【最終話】
ゼブロン殿下の婚約破棄に始まった一連の騒動から、二年と数か月が過ぎた。
殿下とシャーリーの婚約は、フォークナー公爵家の希望によって『婚約破棄』ではなく『白紙』になった。
ゼブロン殿下は、王族としてすべての権利を放棄させられた。
陛下から王国最北端であるノースダストの領地を与えられ、そこを治めている。
厳しい寒冷地であり、隣国とは緊張感がある付き合いが続く土地でゼブロンは文字通り地を這うように、だが意外なことにまっとうに暮らしていた。
そこにフレデリカの姿はない。
フレデリカは心を病み、他害を加える者が収容される西の施設に送られた。
鉄格子のある部屋で自分を王妃だと言い、日に二回食事と水を届ける者に『陛下の渡りはいつなのか』と毎日尋ねている。
その食事も、体型を保つためだと言っていつも少し残した。
鏡など割れる恐れのあるものが何も無い部屋でこの二年と数か月の間、身体を拭くことを拒否し、口を漱ぐことも拒んでいた。身体と歯の衰えが著しく、近寄ると饐えた臭いがした。
もうそう長くはないと言われている。
公爵令嬢であるシャーリーには、一年を過ぎた頃から婚約の打診がいくつもきたが、フォークナー公爵はすべて断り続けていた。
シャーリーにまったく結婚の意志がなく、フォークナー公爵もゼブロン殿下との件からシャーリーに何かを強制することは諦めたのだった。
シャーリーは、王都からかなり離れている飛び地の小さな領地に最低限の使用人と共に暮らしている。
その小さな館はシャーリーが住む前は、フォークナー公爵家からの視察の者たちが定期的に訪れる際に使われるだけだった。
その館に常時灯りが点くようになって、領民たちは時々陳情に訪れる。
シャーリーは淡々と公爵家の仕事をこなしていた。
領民以外の客がやってくることがほぼ無いその館に、ある日一台の馬車が停まった。
降りてきたのはエディ・スコット伯爵令息だった。
前庭で花を切り出している洗いざらしのメイド服姿の侍女に、馬を繋ぐ場所に案内して欲しくて声を掛けると、互いに驚きの声を上げた。
「……シャーリー嬢……ですか……?」
「エディ・スコット様…!」
二年数か月ぶりの再会だった。
***
質はいいが古い調度品でまとめられた応接室にエディを通すと、シャーリーは手慣れた感じでお茶を出し、少しお待ちくださいと言って部屋を出て行った。
表に出て馭者に馬停めの案内をして、従者用の控室に通した。
──エディ・スコット様がこんなところに何をしにきたのかしら……。
シャーリーにはエディの訪問の意味が分からなかった。
とりあえずメイド服でエディの前のソファに座るわけにもいかず、ワンピースに着替える。
人の手を借りなければならない背中で留めるタイプのドレスは、ここに来てからほとんど着ることがない。
ここへ来る時に持ってきたドレスは、あの日にエディが急遽買ってきてくれた若草色のあのドレス一枚だけだ。
ドレスが必要になることはほとんどなくて、ここに来てから一度しか着ていない。
いつもは汚れても目立たず、いくらでも替えのあるメイド服が一番便利だからそれを着ていた。
髪を結い直す時間はないのでそのままに、おしろいを軽くはたいて薬指で淡い色の紅を載せた。
鏡を見ながら、ここへ来てからこんなふうに身支度を整えることが久しぶりだったと気づく。
何のために自分が紅を載せたのか、シャーリーはそれに気づかないふりをした。
午後に食べるつもりで朝に焼いた野菜のパイの端をきれいに切り整える。
かぼちゃも入っているから少しはお菓子っぽくなるかしら。
ここには急な来客に出せる焼き菓子などはない。そんな必要があったこともないのだ。
その皿を持って応接室に戻った。
「お待たせして申し訳ありません。お客様のために作られたものではないのでお恥ずかしいのですが、よろしければどうぞ」
「すみません、先にいただいていいですか。ここまでどこにも寄らずにきたので空腹でして」
「もちろんどうぞ」
エディがパイにフォークを入れるのを見てから、シャーリーはいったん部屋を出る。
馬車の馭者にもポットにたっぷりのお茶とパイを出した。
使用人がほとんどおらず、昼のこの時間は出払っていてすべてをシャーリーがやるしかない。
シャーリーは応接室に戻ると、パイを気持ちのいい速さで食べていくエディを不思議な気持ちで見つめる。
皿がきれいになったときに声を掛けた。
「遠路はるばる、このようなところに今日はどんなご用事でしょうか」
「回りくどい言い方は得意ではないので、単刀直入に申し上げます。
私はあなたに求婚するために参りました。
もっと早く来たかったのですが、『地ならし』をするのに思ったより時間がかかってしまいまして」
「……求婚、ですか?」
「はい。私と結婚していただけませんか」
しばらくぽかんとエディを見ていたシャーリーは、両手で口元を覆って笑った。
「そんな、一曲踊ってくださいみたいな軽さでおっしゃるなんて」
「人生なんて一曲踊るようなものですよ。僕にとってその相手はあなたしかいないのです。あれからずっとあなたのことだけを考えていました」
シャーリーは、もったいぶってたいして考えていないことを口にする人間より、しっかりと考え抜いたことを軽い感じに言う人間のほうに信を置けると思っている。
人生なんて一曲踊るようなものだとさらりと言ったエディは、両手の拳に白く骨が浮いて見えるほど強く握りしめていた。
その拳の中には、この二年以上、あれこれ奔走して整えた『未来』が握られているのだろう。
「あの日もそんな感じで一曲踊ってくださいと言われました。……わたくしは、どうしたってその手を取るようになっているのかもしれません」
「この手を、あなたは……取ってくれるのですか」
「……はい」
エディはずるずるとソファに沈み込み、握りしめていた拳を解いて自分の目を覆った。
笑っているのか泣いているのか分からない顔がその手で半分隠れている。
「……断られた時に何と言ってここを辞するかを考えながら来たのですが、お受けいただけた時のことは考えていなかったもので……。地ならしは、あくまでもあなたに姿を見せることができる最低限のことのつもりで……」
シャーリーは立ち上がって向かいのソファの、エディの隣に腰を下ろした。
驚いてたじろぎながら座り直したエディの肩に寄りかかる。
それをはしたないと咎める者も誰もおらず、懐かしく心地よい微かな香りがした。
シャーリーは目を閉じて、この香りの記憶を追いかけた。
卒業パーティでエディに手を取られダンスを踊った時。
これでもかと高級な香水をまとっている女性たちの中なのに、ふわっとこの香りがした。
誰も味方がいなかった空間で、その香りだけがシャーリーを守ってくれた気がした。
ドレスを脱ぎ捨て王宮から去ろうとした時、背中からフロックコートが掛けられた。
そのコートからの香りに包まれ守られた。
そして、馬で送ってもらった時。
まるで胸に抱き取られているように密着したその隙間からもこの香りがして、シャーリーは二度ならず三度も同じ香りに守られ、これは運命なのではと思えた。
ただ、自分の運命の相手が自分を見つめてくれるとは限らない。
婚約者でさえ、一度もシャーリーを見てくれたことはなかった。
かつて婚約者と一緒に自分を見下げたエディが自分の運命の相手だとしたら、それは笑えない喜劇の延長線上にある。
シャーリーはその時すべてを諦めた。
ゼブロンから婚約破棄を宣言された時よりも、エディを諦めた時のほうが胸が痛んだ。
誰とも寄り添わず、ひっそりと公爵家に生まれた責務を果たしていこうと思っていた。
王都を離れ、この小さな領地に来てシャーリーは日々を恙なく送っていることに満足していた。
厳しいお妃教育も、自分を蔑ろにする婚約者を気にすることも、その立場に追いやられている現状と家を背負った自分が人にどう見られているのかを考えることも、何もかもから解放されて穏やかに暮らしていたのだ、ここにエディ・スコット伯爵令息が現れるまでは。
エディの結婚の申し込みを受けたらどうなるのだろうと、考える必要はなかった。
公爵家の娘のシャーリーと伯爵家嫡男のエディが共に歩めるように、エディが整えてきたと言ったのだ。シャーリーの父の了承も得ているのだろう。
こうして誰かに自分の心が寄りかかるのはどれくらいぶりだろうと、シャーリーは温かい涙を落とした。
エディはそれに気づくと硬い指先でその涙を拭う。
「あの日あんなことがあったのに一度も泣かなかったあなたが、僕に今涙を見せたことが嬉しいなんて言ったら怒りますか」
「……いえ、わたくしもエディ様の前で泣けたことが嬉しいのです。婚約者に粗末に扱われるようになってから、感情が死んでいましたので……」
「もう一度言います。どうか僕と結婚してください。
僕はもう間違えない、あなたが泣いたり笑ったりできる毎日を守り続けると約束します」
「はい。エディ様もどうか、一緒に泣いたり笑ったりしてください」
エディはシャーリーを抱きしめた。
好きだと言う前に結婚を申し込んでしまったと今更気づき、エディはシャーリーを抱きしめながら、何度も好きだと囁いた。
シャーリーはエディの香りに包まれながら、その声を、欲しかった言葉を、ずっと聴いていた。
おわり
お読みくださりありがとうございました!
驚くほどたくさん感想をいただき、嬉しくありがたく思っています!
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お時間を割いてくださった皆様に感謝の気持ちでいっぱいです、ありがとうございました!




