9.名を呼ぶ声よ
「何かしら……」
「ソフィはここにいて」
ただごとではない雰囲気に腰を浮かせるソフィの肩を押して、リヴィオが立ち上がった。
ついさっきまでのふにゃふにゃと溶けるような愛らしさをしまい込み、鋭い眼差しを向ける横顔はひたすらに美しい。あっちからこっちへの振り幅にソフィは胸を抑えた。
「……っみ、っ見に、行くの」
なんとか例の言葉を差し替えることに成功しほっとするソフィに、リヴィオは軽やかな微笑みを浮かべた。
「少しだけ。大丈夫、危ないことはしませんよ」
ひらりと舞うローブがまあ優雅。ソフィがリヴィオの心配をするなんて、失礼な話やもしれん。
だってソフィはリヴィオが重症を負う姿を知らない。
リヴィオを個人として認識したあの夜よりも過去、彼が「リヴィオニス・ウォーリアン」という将来有望な騎士であったその頃から、ソフィはこの男が怪我を負ったなんて話を聞いたことがない。馬鹿に強いあの家系の長男が大きな怪我をすれば、噂話の一つや二つ、聞こえてきてもおかしくないのに、だ。
そんなリヴィオが「危ない」と感じることがあったとしたならそれはもう世界大戦規模なのでは、とソフィは思うわけだ。
が、理性と感情は異なるものなので。
常識をばっさばっさと切り倒すリヴィオの姿を見ても尚、ソフィの心は不安に揺れる。仮にリヴィオが空覆う翼を持ったドラゴンであったとしても、ソフィはリヴィオを心配し続けるだろう。
揺れる心を抑え頷いたソフィは、けれども「話のわからん奴らやなあ!!」と響く声に瞬いた。
「大丈夫? 言葉わかっとう? 痛い目見たくなかったら馬車から降りろっち言いよるんじゃはよ降りろやおぅコラボケカス!!」
「山賊? にしちゃ声が1人分しか聞こえないんだけどなあ」
ぼやくリヴィオのその向こう。山賊のように怒鳴るその声を、その特徴的なイントネーションを、ソフィは覚えている。
「リヴィオ、わたくしも一緒に行って良いかしら」
「え」
「主?」
ソフィは立ち上がり、声のする方向に足を向けた。すぐさま隣に並ぶリヴィオをソフィは見上げる。
「多分、知っている人だと思うの」
「あんなガラが悪そうな奴を? ソフィが? え??」
「うーん、わたくしが知っている彼はそんな感じじゃなかったんだけど…」
お行儀が良いかと言われれば、まあ、曖昧に笑うしかないが。
貴族令嬢ソフィーリアをまるで普通のこどものように扱い、口上も礼もなく手を取った大きな手は紳士とは言えないだろう。
なにせ、とある魔女は彼のことをこう語った。
──名前を聞いただけで「絡まれたくない」と逃げ出す魔女がいる、と。
「得体の知れない奴に馬車を降りろと言われて降りる馬鹿がどこにいる! 馬車がなきゃ俺は商売ができねぇんだ!」
「はぁー?! 馬車はいらねーつってんだろ! 馬車を寄越せっち言いよるんやなくて、馬車を見せろつってんだよ馬車からただ降りっち言いよるだけやろがボケがぁ!!」
「さっきから誰がボケだこのクソ野郎!」
「ああぁん?! クソ野郎で結構じゃ引きずり降ろしたろかゴルァ!!」
なるほどこれは問題児だ。いや、問題そのものだ。
ゆるく三つ編みにした長い髪、丸いサングラス、大きなファーがついたロングコート、耳にじゃらじゃらと並ぶ魔法石のピアス。
その全てが赤い。森の中どころか、町中であっても誰よりも目立つだろうなってくらい、全身真っ赤。赤より赤い。
問題が真っ赤な服着て立って怒鳴ってやがる。
「なんですかあのチンピラ」
記憶と寸分たがわぬ強烈な存在感。記憶を遥か超える凶悪な存在感。
一度目にすりゃ夢にも出るだろうってぐあいの怒鳴りっぷりに、尻込みするどころか。気づけばソフィは駆け出していた。
「大魔女ですよ!」
「えぇっ」
ソフィが走り出すと同時に走り出したリヴィオが素っ頓狂な声を上げる。
その声にすら笑い出しそうで、ソフィは声を上げた。
忘れられるわけがない。
彼と出会いソフィは、ソフィーリアは、ただ突っ立って見ているものだけがこの世の全てじゃないと知った。
ソフィーリアの小さな世界をこじ開けてくれた最初の人。
ソフィーリアに秘密の箱庭を授けてくれた人。
王太子の婚約者ソフィーリアには必要がなく、淑女教育にも王妃教育にも登場しない単語を、ソフィーリアの人生に花咲かせたその人の名を、今は、もう、ソフィは知っている。
「ルーベニス様!」
鍛えた腹式呼吸がその名を届けたその時。
眦を釣り上げていた横顔が、ソフィに向けられる。
少し目を凝らせば見える、火の粉のようにゆったりと舞う、赤い魔力にソフィは目を細めた。
「お久しぶりです」
サングラスの奥の瞳が、きょとんとソフィを見返す。瞬きを一つ落とし、「あ」と口を開けた。
「おチビ?」
声の主が誰かすぐにわかったあなた様は、はじかねりすと。





