中等部1年 Dクラス チュベローズ・テリセン
固い床で目が覚めた時、最初に「あっ、お風呂に入るの忘れた……」と思ったのだったけれど、まあいいかと思う事にした。
日本のお風呂とは違い、こちらのお風呂は浄化魔法のかかった布で身体を拭くのみだ。
勿論、清潔性は保障されているのだけれど、気持ちがあまりゆったりしない。
いつか味わってみたいものだ。沢山のお湯に浸かる開放感というものを。
「今日、どうしようかしら」
ヒスイとの待ち合わせ場所へ歩き始めながら、考える。
カハール先生の剣幕を思い出すと、恐らく、というか絶対に今日は授業を休めという話が担任にいっているだろう。
だからといって、学園の外へ出ることも出来ない。休みではない日に学園の外へ出るには、許可証がいる。そして、カハール先生は私の外出許可を許してくれない。それが分かるくらいには、私はカハール先生にお世話になっている。
おばあさん達に私は元気です、と伝えたかったけれど、それはまた休みの日に持ち越そう。
「キュゥ!」
考え事に集中していたら、私を呼ぶ声がした。パッと顔をあげると、ヒスイがこちらへ首を擡げてこちらを見ている。
「ヒスイ!」
「キュキュウ」
返事をしてくれるヒスイに自然に笑みがこぼれる。ヒスイを見るとホッとした。
駆け寄って抱きつくと、擦り寄ってくれる。心の中に安堵が広がる。どうやら、思っていた以上に心が強張っていたようだ。
「ヒスイ、あのね。ヒスイ、昨日ね、き……のう―――……」
昨日、何があったのか。
ヒスイに報告しようとして、私は漸くそのことを思い出した。
「わたし……」
視線を彷徨わせる。するりとヒスイを抱きしめていた両手が下へ落ちる。
―――魔法を使った、らしいのよ
さっきまで寝起きの頭ではすっかり忘れていたその事実を口にしようとして、咽喉からその言葉が出なかった。
実感がない。
私は自分が魔法を使った所を覚えていない。気を失っていて、その間に、学園に帰ってきていて私はその事実を受け入れろと言われても無理な話だ。
何より、私が信じていない。
魔法を使った、ことを。
だから、言葉に出せない。
昨日は、おばあさんが居たから信じる事が出来たけれど、どうしてあんなに信じられる事が出来たのか。今では分からない。
「キュゥ……?」
「……ううん、何でもないわ。昨日、ちょっと疲れてしまったの。だから、ヒスイで癒して貰いたかっただけなの」
言葉にしたら、全てが夢で、おばあさんの店でお使いを頼まれる直前に蒔き戻ってしまいそうな不安定な感覚が襲ってきて、私はヒスイに言う事を止めた。
ヒスイは納得していなさそうだったけれど、それ以上何か追求してくる事はなかった。もし魔法が使えるのだという確信が持てたのなら。
(ヒスイに一番に教えるから)
私はヒスイの上に乗りながら、ごめんなさい、とその背を撫でた。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
カハール先生から『激しい運動禁止令』が出されているからと、今日は体操と走るだけでヒスイとお別れした。走るのも距離を少なくして、忠実に命令に従った。
寮の部屋へ戻った私は、じっと机を見つめる。実際見ているのは机ではない。その引き出しに入っている―――その中身を見ていた。
そろり、と誰が聞くこともないのに忍び足で近づき、音を立てないように引き出しを開ける。
そこに並べた、二つの本。
―――〈学びの書〉と〈魔張〉
そっと〈魔張〉を手にする。
中身の分からない宝箱を開けるかのように、私は必要以上に慎重に表紙を捲った。そして、書かれている文字を再び読む。
『そこに触れて魔力を流してください』
魔力、の部分を指でなぞる。
昨日、私が魔法を使ったのであるのなら。
私は魔力を使えるはずだ。
体内にある魔力を放出し、具現化するのが魔法なのだから、きちんと魔法として機能していたというのなら。
私は魔法を使えるはずなのだ。
ごくり、と咽喉が鳴る。
誰もいない部屋で、思っていた以上に大きく私の耳に届いた。
さわさわと森の梢の音が聞こえ、何処か遠くで鳥の鳴き声がする。
―――私は、使えるかもしれない。この、教科書を
その事実に身体が震える。
ポタリ、と〈魔張〉に一滴、ちいさな水溜りが出来た。
すぐに、幾つかの水溜りが出来上がる。
慌てて、その水溜りを袖で拭き、そのまま目元を拭う。最近、泣きすぎだ。泣き癖でもついているのかもしれない。
滲む視界のまま、ページを開く。そして右手を白紙へと置いて瞼を閉じた。
身体の中に集中し、魔力を探す。
「……」
どこかにあるはずの魔力を探す。
「……」
ある、はずの魔力を……探す。
「……」
さが、す。
「……」
さが
「せないじゃない!」
私は涙声で叫んだ。
何も感じない。
魔力なんて分からない。今までと変わらない。
昨日のあの時、私はただ助けたい一心で必死だったからどうやって使ったのか分からない。ただ、私は「助けないと」という思いであの場にいた。それしか覚えていない。
がっくりと肩を落とす。
やっぱり私は夢を見ているのかしら。そういうこと、ありそう。
己の能力の低さに絶望しかけて、首を横に振った。
「だ、駄目よ。私頑張るって決めたのよ。それにおばあさんが使えたって言ってくれたのだし、それから、魔力切れだっておこしたのよ。大丈夫、出来る、出来るわ」
出来る、とただ繰り返す。やるんだ、と自分を鼓舞する。
更に涙が溢れてくるけれど、情けなさが頭の中を占領しているけれど、私はもう一度、挑戦した。
深呼吸をして、体の力を抜く。
―――魔力を使いたい
身体の中に集中する。
どこかにあるはずだ。
使えたと言っていたのだから、そして何より、私にも魔力があるのは昔から知っていたのだから、絶対に。
数秒経ち、やっぱり無理だったのかと思いかけた頃、妙な心地がして、眼を閉じたまま視線を彷徨わせた。
周りの空気が揺らぎ、不安に思ったと同時に、私の身体の内側から温かい何かが噴出した———錯覚。
「あ……」
パチ、と目を開いた。
―――あった
前世でいう丹田と呼ばれる場所に温かい塊が存在している。
温かい、人肌の温度で不快なものを感じさせない。
見えないけれど、色で現すのなら虹色だろうか。
とくり、とくりと音がしそうだ。その温かい塊に集中させてみると、身体の隅々まで巡っているのが分かった。間違いない、絶対に、これが。
「まりょく」
そう口にした瞬間、ふ、と感じていた温かさも消えてしまった。
慌てて、もう一度探ろうとすると、今度は集中する必要もなく、難なく探り当てる事が出来た。どうしてだろうか、と考えて、おばあさんの言っていたことを思い出す。私は今理解した。
―――自転車に、私は、乗れたのだ。
私は、もう二度と。この温かさを探れなくなるような事態には陥らない。
ずっとおばあさんに指導を受けていたから、体内で循環している魔力を意識して追ってみてもその循環を乱すような真似をすることはなかった。
もし、綺麗に循環している魔力を乱してしまうと、私の身体に何が起きるのか分からないと言われている。
「―――ッ」
感動に胸が震え、全身にその震えが伝わった。
〈魔張〉を持っていられなくて、取り落とす。
立っていられなくて、座り込み、両手で顔を覆った。身体全身が熱い。マグマでも煮えたぎっているように私の身体が熱く、特に頭が沸騰してしまったのかと思う。
涙で前なんて見えない。
今なら死んだっていい、とさえ思った。雷様が落ちてきて私を感電死させたって構わない。
「……ッ、……ェッ」
咽喉が詰まってえづく。
鼻を啜るティッシュだってないからさっきから鼻を啜りっぱなしだ。
嗚咽を漏らしながら、私はその激情に身を任せた。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
真っ赤に腫れているだろう目は鏡がないから実際の所は分からない。
泣いた後に襲う疲労感はあるものの、魔力を使えるようになった高揚感の前には塵に等しい。
さっきはその感動の渦に巻き込まれていた私だったけれど、ある程度落ち着いて取り落とした〈魔張〉を拾って、そこに文字が現れているのに気づいた。
〈学びの書〉でもタッチすれば新たな文字が現れたのだから、予想できた事だ。
『筆記用具が現れたと思います。それは貴方専用の筆記用具です』
「……筆記用具?」
書かれている内容に対して疑問に思うのもつかの間、足元に何か触れていた。
見ると、何時の間に現れたのか、色とりどりの草花がデザインされた可愛らしいペンが爪先に転がっている。
拾い上げて、まじまじと見る。前世に存在するボールペンにしか見えない。
こちらにも同じ様な筆記用具があるとは知らなかった。お父様達は羽ペンしか使っていなかった気がするけれど、私の記憶違いだったようだ。
『その筆記用具は世界でたった一つ。貴方だけの、貴方の理想を凝縮した筆記用具です。試しに文字を書いてみましょう』
〈魔張〉に続いて出ていた内容は理解できなかった。私の理想を凝縮した私だけの筆記用具って、どういう意味だろうか。
いくら考えても分からないので、とりあえず言われたとおりボールペンを持ち、〈魔張〉の空きスペースに文字を書いてみる。
何を書こうか迷って、結局、よくある試し書きのくるくるくると円を連ねてみた。
書きやすい。しかも、私好みの太さと固さと濃さ。
(すごいわぁ……この世界って)
つくづく、感心する。
ガラスもこの建物も。本当に凄い。カードキーもある世の中、ボールペンがあっても別に不思議ではない。
『貴方好みの筆記用具だったでしょう。その筆記用具を使い、勉強に役立ててください。筆記用具は貴方の魔力で出来ています。必要がない場合、貴方の魔力供給を止めれば消え去ります』
「ええ?」
手の中のボールペンを見つめる。
これは私の魔力で出来ている、という説明は数秒遅れて理解したものの、手に持つ感触も書き味もきちんと具現化している物体だ。魔力という不可視のもので作られたとは思えない。
「……あ、でも。魔法もそう、よね」
昨日の〈火壁〉だってそうだ。
魔力という不可視のもので、熱く火傷を負うような現象を起せるのだから、物体を作り上げることも出来るのかもしれない。
現に、私は今出来ているのだから受け入れないのも可笑しな話だ。
(そういう物って、今は納得しておこう)
いつか、どういう仕組みなのか、理解できたらいいと思う。
身体の中の魔力に集中すれば、先程と同じ様に温かい魔力を感じる。
人肌のようでいて日光のような温かさ。
共通するのは、どちらも心の緊張を解く効果がある。ずっと浸っていたい幸せになる温かさだ。
丹田に存在するその温もりに意識を集中すれば、自然と身体全体に巡る魔力も追う事になる。手足の隅々まで行き渡るようにすると、本当にその温もりに身体全体が浸る事になって心が幸せになる。―――と。
「あ、これ」
ボールペンに私の魔力が繋がっているのが分かる。その繋がりをプチン、と鋏で切るように絶つ。
刹那、手の中にあったボールペンは空中に溶けるように消え去った。
書いてある通りだ。様々な意味で言葉が出ないほど感動している。
『自分だけの〈魔張〉を作成し、日々の学生生活に活用してください』
その言葉と共に、殆どの説明は終わっているようだった。
他に細々したことは書かれていたけれど、それほど大切な説明はなさそうだ。
ぱたん、と閉じた〈魔張〉の表紙はボールペンと同じ様に様々な色とりどりの花々が咲き誇り、清純な乙女しか使えないような色合いになっていた。
若干、それを己が使うのかと引いた時、何時の間にか表紙の右下に『中等部1年 Dクラス チュベローズ・テリセン』とあるのを発見する。
その文字を見て、私は漸くこの学園の生徒となり得た実感がしたのだった―――
よ、よかっ……。・゜・(*/□\*)・゜・。




