彼が、ご令嬢を守る理由
ティアが目を覚ますと、もう日は高く登っていた。慌てて身支度をして食堂に向かった。天井の高い白亜の明るい回廊を歩いていると談笑する声が聞こえてきた。客が来ているようだ。
ティアが食堂を覗いてみると、客は金髪の魔導士サフィラスだった。理知的な光をたたえる緑の瞳が優しげだ。
「ティア、久しぶりです」
サフィラスが立ち上がる。今日はいつものローブ姿ではなく、簡素なトラウザーズに白いシャツを身に着けている。ティアが初めて見る服装だ。
「サフィラス先生!お久しぶりです。どうしたんですか。こちらには何か用事で?」
ティアは駆け寄った。再会できたのが嬉しかった。メラニア修道院を出たのがずいぶん昔のことのように感じられた。
「イザーク様に呼ばれたんですよ。あなたの旅に同行することになりました」
ティアはびっくりした。ペトラルカ村で出していたお店はどうするのだろう。
「先生、お店の方はどうなさったんですか?」
「しばらく休業です。大丈夫ですよ。心配しないください。時々修道院の人たちが見てくれるそうですから」
と言って、彼はにっこりと笑った。
「さあ、ティア嬢、食事が終わったら、旅の準備をしてくださいね。昼過ぎには出立しますよ」
ヴォルフに言われ慌てて準備を始めた。
思えば侯爵令嬢の頃は旅といえば、王都から領地に戻るくらいだった。準備はすべて侍女任せで、豪華な馬車に揺られているだけだった。それが今では自力でカバンに荷物を詰めている。
すごい境遇の変化だ。このまま、いろいろ出来るようになれば自活も夢ではないと思い、嬉しくなった。
いよいよサンローラの街も見納めだ。きらきらと輝く海も、大好きな美しい街並みもこの峠を越えれば見納めだ。
若干、教会の辺りが焦げているのが、痛々しい。メアリーは今ごろペトラルカの村についているだろう。穏やかな日常に戻っているところだ。ティアも帰りたいと思った。
修道院の静かで厳かで楽しかった日々。だから、聞かずにはいられなかった。
「ヴォルフ様、私はメラニア修道院に戻れるでしょうか?」
「戻れる?」
ヴォルフがハシバミ色の瞳をしばたたかせる。
「驚いたな。ティア嬢は修道院の生活が気に入っていたのか?若いお嬢さんなのに」
「ああ、そうだよ。あそこにいたとき、彼女は実に生き生きしていたよ」
驚いているヴォルフにサフィラスがクスクス笑いながら答える。
サフィラスとヴォルフは友人らしく、随分と親しい口を利いている。
「退屈ではないですか?」
その言葉に今度はティアが驚いた。
「毎日が発見でした!」
キラキラと目を輝かせるティアを見て、ヴォルフがサフィラスに囁く。
「変わっているよな?」
「ええ、少しばかり。ただ、魔導に関してはかなり優秀ですよ」
「なるほど。実は、昨晩、イザーク様についてリモージュヘ行くと駄々をこねたんだよ。自分は役に立てるといって」
「おやおや、珍しいですね。駄々をこねるなんて。彼女なら、十分お役に立てたと思いますよ」
と言いながら二人は笑いあった。
ティアは必死に歩いていた。だいぶ徒歩の旅には慣れてきた。二人にこれ以上迷惑はかけられない。ヴォルフもサフィラスもティアの体を心配して休憩を提案したが、彼女は頑張って歩いた。それでなくても二人は彼女のためにペースダウンしてくれていたからだ。
何とか日没前にテーベの町に着いた時、ティアはくたくただった。
町に入った三人は鄙びた雰囲気の宿をとった。ティアは二階の一人部屋で荷物をとき、軽くお湯で体をふいて汗を流してから、一階の食堂に降りていった。
二人はもう席についていた。ティアは遅くなったことを詫びたが、彼らは「それほど待っていない」、「今、来たばかり」などといってティアに気を使わせない。なぜかイザークの部下というか友人たちは皆紳士のようだ。いままで男性からそういう扱いを受けてこなかったのでティアは照れてしまう。
ヴォルフは一度、彼女が王宮にいた頃に言葉を交わしたことがある。そのことをメニューから料理を選び終えた彼女に聞いてみると
「覚えていませんわ」
とやわらかい口調で申し訳なさそうに言う。彼女にとっては些事らしい。銀糸の美しい髪は人目を避けるように、今はフードの中に隠れている。印象的なアメジストの瞳もフードの中をのぞき込まなくては見ることができない。
彼女との出会いはヴォルフにとって忘れられない出来事だ。
王宮で何度かティアを見かけたことがある。その頃は今よりずっと大人びていて、表情がなく「人形」と呼ばれていた。
彼女はその整った美しさから、気位が高そうに見える。
しかし、素の彼女は、とても好奇心が強く素直だ。イザークにときどき、面と向かって「馬鹿」呼ばわりされても、それに腹を立てるわけでもなく、しょんぼりとしたり、反省したりと至って穏やかな反応を示す。
また、貴族令嬢として何不自由なく育ったのにもかかわらず、不自由な修道院生活も彼女なりに楽しんでいたようだ。旅でも体力的にきついと思われる場面でも泣きごと一つ言わない。
彼女の性格を知るにつけ、王宮での生活は彼女をどれほど傷つけたのだろうと憤りすら覚える。
2年ほど前に視察と称して、第二王子カーライルが婚約者である彼女と従者を引き連れて騎士の修練場に来たことがある。野心家の上層部は大喜びだが、他の者はたまったものではない。鍛錬は厳しいもので集中できなければ大けがにつながる。
カーライルは取り巻きに囲まれ騎士団長と話し込んでいた。一方、ティアはひとり、壁のそばで邪魔にならぬようにぽつんと立っていた。
その時、事故は起こった。ヴォルフの部下の新人下級騎士が鍛錬中、わき腹に大けがを負ってしまった。魔法医を呼びに行かせたが、血が止まらない。
騒ぎに気付いているはずの団長は視察団に気を使い知らん顔を決め込んだ。カーライルにいたっては騒がしいというように、ちらりとさめた目をよこしただけだった。
ヴォルフも魔法は多少使えるが、大きなけがの前ではなすすべもなかった。高位の回復魔法は資質があり、なおかつ魔導を学んだものにしか使えない。
血を少しでも止めようと傷口を抑えていると、驚いたことにティアがドレスの裾を翻し、駆け寄ってきた。一目で高価なものとわかる彼女のドレスは白地に銀糸の繊細な刺繍があり、彼女の清廉な美しさを引き立てていた。
ティアは血だまりの中に躊躇せず膝をついた。ドレスが血で汚れるのも厭わずにしゃがみ込むと、小さく呪文を詠唱した。レースのグローブを外し、患部に手をかざすと回復魔法を発動させた。みるみる血が止まっていく。
彼女の美しさも相まって、まるで奇蹟のようだった。王宮ではその整った冷たい容姿から氷の令嬢と言われていたティアが、とても慈悲深く神々しく見えた。
目の前でスープをスプーンで口に運ぶ彼女に、部下の怪我を救ってもらった礼を言う。
「ああ、ヴォルフ様はあの時の騎士様でしたか。けがをされた方はあの後どうされましたか?」
と心配顔で聞いていきた。
「やつなら、今は復帰して元気にやっていますよ」
「よかったです」
ティアの心底ほっとした様子で言った。
今、彼女は食事をとりながら、サフィラスが話す修道院の近況を楽しそうに聞いている。
ヴォルフは、その後の王宮での彼女の処遇に胸が痛んだ。王族の妻となるものが膝をついて騎士見習いを助けるなど言語道断だと問題になり、糾弾されたのだ。ティアはカーライルから貰った高価なドレスを駄目にしてしまった。そのことでも、かなりお叱りを受けたと聞く。当時、彼女の行動のどこに非があるのかと怒りを覚えた。
その後、この話は尾を引く。最悪なことに、この件を王宮仕えの貴族たちが噂を捻じ曲げて広めた。そのため、彼女の国外追放の材料の一つとなってしまった。
彼女の善意から出た行動が、政治的に利用された結果だった。王族、貴族の熾烈な権力闘争の割を食った形となり、家からも家名を汚したと見捨てられる結果となった。
しかし、一部の騎士の間ではティアは聖女様と呼ばれ、慕われている。救われた騎士以下、未だに熱狂的な信者達がいる。声は大きくはないが孤立無援ではないのだ。
そのほか、植物に興味があって、よく言葉を交わした王宮の庭師にもティアのファンは多い。彼らの妻や子供が病気になったと聞くと、彼女はポーションをあたえた。ポーションは彼女が侯爵家から持ってきた宝飾品と交換で手に入れたものだった。
それにも関わらず、王宮では話を捻じ曲げられ、彼女はポーションの不正入手でも断罪されることとなった。なお手に入れたポーションは美容のために消費したとされた。
イザークはティアに助けられた人々の声を丹念に拾った。そして彼らをひとつにまとめた。ティアが暴漢に襲われることなく隣国へ無事脱出できたのは彼らの手助けがあってのことだった。彼女はまだ、そのことを知らない。
そして、彼女は自分が思うより多くの敵に狙われていることも知らない。
彼女のようなものが上に立つならば、祖国にも希望が持てると思う半面、その相手がカーライルとなると残念でしかない。なによりもティアはカルディアの王族に嫁ぐには清廉すぎた。
国外追放されたうえ、失恋の痛手に苦しんでいる彼女には気の毒だが、この婚約が破談になってよかったと思っている。
もとよりヴォルフはイザークを自分の主と決めていたし、ティアにも大切な部下の命を救ってもらったという恩がある。彼女を守ることは吝かではなかった。
今、目の前で一緒に食事をとっている少女は、耳に心地良い柔らかで楽しそうな声で話す。王宮で「人形」と呼ばれていた頃よりも、この不安定な逃亡生活の方が遥かに幸せそうに見えた。




