を与えた。
今度こそ誰にも渡さない、とその時確かに、王はそう言ったそうだ。それが恐怖に震えた言葉であれば。それを聞いたのが、宰相であれば。腹心と呼ばれた魔導士であれば。結末は違ったのかもしれない。
その呟きを聞いたのが、王妃でさえなければ。
王は、暇さえあればその部屋に通った。
そして決まって、王女に歌を歌わせた。部屋から歌が聞こえる度に、王妃はおぞましい、と気が違ったように叫んだそうだ。
そして、王妃は耐えきれなくなった。
あの娘は、サーネットの呪いを宿している。王を、国を呪っている。そんな噂を立てたのだ。
人々は恐れた。
また苦しまなければならないのかと、王女の死を望む声があちこちから上がり始め、そして、また、雨が降る。
王もまた、恐れた。
雨が止まない。それはつまり、神が、サーネットの魂が再びこの世にある事に気付いたという事だ。
サーネットを探している。
王は恐れた。
迫害される王女が、神の力を手にする事か。
神が、サーネットの魂を手に入れる事か。
のちの世に生きる11代目の王には、その真実を知る事はできない。
確かなのは、王が何かを恐れていたこと。そして、王女が、国を呪った罪で処刑されたこと。そして、雨が降り続いた事。ただ、その記録のみ。
「………このしばらく後、王は王妃と息子を残し、息を引き取ったそうだ。悪夢に魘されるのだとろくに寝られず、食事もまともにしていなかったらしい。呪いだと言われているが、さてな」
パタン、とヴァイスは本を閉じた。
「この後は、ルネッタが知っている通りだ。黒い髪と黒い目の王女が生まれるようになり、王女が死ぬと、決まって災害に見舞われる。それを恐れて、代々王は、黒い髪と目の王女を厳重に封印した部屋で監禁し続けた。事の始まりを知った、その後もな」
ルネッタは、ヴァイスの濃紺の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……始まりの魔女は、この国に殺されたんですね」
「ああ。二つ目の仮説が当たりだとすると、妹に執着した愚かな王子のせいで、という事になるな」
そういう人も、まあ世の中にはいるだろう。世界は広い。誰が誰に恋をしようと、誰を想おうと、或いは生涯一人で生きようと、そんなもんは自由だ。他人の心に制限をかける権利など、誰にも無い。
そう、たとえ、その人を心から愛していたって。
その想いを奪う事も、傷つけることも、許されないのだ。
「つまりは、この国のせいで王女は死に、神に目を付けられたんだ」
「…それでも、国殺しの魔女はこの国の平和を願っていました。誰一人、呪ってなどいません」
「ああ、どちらかというと、神の祟りって感じだな」
ヴァイスがちらりと目線を下げると、小さなおててで腕組をしたアズウェロが頷いた。
「だろうな。国の平和を願っていたというなら、魔女自身も一緒に封印を施したんだろう?」
アズウェロの問いに、ルネッタがこくりと頷いた。長い黒髪が、さらりと揺れる。
綺麗なのにな、とソフィは胸が苦しくなった。
「お前も今、自分の魂に封印をかけているな?魔力が外に漏れないような、結界と言った方が近いか」
こくん、とまたルネッタが頷く。
「代々、魔女が研究を重ねてきた魔法です。死ぬ時だけではなく、なるべく早い段階から施した方が、効果が大きいと」
「うむ。事の起こりを知らぬのに、よく辿り着けたものよ。そうしておけば、その神に、サーネットとやらの魂が生まれなおしていることを、気取られんようにすることができる。……それでもその魂が燃え尽きるとき魔法が解け、漏れ出た魔力に残った神の片鱗が反応するんだろう。そして、神はまた失ったと、それだけを知る。今もまだ、お前の魂を探しているだろうな」
ソフィは、自分の胸に手を当てるルネッタを見詰めた。
今ここに生きているのは、サーネットじゃない。
長い黒髪と黒い瞳が綺麗だけれど、歌っているところなんて見たこと無いし、神様のことを実験体を見るような目で見るし、よその国王様を「へーか」って幼い響きで呼ぶ、小さくて可愛い女の子だ。
「ルネッタは、ルネッタよ」
なんだかこう、どうしようもなく、胸がもやもやしてソフィが言うと、ルネッタは「はい」と頷いた。
「知らない神様にストーキングされても困ります」
「す、」
ストーキングって。
いや、間違っちゃいないか?
「へーか」
「あ?」
ルネッタは立ち上がり、ヴァイスを呼んだ。
「なんでしょう、これ」
ルネッタの言葉に、ヴァイスは本を肩に乗せ首を傾げる。
ルネッタの髪が、瞳が、ほう、と赤く光った。
「気持ち悪いです。なんか、すごく、魔法を使いたいです。なんか、うまく、言えないけど、ここが、気持ち悪いです」
ぎゅう、とルネッタは胸元を握った。
ソフィにもわかるくらい、ルネッタの眉がちょっと寄っている。ううん? とソフィは首を傾げた。
笑っちゃいかん。これ、笑っちゃいかんけども。ルネッタそれさあ。
「ぶはっ」
思わず噴き出したのは、ソフィじゃないぞ。
視線を上げると、ヴァイスがくしゃっと子供みたいに笑っている。大人がそんな風に笑うのを初めて見たソフィの胸は、ちょっときゅんとした。なんだそれ可愛い。
「ルネッタ、お前それ、怒ってんだろ。お前、今怒ってんだよ」
「怒る…」
「そう、俺が、俺たちがどれだけ怒っていい、泣いていいつっても、何言ってんだって顔してたお前が!怒ってんだよ!」
ヴァイスは、なんだかとても楽しそうだ。
喜びをこんなに露わにする大人を初めて見たソフィの胸が、ちょっときゅんとする。可愛い。あとめっちゃ良い人だな。
だって、今ならソフィもわかる。
泣いたり、怒ったり、悲しんだり、そういうのができるのって、すごく幸せな事なんだ。幸せを知らないとできない事だから。
ルネッタは、これが不当だって。おかしい話だって、気付ける、そんな幸せの中にいるのだ。
ルネッタはきゅっと手を握った。
「へーか、私、怒っていいですか」
「いんじゃね?」
やっちまえよ、とヴァイスは笑った。
いつものようにシニカルな笑みに、ルネッタが、ぱちんと瞬きをする。
もしかして、笑ったんだろうか。ヴァイスが、嬉しそうに笑みを深める。
アズウェロは、ぽん!と身体を大きくした。
「主、我らも手伝うか」
「まあ、良いの?」
「うむ。任せよ」
アズウェロが頷いたので、ソフィも立ち上がった。
パンパン、とスカートの裾を払って、深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
それから、ヴァイスの後ろで王を踏んづけているリヴィオを見た。
ソフィの大好きなブルーベリー色の瞳が、キラキラしている。
あれは多分、やっちまえ!ってワクワクしている色だ。
途方に暮れるくらい、数えきれないくらいの女の子たちが感情を無くすくらい、長い長い年月をかけて、呪いをつくりあげてきたこのお城で。
最後の魔女が怒るお手伝い。
なんと光栄だろうかと、ソフィは両手を広げた。
展開するのは、防御魔法。
ソフィが使える数少ない魔法で、アズウェロの力を借りやすい魔法だ。
たくさんの魔女が国を生かすために守り続けた、人の命を護るための魔法を、ソフィは紡ぐ。
すう、と隣でルネッタが息を吸った。
さあ、それでは皆様ご一緒に。
「ふざっけるなあああああああああああああ!!!!!!!!!」
その日、白と金色を基調とした美しきお城は、見事!全壊した。





