汚泥で見る夢(前)
夏なのでちょっと寒くなる話でも、と思ったら長くなったので前後編です。
少年王エーリッヒの兄、ピューリッツと悪い魔法使いのお話。
「取引をしようか」
にっこりと美しい笑みを浮かべる子どもに、デリウスは「うぇっ」と思った。
薄暗い地下室でも輝く金髪に、意思が深そうな薄いブルーの瞳、汚れを知らぬような白い肌。そのどれもこれもがデリウスを不愉快にした。
慣れ親しんだカビ臭さや埃っぽさすら掻き消すような清廉さときたら。きもっちわるい。ほんと嫌。最悪。
そんなわけでデリウスはふいと視線を逸らしたが、子どもは気にした様子もない。
子どものそういうところが、デリウスは心底大嫌いだった。
「そう邪険にするな。君が喜びそうな話を持ってきた」
喜び。ははあ、喜びとは。また大きくでたものである。
十年ちょっと生きただけの子どもが、他者の喜びを語るなんぞ反吐がでらあな。ガキは大人しくケーキ食ってしあわせーとか言うときゃいいんだ。そうしたらデリウスがその幸福でいっぱいの脳みそを撃ち抜いてやるのに。可愛らしいだけの子どもならば、丁寧に括り殺してやったのに。
腹の底から湧き上がる嫌悪感で双眸を睨みつけると、子どもはゆったりと微笑んだ。
「ピューリッツ兄上のことだよ」
たった十年ぽっちしか生きていない子どもが、デリウスを見透かし笑っている。
デリウスのことなど何も知らぬはずの子どもが、何もかもを知ったような顔で、宗教画の天使のように。
「……なんのおつもりですか陛下」
「嬉しいな。お話ししてくれる気になった?」
うふふ、と幼気な微笑みの、ああ、なんと忌々しいこと。
あの男の醜悪さの一片でもあったなら、デリウスだってもうちょっと可愛がってやれたのに。
火傷の跡を引きつらせて笑うデリウスの顔は見れたものではなかろうに、子どもは綺麗な笑顔のまま眉ひとつ動かしゃしない。
「デリウス、お芝居はいいよ。みんなの前で喚いてみせたあれも演技なんだろう? 君は馬鹿じゃない」
むしろ、と子供は歌うように笑う。
「ヴィクトール兄上がいなければ、キングメーカーになれたかもなあ」
「はっ」
キングメーカー! キングメーカーだってさ。王をつくる? デリウスが? 薄汚れた地下牢に繋がれ子どもに嘲笑われているデリウスが。
学も地位も身分もない。疎まれ嫌われ追われ敗北し付ける人生しか知らぬ、デリウスが?
「正気か貴様」
王様の仰る通りに馬鹿で卑怯な魔導士の顔を捨てたデリウスに、子どもは首を傾げた。
「ピューリッツ兄上はそれを望んでいたんでしょう?」
忌々しい。
本当に忌々しいと、デリウスは笑った。
「知らん」
「ふうん?」
子どもはどうでも良さそうに椅子に座った。
どこから持ち込んだのか、安っぽい木の椅子は子どもには不似合いでおかしい。そもそも地下牢に子どもがいること自体が異様ではあるけれど。
真っ白のシャツ、ベルベットのリボンタイ、白いベストに、スラックス。何もかもがこの場所に不似合いで不釣り合いで、子供の存在感を浮き立たせる小道具のよう。ベリウスが生涯で稼ぐ金を積んでも足りぬだろう高級な服を身に着け、子どもはゆったりと足を組んだ。
「じゃあ君の望みはなんだったの」
子どもの瞳は、ただまっさらに興味を浮かべている。
それはデリウスが知っている青い瞳と似ても似つかない色であった。
「なんて醜い男だ」
青い瞳にありありと浮かぶ嫌悪の感情と、それを隠しもしない物言いに、デリウスは笑い転げたくなった。
曇り空のような髪をきっちりと束ねたこの男はなんと、王の兄だという。よくも、まあ。こんなお馬鹿さんが王族なんてやってられるもんである。とんでもなく不幸な男か、とんでもなく幸運な傀儡か、さてどちらかしらん。なあんて。大声で笑い出したいほどに楽しくて、デリウスは唇を引き結んだ。さすがに笑っちゃあまずかろう。
「お目汚し申し訳ございません、ピューリッツ殿下」
デリウスはフードを深く被る。
ローブの裾が揺れるのに、ピューリッツは舌打ちをした。舌打ち? 高貴なお方が? まあったく、本当にお育ちの良いことで。
だいたい、デリウスとて火傷の跡が主張激しい顔面を晒してまわる趣味なんざない。どこぞの王族様が「私の前で顔を隠すとはなんと無礼な男だ」とフードを剥ぎ取ったせいだというのに、なんたる理不尽。あ、なるほど。あのどこぞの王族様は、目の前で眉を寄せるこの男ではなかったわけか。世の中には似た顔が二つだか三つだかあるらいしな。ふむふむ。んなわきゃあるかボケ。
「こんな奴が本当に役に立つのか」
「薄汚い男だが、実力は確かとのことです」
視界に入れたくもないとばかりに、ピューリッツの隣で小太りの男が目を細める。
ねっとりとした声は続けた。
「金さえ渡せばなんでもするらしいです。卑しいことですな」
おやまあ随分な物言いだこと。ご期待に添え、デリウスは深々と頭を下げた。反論? ないない。だって事実なんだもの。生きるには金がいる。金がなけりゃ、飯が食えない。飯が食えなきゃ、プライドも夢もない。意地汚く命にしがみついて何が悪い。デリウスはただ生きるために生きている。
「おまえ、証拠を見せてみろ」
嘲る声に、デリウスは顔をあげた。
デリウスをこの男の前に差し出したのは、小太りのなんとかというこのお貴族様で、そのお貴族様にデリウスを引き合わせたのは「卑しい仕事」を斡旋している男だった。
綺麗な服を着て綺麗なものに囲まれて「卑しい者」を軽蔑しているくせに、貴族こそが「卑しい仕事」を絶え間なくお恵みくださる。
滑稽でならないが、デリウスはべつにケチをつけるつもりはない。ぐちゃぐちゃにかき混ぜた泥の上に豪奢な椅子を置かせるお仕事があるからこそ、泥を主食にしているデリウスのようなものが今日を生きられるのだから。
「仰せのままに」
こん、と杖を打ち付けた。
身体の中で魔力が練り上げられていく感覚とともに、足元に魔法陣が足元に広がる。絡まり合って、推し合って、ぎゃんぎゃんと喚き立てるように膨れ上がる魔力の渦。気ままに伸びる術式。
デリウスは、しゃがれた声で詠唱を結んだ。
「レイシアスドロップ」
そうして雨のように降り注ぐのは、無数の氷の槍。
地面に突き刺さり、彫像を貫き、砕かれた石材が宙を舞う。護衛と一緒に二人は悲鳴を上げ飛び跳ねた。
たいへんお行儀の良いそのステップに、デリウスは「ご満足いただけそうですか?」と膝を折った。
「わ、私たちを殺す気か!」
「まさかそのような」
殺すどころか、傷一つ負わせていないはずだ。
けれど、首を振るデリウスの魔法はお貴族様のお気に召さなかったらしい。顔を真っ赤にしてジタバタと地面を踏み鳴らした。
「殿下! 下賎な者などやはり信用なりません! 貴様! この話はなかったことにする!」
金持ちだからって金払いが良いとは限らないことを、デリウスはよく知っている。態度の悪いこの二人がどれほどの見返りをくれるのかわからない以上、帰れと言うならデリウスはそれでもまあべつに、構わない。仲介の男はそれなりに腹を立てるかもしれないが、しったことか。仕事を回さぬと言うのなら、他の国に行きゃいい話だ。だってほら、泥水の味はどこでも一緒だもの。デリウスは違いがわかるほど舌が肥えちゃおらんのでご安心を。贅沢を知らぬ質素な食生活万歳。
次はどこに行こうか、と考えるデリウスはけれど「待て」とピューリッツの声に再び顔を上げた。青い目が、らんらんと輝いている。
「今まで見てきた魔導士の中で、一番腕が立つのは確かだ。……お前がいれば、俺は王座を取り戻せるかもしれない」
奪われた? 今、この男は玉座を「奪われた」と言っただろうか。はて。「奪う」と言うからには、玉座はピューリッツのものだったんだろうが、ピューリッツが王であった歴史をデリウスは知らぬ。言いがかり、なんていやいや。デリウスは学がないしな。本人が王だと言っておられるのだから、そうなんだろうよ。ピューリッツの言葉を疑うほどの知識も興味もないデリウスは黙するのみである。
「なんて汚いんだ」
ピューリッツは、深々と突き刺さる氷柱にそれはもう嫌そうな顔をした。素手で泥水に手をつっこんじゃったって顔。ふうむ。雨水をそのまま凍らせたかのような氷は、ピューリッツの美的センスでは「ナシ」らしいな。もっとも、デリウスの魔法はいつだって「汚い」と、大好評であったが。いやだって、攻撃用の氷にわざわざ綺麗な水を用意する必要ないだろ。そのへんの水分かき集めりゃそれで良かろう。
デリウスにはとんと理解できないが、美しいことにはそれだけで意味があるらしい。なんじゃそら。
馬鹿馬鹿しい問答は、けれども今はお求めではないらしい。
「おぞましい魔法だが」
どうやら、デリウスの魔法はある意味においては、ピューリッツのお好みのようだ。
「この汚い氷に貫かれたあのガキは、さぞ惨めな思いをすることだろう」
女のような顔を歪めて、ピューリッツは笑った。
「気に入ったぞ、お前。お前に、私を王にする名誉をやろう」
それが始まり。
安全な食事と寝床。潤沢な資金。きらびやかな視界。
デリウスの人生を一変させた、すべての始まりの日。
「殿下は、俺を必要としてくださった。世界のどこにも居場所がない俺を」
ふうん? と子どもは、膝の上で頬杖をついた。
興味深そうに、或いは砂の一粒ほども興味がなさそうに。
「ならどうして、最後に兄上を裏切ったんだい。兄上に脅されたと叫んでいたし、ドラゴンにペラペラと喋っていたそうじゃない。口の軽いおバカさん、自分だけ助かろうとする不忠義者にしか見えないように振る舞った理由はなんだい?」
デリウスは項垂れ、唇を噛んだ。
「貴様に何がわかる……先に私を裏切ったのはあの方だ。醜い私は使い捨てなのだと」
「なるほど、これも芝居か」
くすりと笑う声に、デリウスは顔を上げる。
初めてこの子どもを見た日が、もう随分と遠い昔のように思えた。
静かで深く弱者に容易く頭を下げさせる瞳が、脳裏に焼き付いている。
ピューリッツは、ねちねちと嫌味を言う自分の声を聞き流す子どもが立ち去ると、「本当にガキに仕事ができると思うか?」「あれは操り人形に決まっている」と吐き捨てた。わおーん。負け犬の遠吠え。なるほどなあ、と思ったデリウスは、はて。あの時、なんと返したっけ。覚えていない。
覚えていないけれど、多分、あの瞬間から、ずっと、デリウスは────飢えている。
「それで、君の望みはなんだったの」
「答えると言った覚えはない」
「ふふ」
たしかに、と子どもは笑った。
飴玉を転がすようなあどけない笑みがその実、骨を転がすような無慈悲さを持っていることを知る人間は、さてこの世にどれだけいるだろう。骨になっている以上、彼ら彼女らはお元気とは言い難いので数えるのは簡単だろうな。ひとつ、ふたつ、みっつ。重ねた屍の上で、木の椅子に腰掛け王は笑う。
「ねえ、でも、欲しいんでしょう」
問いかけではない。断じる声の澄み切った傲慢さに、デリウスは唇の端を吊り上げた。
「貴様こそ、何が望みだ」
「ああ、やっぱり話が早いね」
じゃあお喋りはここまでにしよう、と子どもは目を細める。
「ピューリッツを、あげる。君に」
「……」
「警戒しなくて良い。文字通りの意味だよ。もちろん、彼は五体満足だ。何一つ欠けることなく、損なうことなく、ピューリッツそのままだ。ああ、彼を彼たらしめる一部であった権力はあげられないけれど」
雲色の髪。
淀んだ青い瞳。
人形のように白い肌。
高慢な娼婦のように美しい顔。
鍛えられた飾りものの体躯。
怠惰を愛する細い指。
──哀れで間抜けな、有象無象の傀儡。
「……誓約書が必要か?」
「ああ、本当に話が早いね」
魔法の誓約書は相応のリスクを伴う。
交わした誓約は絶対だ。下手に裏切れば四肢が飛散するかも。で、だからどうした。
デリウスはつま先を鳴らす。タン、タタ、タン、タタタン、タン。王様のお耳には耐えられんだろう醜いステップに合わせて、魔法陣が広がる。けれど、しゃがれた詠唱にも矢張り子どもは顔色を変えない。
詠唱が終わると同時に、パキン、と腕の鎖が割れると、子どもは破顔した。
「すごい。君は本当に腕がいいんだな」
手を叩かんばかりに称賛する声が耳障りで、デリウスは笑った。
「よこせ」
「はい、どうぞ」
渡された紙を広げると、デリウスの想像通りの言葉が並んでいた。
二度とこの国に立ち入らないこと。
ピューリッツを生涯監視すること。
王位の簒奪、王への復讐、それに準ずる企てをしないこと。
堅苦しい言葉でお綺麗に無べられちゃいるが、まあようは、ピューリッツが二度と子どもに関わらないようにお守りをしろ、という内容だった。
子どもにとって不都合な人間には、ピューリッツは都合の良いマスコットになる。
何せ自分でまともに物を考えられないし、自尊心は誰よりも高い。操るのは容易かろう。
生きているだけで子どもの邪魔であるが、子どもは殺しが嫌いだ。それに、うかつに殺せばそれなりの反発もあるだろうしな。かといって裁判が長引けば未だ子どもを引きずり下ろそうと画策する連中に時間を与えることになる。
いらないゴミを引き取れと、そういうわけだ。
「異論はない」
デリウスが頷くと、インク壺とペンが渡される。
たっぷりと魔法がかけられたインクで羊皮紙にペンを走らせた。
紙にも何重にも魔法がかけられていたが、約束を違える気はなかったので、デリウスは特段気にすることなくそれらを子どもに返す。
「お礼を言うべきかな?」
「いらん」
「まあそうか」
カチャン、と鍵が開く。
冷たく鉄臭い堅牢なそれが、ぎいと音を立てた。
「最後にもう一つ聞いてもいいかな」
手ずから扉を開けてくださった王は、あどけない仕草で首を傾げた。
デリウスはポキリと首を鳴らす。
青い瞳に輝く好奇心に応える義理は感じなかったが、どうにも気分が良かったのでデリウスは子どもを見下ろした。
「どこからどこまで、君の筋書き通りだったんだい?」
後編は本日中に更新予定です!





