67.エレノア・ディブレ(6)
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うっかり馬鹿みたいなことをしでかしちまうその衝動を人は「恋」と名付けているのだとエレノアが知ったのは、王妃と第一王子妃を「母上」「姉上」と呼ぶようになってからだった。
「恋」
「恋よ!」
「恋!」
きゃあ! と可愛らしい声を上げた二人は、ベッドにころんと転がった。
パーティーでドレスの裾を揺らす二人は、他国の貴族や王族に、小さな国の田舎者と笑われるどころか視線をかっさらってまわるほど気品に溢れているのだけれど。「パジャマパーティーよ!」とベッドでだらしなく菓子を食べるときは、小さな女の子のように愛らしかった。
「それで、エレノア様その方はどんなお方なの?!」
エレノアが兄に交ざって剣を振る姿を見て「凛々しくて可愛い妹だなんて素敵だわ」と笑った義姉ラウラディアは、きらきらとした目でエレノアの手を取った。
「金髪で、透き通るみたいな目が綺麗な子だった」
「まあー! 素敵ー!!」
きゃー! とベッドの端までラウラディアは転がっていく。エレノアは「恋……」と知ったばかりの名を口の中で転がした。
「はあ……あの人と初めて会った日を思い出すわ……」
いいわねぇ……と悩まし気なため息を付いたのは母エレンディーナである。クッションに頬を埋め、足をパタパタとさせる姿は昼間の威厳ある姿と似ても似つかない。
エレノアはどちらの母の姿も好きだな、とぼんやりと思った。
「どこのどなたか、わかるの?」
ベッドの端から四つん這いで戻ってきたラウラディアに、エレノアは一拍おいて「いいえ」と答えた。
少年からもらったハンカチには、紋章が縫われていた。
青い糸で縫われた紋章は、二人に見せればすぐに誰のものかわかっただろう。だからこそ、エレノアはそれを告げなかった。
人に見られては困るのだ、と言ったのはあの少年なのだから。
だから、隣国でのパーティーで少年の姿を見た時、エレノアは自分の判断が正しかったのことを知り、安堵のため息を付いたのだ。言わなくてよかった。
国王の傍らに立つ三人の王子。
その一人こそ、エレノアにハンカチを渡した少年、エーリッヒ・フォン・キングストレイだったのだから。
貴族の子どもだろうかとは思ったが、よもや大国の王子だとは思わんだろう。ないない。びっくりもびっくり。うっかり口から心臓が走り出していくかと思った。
ハンカチに刺繍された紋章は王家のもので、その紋章を青い糸で縫うことは王家のみに許されている。ついでに、ハンカチには持ち主の身を護る加護の魔法がかけられていた。
挨拶をした少年から同じ魔力を感じ、本当にあの時の少年が目の前の王子なのだと、エレノアは緊張で震える指をぎゅうと握った。
エーリッヒはエレノアに気づかない。そらそうだ。あの日のエレノアはフードをすっぽり被っていて、女だから剣を持てないとびえびえ泣いていた。
ところが今のエレノアはエーリッヒの前に、小国とはいえ一国の王女として、黒鬼と呼ばれる武人として、立っているのだ。兄が懇意にしているデザイナーが仕立てた騎士服は、エレノアを男でも女でもない「黒鬼アレン」という存在として飾り立ててくれている。
そりゃ気づかれるわけがない。
エーリッヒは、二人の兄の後ろでただ静かに微笑んでいる。
綺麗だな、とエレノアは思った。
なんの興味もありません、て面で静かに微笑んでいるくせに、眼がちっとも笑っちゃいない。油断なく牙を研いでいるような瞳は、まるでエレノアが敬愛する師のようだ。
「エーリッヒ、お前も挨拶しなさい」
エレノアが見ていることに気づいたのか、国王はエーリッヒに視線を向けた。
はい、とエーリッヒが応える声は、エレノアの記憶より少し低い。掠れを帯びた、少年独特の声にエレノアの心臓がとんと跳ねた。
「エーリッヒ・フォン・キングストレイです。お初にお目にかかり光栄です。エレノア姫のご活躍はかねがね伺っております」
名を呼ばれた!
エレノアの心臓がぎゃいんと飛び跳ねたが、一人でモンスターの群れを相手にしたことだってあるエレノアは、その動揺をおくびにもださず微笑んだ。
「良い話であればよいのですが」
エーリッヒは、ぱち、と瞬きをすると緩やかに目を細めた。
「人であろうとモンスターであろうと、貴女が国境で敵を薙ぎ払ってくれるからこそ我が国も平和が保てるのです。お会いできるのを楽しみにしていたんですよ」
エレノアの心臓はきゃいんと絶命するところであった。
あっ………ぶ、あっぶない。危うく隣国のパーティーが人生最後の夜になるところだ。そんなことになれば、国際問題になることは必至。色んな意味で最後のパーティーになっちまう。
エレノアはふんと舌を噛んで微笑んだ。
「わたしも、おあいできて、とてもうれしいです」
なんとかにっこり言えたのでエレノアは自分で自分を褒めた。ああ、盛大に褒めまくったさ。無様な姿を晒さずにすんだのだから!
残念ながらエーリッヒとダンスを踊ることは叶わなかったが、そんなことをすれば今度こそあの世に続く虹を渡るだろうことは想像に容易いので問題ない。それに、身長の問題を抜きにしたって騎士服を着たエレノアと踊りたいなどと思う物好きはいない。にこにこと手を差し出してくる兄がおかしいのだ。
ああ、そういえば視線を合わせもせず「踊ってやっても良い」という弟の気遣いを、エレノアは嬉しいと思ったけれど、申し訳ないので辞退した。その後しばらく口を利いてくれなかった理由だけが、エレノアはわからんのだけどね。
そんなふうにして、時々エーリッヒと会えるわずかな時間を楽しみに、エレノアはそれなりに自由に生きていた。寂しいなんて感情は、遠い昔。
家族に恵まれ、部下に恵まれ、師の牙を使った剣を振るう日々を、「黒鬼アレン」の名を、エレノアは愛していた。
エーリッヒとの婚約が舞い込んできたのは、そんな日々の中であった。
国境で大量発生した巨大モンスターの討伐で出会った隣国の王子、ヴィクトールはエレノアをいたく気に入り「我が最愛の女性であり最愛の友!」と称してはばかからない。いや、はばかれ。
誤解を受けるからやめろと言っても、常人と生きる世界が違うヴィクトールは「だって私、君以上に好ましいと思う女性を知らないし、友と呼んで許されるのは君だけだもの」ときょとんとしやがる。そりゃあ、この男についていける人間はなかなかおらんだろうし、彼は親しくしている部下たちを友とは公に呼べぬ。
だが、そういうこっちゃない。エレノアが女だと認識した上で、なぜそうなる。ドラゴンに育てられたエレノアの方がよっぽど情緒がまっとうだ。
けれど、頭のおかしいこの男はエレノアを奇異の目で見ない。自分自身が変わってんだから、多少のことは気にもとめないだけではあるが、これがまあ、楽なのだ。
エレノアを受け入れた部下たちでさえ、エレノアが女であると思い出すと気まずそうにするのに、この男はエレノアをきちんと女として扱う。馬車に乗るときはエスコートまでしやがるので、エレノアの方が気まずい。
なんでもないように、エレノアをただエレノアとして真っ直ぐに受け入れて笑うので、エレノアはなんだかんだヴィクトールが好きだった。
そんなヴィクトールが言ったのだ。
「君、うちの王妃になる気はないかい」





