私が出来る事は
「貴女って人は私が思いもよらない出来事を持ってくるのは相変わらずですねぇ」
「煩いよ、ナタリア。それに今回はあたしじゃない。この娘っ子さ」
「さすが貴女の弟子だと言ってるのですよ」
「煩いって言ってるじゃないか! さっさとどうにかしな!」
「まぁ、見て分からないのですかねぇ。ちゃんと今、解析してるじゃありませんか。解除出来る人を呼べるように」
「あんたがやればいいじゃないか!!! 練習しろって前にも言っただろう!?」
「本当にねぇ。私って不器用だから……天はどうして貴女に火の属性を与えちゃったのかしらねぇ」
二人のやり取りを汗だくのまま呆然と聞く。
おばあさんは学園に行ったのだと気づき、慌ててその後を追う私は、奴隷くんをあまり揺り動かしたりしないようにと出来る限り急いで道を進んでいた。
どれほど時間が経ったのか分からないけれど、おばあさんは言っていた通り戻ってきて奴隷くんを助けるのを手伝ってくれた。
そして、ナタリアさんと合流して―――この状態だ。
おばあさんは苛々した様子で怒るものの、ナタリアさんは暖簾に腕押し。
全く意に返した様子もない。
その手は奴隷くんの契約印を見ながら手元の紙に何かを書き綴っている。
「ほら、テリセンちゃん。此方にいらっしゃいな」
「え、はい……」
ちらちらと奴隷くんの様子を見ているも、二人とも全く深刻そうではない為にまるでもう彼が死の淵から引き換えしたかのようだ。
けれど、彼の顔色を見るとそうではないことは分かる。
「クラリスちゃんも慌ててたのねぇ。どうして〈浄化〉を使わなかったの?―――〈浄化〉」
ナタリアさんは片手で奴隷くんに魔法をかける。ついていた土や埃だけじゃなくて、血も消えた。まだ血は流れているけれど、清潔になったみたいだ。よ、よかった。ばい菌が入って悪化する可能性が低くなった。
「それから、テリセンちゃんも自分のこともちゃんと考えないとねぇ。またアレク先生に怒られますよ? ―――〈治癒〉」
「え、あ……」
ナタリアさんの掌が光った後、痛みが消え去った事に驚いて思い出した。
私も、ちょびっとだけ擦り傷を作っていたのだ。痛いと思うより先に人が倒れているのを発見してしまい、そちらにすっかり気を取られていて全く今まで忘れていた。
もう痛みはないけれど、〈浄化〉はかけてもらっていないので血は消え去っていない。
私の足には赤黒い線が幾つも出来ていた。履いている靴も血を吸い込んで、重い。袖口も汗だと思っていたけれど、どうやら血もあったようだ。
更に言うのなら、顔が痛いなと思っていたのは頬にも擦り傷を作っていたからのようだ。掌も真っ赤だ。奴隷くんを背負っていたから、きっと背中にも血がべったりだろう。全身の八割は私自身の血かもしれないけれど、とにかく私は髪の毛の先からつま先まで血に染まっていた。
「〈浄化〉か。酒はぶっかけたんだがねぇ。忘れてたよ」
おばあさんが、しまった、という顔をしている。
私もすっかり忘れていた。というより、私は今日始めて自分の意思で魔法を使った初心者だから、こんな非常事態で思い出すのは酷だろうと自分を慰める。次は絶対に思い出すぞ。
「お酒を? ならまあ応急処置はそれなりにしたんですねぇ。ちゃんと血止めもしていますし……あ、出来ましたよ。これが解析ですが……うーん、これはかなり面倒ですよ。高級奴隷というより犯罪奴隷級の契約印ですねぇ。一体、彼はどれほどの価値があったのか……まぁ、この顔を見れば使い道は一目瞭然ですねぇ。王族の高級男娼にでもしようとしたのですかねぇ?」
「ちょいと待ちなよ。犯罪奴隷級? ってことは……」
「ええ。主人の許可がない限り、奴隷から解放されませんねぇ」
不穏な響きだ。私は不安になって、おばあさんを見上げる。おばあさんはその視線に気づいて、溜息を吐いた。
「主人がいなきゃ、治療できない」
「か、解除したら大丈夫って」
ナタリアさんも、おばあさんも私に言った。こうしている間に、奴隷くんの命の砂は落ち続けている。
「それがねぇ、テリセンちゃん。奴隷解放するには主人の許可がいる契約印も入ってるんですよ」
「解除するにも……?」
「そうですねぇ、なんというか。絶対に逃がさないように、というか。主人がいなければならない契約印を彫られてるんですよねぇ。犯罪奴隷なんかだと逃亡しても奴隷から解放出来ないようにこういう契約印を彫るんですけどねぇ。ただの高級奴隷にこれほどするとはねぇ……?」
「主人は、でも」
奴隷商の主人は意識不明だ。
ナタリアさんの実力の程は分からないけれど、それでもおばあさんが信頼しているのは分かる。そのナタリアさんが言っているのだ。主人がいない限り、無理だと。
「主人との繋がりはすぐにでも切れるんですけどねぇ」
「……え?」
「今の主人と彼とは仮契約なんですよねぇ。だから多少無理やり彼との主人関係を壊してしまっても、双方僅かに違和感がある程度で大した事にはなりませんし。でも、治療するには次の主人を見つけないと出来ないんですよねぇ……どうしましょ」
「とりあえず、繋がりは切っちまいなよ。今二人とも意識不明状態なんだし、どっちかが目覚めてから……というか、向こうが目覚めてからだと面倒じゃないか」
「まぁ、それもそうですねぇ」
ナタリアさんとおばあさんは二人で相談しながら、どうやら奴隷くんと奴隷商の主人との契約を切る事にしたようだ。大丈夫なのかと尋ねると「これくらいでしたら、クラリスちゃんがやってくれますよ」と微笑まれた。
あれ? 主人契約解除はナタリアさんのような治癒魔法持ちじゃないと無理なんじゃ、と思っているとおばあさんが苦虫を噛み潰したような顔で苦々しげに「あたしがやれってかい……」と呟いていたので、認識は間違っていないようだ。
「補佐ですよ、補佐。昔はよくやったじゃないですか」
「普通、あたしが補佐する側だってのに、あんたが補佐する側じゃないかい! そもそも昔だって……」
「はいはい、お小言は後で聞いてあげますからねぇ。早めにしないと、彼も危なそうですし」
二人の関係も好奇心が刺激されるけれど、それよりも奴隷くんを助けるのが急務だ。恐ろしい事に、このままでは彼は助かる可能性が低いらしい。奴隷契約印を解除出来る訳ではないらしい。今変えられているのは、主人だけ。
奴隷くんの頬に手を当てる。
「……っ」
思わず手を引くほど、冷たかった。
まるで死人のような顔色と体温だけれど、でもまだ生きている。だけど、ナタリアさんが言っている通り、このままだと本当に彼は。
視界に入った手が震えている。落ち着け、と震える右手を抱きこんだ。
おばあさんだっているし、ナタリアさんだっている。私が出来るのは祈る事だけだ。
分かっているのに、考えることは辞められない。
どうしたら助けられるだろうか。私が出来る事は他にないだろうか。私は――――このまま何もしないで終わるのだろうか。
「―――終わりましたよ。さっすがクラリスちゃんですねぇ。相手も契約印が切れたことなんて気づいてないでしょうねぇ。相変わらずの器用っぷりですねぇ」
「世の中の誰もがあんたと比べたら器用だろうさ」
「クラリスちゃんは別格ですよ」
うふふ、と笑うナタリアさんは目の前に死にそうな人がいることなど全く気にしていないように見える。
けれど、それは本当にどうでもいいと思っているわけではなくて、黙っていると重くなりそうな空気を軽くするために業とゆったりした空気を作り出している気がする。
だから、私はナタリアさんに苛立つことはなかった。
そして、今。
二人が話しているのを聞いた時、ある考えが閃いた。
本当にいいのか、と問う。大丈夫だろうか、と自分に問う。不安に思う心がない訳ではない。けれど、それ以外に思いつかない。
私の考えを後押しするかのように、風が私の髪を揺らした。
「で、これからどうすんだい?」
「誰か主人になってくれる人さえ見つかれば―――」
だから、私はナタリアさんの言葉を引き取った。
「―――私がなります。私が、彼の主人になります」




