54.愛を語る罵詈雑言
どばっしいぃぃん!
と、それはさながら、雷が落ちるような音だった。
空気を振動させて聞く者の耳をつんざいて、身体が硬直するような、そういう破壊的な音だった。
なんの音? って、エレノアが突然張り倒された音だ。
いや、張り倒されたってのは語弊があるな。
どえらい音を響かせて頬を打たれたエレノアは、それでもそこに立ってんだから。
ソフィなら首がぐるりんと回って彼方へすっぽーんと飛んでいっただろうって衝撃を、エレノアは身体をふらつかせることなく受け止めたのだ。頑丈にもほどがある。どこぞの騎士様のような鍛えっぷりに、ソフィは「さすがだわ」と胸がときめいちゃうんだけれど、婚約者であるエーリッヒは慌ててエレノアに駆け寄った。
「エレノア!」
心配の色を乗せて自分を見上げるエーリッヒに、エレノアは「大丈夫」と手を振った。
そして、「ふは」と。吹き出すように笑う。
「……何がおかしいんですか」
言ったのは、さっきまで白く巨大なドラゴンの姿をしていた男だ。
真っ白の長い髪の毛に、白い肌、そして裾の長い白い服。境界が曖昧になる、人ならぬ者だけが持つ存在感で、男はエレノアを見下ろしている。リヴィオの美貌を見慣れているソフィでも、目がチカチカする絵画のような顔をしかめて、男はエレノアの頬を打った手を握りしめた。
「私は怒っているのですよ」
「わかってる」
「おまえ、どうせまた無茶をしたのでしょう。その魔力に、薄汚い魔力を混ぜるなど巫山戯た真似をして、よくもまあ、ヘラヘラできますね」
淡々と言う男、ルールーと呼ばれたドラゴンの声は静かで耳心地の良い声だが、心臓がぎゅぎゅっと冷えるような怒りが滲み出ている。心底おっかない。
だがしかし。エレノアは、相変わらずにこにこと笑っている。腫れた頬さえ、気にせずに。
「だってルールー、それでも手加減してくれるから」
手加減。
手加減? ソフィは首を傾げた。
エレノアじゃなけりゃあ、首と身体が永遠のサヨナラをしそうな威力の張り手をくらって。手加減。生憎と、ソフィの辞書にゃない言葉だ。
「まあ、ドラゴンのまま振りかぶれば、さすがのエレノア様も無事ではないでしょうし、人の姿であってもドラゴンの一撃があの程度とは、思えないですよねぇ」
ふふ、と何か微笑ましいものを見るように笑うリヴィオをぎょっとして見上げたのは、ソフィだけではない。エーリッヒも驚いたように目を見開いた。
いやでもたしかに。たしかに、リヴィオが言っていることは正しいんだろう。ドラゴンの、岩のように大きな腕を振り上げれば、打つのは頬っていうかもうエレノアそのものだ。鋭い爪は、エレノア自身を切り裂いてしまうことだろう。
だから、頬を打つ直前にわざわざ人の姿になって、そしてエレノアがにこにこと笑っているということは、そういうことなんだろうけれど。
この騎士たちの「当たり前」が、つくづくソフィの知る「当たり前」とは、海を挟んだ向こう側の祖国のように遠い場所にあるのだと実感したソフィは、ちょっとだけ寂しくなったりした。ちょっとだけね。
「意地の悪いルールーの優しさが、私は大好きだよ」
「……私はおまえのような小娘、大嫌いですよ」
盛大に顔をしかめたルールーに、うはは、とエレノアは嬉しそうに笑った。
その笑顔と言葉に、ソフィは「あ」と思い至る。
「お師匠様と親しい、真っ白で美しくて意地が悪い、人間嫌いのドラゴン……」
ドラゴンの牙を見て、『よく知っている魔力の持ち主』をエレノアはそう語っていた。
つまり、彼があのドラゴンなのか。
ただ、まあ。あの時エレノアは「穏やか」とも彼を表現していた気がするが、今のところ、ソフィはこのドラゴンから穏やかさは少したりとも感じないけれど。激しすぎる愛情はひたすらに苛烈だ。
苛烈なドラゴンは、はあああああ、と体中の空気を排出するかのような溜息を吐き出すと、「それで」と顔を上げた。
「おまえがここに来たのは、それが原因ですか」
「うん。封じてもらっているんだけど、このままじゃ心臓を握られているようなものだからね。なんとかしてほしいなって」
「己の無様さを容易く口にするものではありませんよ。ああ、ああ忌々しい。その高潔な魔導力に、そんなものを入れるだなんて!」
「ごめんなさい」
「謝罪などいりません。謝ったってどうせ、おまえの馬鹿は治らないのですから。いいえ、治るもなにも、おまえは最初から馬鹿で阿呆な小娘でしたね。治る余地などはなからなかったのでしたね」
ガミガミくどくどと、ルールーの辛辣なお小言は止まらない。一言一言の切れ味が尖すぎる。
なのに、エレノアはしゅんと眉を下げて、一応は反省している顔をつくろうとしているようだが、口元はにっこりと笑っているままなのだ。嬉しさを隠せていない。ぶんぶんと振る尻尾すら見えそうで、それがまたルールーの燃えたぎる怒りに油をせっせと撒いているのだが、本人はどこまでわかっているのだろうか。
例の魔道士は今も森にいるのだろうし、エレノアが元気な姿を知られてしまっていることを考えると、呪いを早く解いてもらうべきだ。
にもかかわらず、この惨状ときたら!
エレノアに緊張感がないうえに、口を挟むまもなくルールーが捲し立てているので、ソフィはあわあわと見守るしかなくなる。いつだって冷静なエーリッヒさえ、あわわとエレノアの後ろで眉を下げているではないか。
「おもしろいドラゴンだなあ」
「そうなんだ。ルールーは卵の頃から変わってた」
「すごい勢いで殻を破ってずっと怒ってたんだって」
「なんで?」
「殻が固くて居心地が悪かったって」
「なにそれ」
ど、と呑気に笑っているのは他のドラゴンたちと、なぜかすっかり打ち解けているリヴィオだ。いつの間にやらドラゴンに囲まれてけらけらと笑っている。寝そべるドラゴンたちに囲まれた人間ってのをソフィは初めて見たが、なかなか異様な光景であった。でもその真ん中で笑うリヴィオはやっぱり可愛いので、まあ良いか。
「ルールーはエレノアが本当に大好きなんだ」
「好きじゃありませんよこんな小娘!」
さっきから五月蝿いですよおまえたち、とルールーに睨まれたドラゴンたちは、それでもケタケタと笑っている。
エレノアも一緒になって笑うので、ルールーは再びエレノアを睨みつけた。
「大体なんですその髪の色は。黒い髪に文句でもありましたか」
「ああ、いやこれは」
「ご、ごめんなさい」
おっとそれはソフィの犯行である。
思わず謝ったソフィに、ルールーは眉を上げた。ぞっとするほどの美貌の主から向けられる強い視線に、ソフィの心臓がびえっと思わず泣きそうになった。
「エレノアの正体がバレないように、わたくしが魔法をかけたのです」
「……ああ、なるほど。外のアレから逃げるために」
「エレノアの黒い髪は、わたくしもとても素敵だと思いますが、その、」
「あなたを責めるつもりはありませんよ。僕が怒っているのは、この愚かな小娘です」
ふい、とルールーが指をふると、エレノアの髪がふわりと光る。
ぱ、とその光が弾けると、エレノアの髪は元の黒髪に戻った。久方ぶりに見る、黒い波は艷やかで美しい。
「私の目にも、金色に見えていた。あなたはむしろ、ドラゴンにすら通用する魔法を使ったのだと誇ると良いでしょう」
「!」
褒められた! しかも、目を閉じたくなるほど眩い笑顔で!!
ひゃあと飛び跳ねそうになる足に力を入れて、ソフィはスカートを持ち上げて礼をする。元貴族で良かった! 感情を隠すのが得意で良かった! 小躍りしたくなる足を堪えて顔を上げると、ルールーは静かに微笑んだ。
「この馬鹿の呪いを封じたのも、あなたですね? 温かく可愛らしい、良い魔力です。このような魔力ならば、まあ、ローディスの魔導力と混在することを許してあげなくもないです」
「あ、ありがとうございます?」
ローディス? 思ったがソフィはとりあえずお礼を言ってみる。
ルールーは、ふっと目尻を下げた。
それは、ようやく見ることができたルールーの「穏やか」な姿であった。
「礼を言うのはこちらです。ローディスの魔力を過信する愚かな小娘の尻拭いをさせてしまい申し訳ない。呪いを封じてくださって、有難うございます」
人間嫌いというわりには、ソフィには至極真っ当な姿を見せるルールーに、ソフィはなんだか面食らってしまう。当たり障りのない言葉と笑顔で線を引く者もいるが、この笑顔と言葉にはそういう嫌味を感じない。
「わたくしが、したくてやったことですから。お礼なんて勿体ないですわ」
温度を持った言葉に、気にしないでほしいとソフィが両手を振ると、ルールーは小さく笑った。
が。
瞬きする間に、再びその眉間には幾重にも皺が刻まれ、不快感を隠しもしないしかめっ面になる。
「さて、そんな薄汚い魔導力に触りたくもないですが……そこにいつまでもあるのも不愉快です。仕方がない」
動くなよ、とルールーは指を伸ばした。
細くしなやかな指先がエレノアに延ばされ、そして、ずぶりと。
エレノアの身体に埋まっていく。
それはどうしたって、奇異で異様で恐ろしい光景なのに。
「ああ、嫌だ嫌だ。こんなもの、触りたくもない。おまえは本当に、昔から僕に迷惑ばかりかけて、なんて愚鈍な小娘なのでしょう」
「昔からいつも助けてくれるんだから、ルールーは優しいよなあ」
「ローディスがおまえさえ拾わなければ、薄汚い小娘になんぞ触るものですか」
「うん、私もお師匠様が大好きだ」
「聞いてないんですよ」
やっぱり緊張感のない二人であった。
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