63.エレノア・ディブレ(2)
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カン、と甲高い音がする。
ちらと見上げると、木刀が宙を舞っているところだった。
どすりとそれなりの重さで着地する音を聞きながら、エレノアはフードを深く被りなおす。
「くそー! また負けた!」
「お前は注意力が足りないんだよ。相手をもっとよく観察しろ」
「ぐぬぬぬぬ悔しいいいい」
「聞けよ」
スパン、と第一王子は小気味いい音を立て部下の頭をはたいた。それに周囲の男たちはゲラゲラと笑い声を上げる。
仲が良いなあ、とエレノアは目を細めた。
なんだかとても楽しそうで、ひどく羨ましくなる。いいなあ、なんて。ね。何がそんなに羨ましいのか、エレノア自身にもわからなかったけれど。
剣を振りたいのか、と聞かれりゃさてと首を傾げるだろう。
ドレスを着たくないのかと聞かれりゃ、そうではないと首を振ると思う。
ただ、身の置き場が、心のやり場が、見つからない。心細いような申し訳ないような、うまく消化できん気持ちが、ずっと身体ン中でぐるぐるしてやがるのだ。ああ嫌だ嫌だと首を振り、エレノアは駆け出した。
なんだかよくわからないけれど、うまく言葉にできないけれど、太陽の下で笑う彼らが羨ましくて、ローブを被ってこそこそと走る自分が馬鹿々々しい程に情けない。
これじゃあまるで逃げているみたい。
いや、いいや。逃げるだなんて。んなつもりは毛頭ない。
刺しゅうは存外楽しいし、綺麗なドレスに心躍る気持ちも嘘じゃないんだ。泥だらけになって野っ原を転げて回っていた日々とは比べ物にならないほどに煌びやかで、遜色なく温かな日々に、エレノアはちゃんと感謝している。
「ちょっとだけだ」
だけどもちょっとだけ、一人になりたかった。
王の、王妃の、王子の、柔らかい眼差しが届かない、草と土のにおいがする場所で昼寝でもすりゃあスッキリするんじゃないかと、そう思ったのだ。他意はない。ないったらない。
──本当に?
しつこく問う自分に、エレノアは溜息をついた。
「……逃げているのかな」
そもエレノアが国王と出会ったのは、ただの偶然にすぎない。
怪我をして動けなくなっていた王と森で出会い、治療した。ただそれだけだ。
なんとかって実を輸出するための調査で森に来たのだという王は、大きな身体をしているのにどんくさいらしく、崖で足を踏み外して落っこちたのだという。
すぐに動けるような小さな怪我ではなかったが、命に関わるような大きな怪我でもない。運が良いんだか悪いんだかわからない男が「すまない」「有難う」としきりに頭を下げるのに笑いながら、エレノアは付きっきりで治療をした。弱ったおじさんを放っておけない性分なのだ。
それに、エレノアはドラゴンに救われて今日を生きている。師の真似事をしてみたかったのかもしれない。
まあつまりは、エレノアが国王を助けたことに大仰な理由なんざないのだ。エレノアはほとんど勢いで見知らぬ男を担いでいたし、エレノアが巣に帰らないことを心配したドラゴンたちは気まぐれで王を巣にいれることを許した。
たったこれだけ。たったそれだけ。
なのに感動しいでお節介な王は「人の世に戻してやってほしい」と師匠の言葉を真に受けて、エレノアの手を引き城門をくぐっちまった。
だからエレノアはもう、ドラゴンと共には生きていかれない。
だけどエレノアにはもう、共に生きていく人間の家族がある。
ぐうるぐうると、正体の掴めないものが腹の中で揺れている。
それがいつか食い破って外に出ちまいそうで、エレノアはそれがただただ恐ろしかった。
そうして、見えないものと目を合わせないように、エレノアは走った。まあもうびっくりするくらいに走った。
汗が顎を落ち、息を切らして、走って走って、足が重たくなった頃。こんなに走ったのは、修業を始めた頃以来かもしれないなあと我に返ったエレノアは、小川の側に腰を下ろした。
手を浸した水は、冷たくて気持ちが良い。
汗でぐしゃぐしゃの顔を洗うと、脳みそまでスッキリする気がした。
「はあ」
汗をかいて張り付く衣服は気持ち悪いが、疲労感がやけに心地よくて、エレノアはそのまま仰向けに身体を倒す。
柔らかい草の感触、ゆったりと風に流れていく雲、真っ青の空。
身の内に流れるドラゴンの魔力と馴染む自然の気配を、エレノアは思い切り吸い込んだ。そして、手足の力を順に抜き、ゆっくりと、ゆっくりと、息を吐く。
ぼろんと、涙が頬を落ちた。
「あぁ、クソ」
悲しかないさ。何も、何も悲しいことなんてないさ。そのはずだ。
なのに、なぜだろう。
後から後から、涙が落ちていく。
エレノア、と己を呼ぶ低い声が頭ン中で木霊する。自分の魔力が世界に溶け出していく。
こんなのは、だめだ。
優しさの中に身を浸している子どものくせに、何を呑気に己を憐れんでいるのだ。なんて恩知らずだろう。
エレノアはフードをぐいと下ろし、ぽかぽかと降り注ぐ日差しから身を隠した。
「…………」
はく、と唇が震える。
出したい言葉がある。身体を飛び出して行こうとする、言葉がある。
けれどそれは、形にしてはいけない言葉だ。
エレノアは、ぐっと唇を噛んだ。
ぶちりと薄皮を破る感触がすれば、血の味がする。生きている。生きている。エレノアは、今、生きている。
「、」
「どうしたの?」
ふいに、透き通るような声がエレノアの上から落ちてきた。
驚くほどに静かで透明な魔力の気配に、エレノアは瞬く。ばらんと落ちて行った涙を見られぬよう、ローブで拭い、そっと視線を上げる。
「どこか怪我でもしたのか?」
太陽をそのまま閉じ込めたような金色の髪の少年が、エレノアを心配そうに見下ろしていた。





