失敗は出会いのもと
大きな鐘の音が浄霊院家の正午を告げると同時に、風牙は畳の上にダイブした。
「づ、が、れ‟、だ……」
顔を座布団に埋め、そのまま動かなくなった風牙を見た影斗は、バケツと雑巾を持って水道へ向かう。
(はあ……おれも疲れちまった)
雑巾を絞り、水道の横にある竿に干す。これで午前の仕事は終了である。
いつもは一人で仕事をしているのだ。単純に考えれば仕事量が減るはずなのだが。
(あんな絵に描いたようなこと普通起こるか)
思い出せば、風牙に心底同情するしかない。
トシミに味噌汁をぶっかけた風牙の運命は残酷なものだった。
朝ご飯抜きを宣言され、その上罰として、屋敷のフローリングすべての雑巾がけを命じられた。もちろん、完璧な仕事を求められる。汚れの1つも許されない。
気を使い、疲れ果て、エネルギーが切れるのも当然だ。
そんなことを考えていると、影斗の腹の虫が鳴る。
影斗の昼食は用意されていないため、自分の部屋で済ませるのが日課だった。
冷蔵庫に何かなかったか考える。そういえば、一昨日作った海老天入りの爆弾おにぎりがあった。
(しゃーねーな。あいつ頑張ったし、天むすでもやるか)
影斗は石鹸で手を洗うと、そのまま屋敷の近くにある離れに向かう。
山の斜面に、小さな家がぽつぽつと建っている。使用人たちの居住スペースは、基本的には厳夜が本人に決めさせている。家の中で住みたいなら、家の中で住んでもいい。しかし、影斗は離れに住むことを選んだ。
影斗の住んでいる部屋は、家というよりただのプレハブ小屋に近い。
ボロボロの扉を開け、中に入る。部屋の中にはあまり物がない。敷きっぱなしの布団、服が入った収納ボックス、それに小さなキッチンがあるだけだ。
影斗は小さな冷蔵庫を開け、天むすを取り出す。
(お、これも持って行こ)
二日前に作り、タッパーに詰めていたレバニラ炒めが残っていた。
レンジで適当に温め、箸とそれらを持ち、再び風牙がいる屋敷の一室へ向かう。
風牙は、数分前に見た姿と全く変わっていなかった。
「……ほら、これでも食え。味の保証はしねーけど」
タッパーを開くと、美味しそうな匂いが漂う。
くんくん。
風牙の鼻がひくひく動く。
勢いよく起きると、目を輝かせて影斗を見る。
「復活はや」
「食う!!」
風牙は、勢いよく巨大なおにぎりにがっつく。見ているだけで幸せそうである。
「エビは高いから貴重なんだぞ! ゆっくり食べろ」
「うんめー!! このニラ入ったやつ、めっちゃうめー」
風牙はあっという間に食べてしまった。あわよくば一緒に食べよう、と考えていた影斗の当てが外れる。
「お前、料理上手いな!! シェフみたいだ」
「て、適当に余った食材で作っただけだ」
歯を見せて無邪気に笑う風牙を見ていると、なんだか調子が狂ってくる。
風牙は良くも悪くも正直というか、何というか―――感情がすぐ、顔や態度に出る。最初に会った時の印象より、ずいぶんバカだ。バカなのだが――――――。
今までの人生で、こんなに安心できる人間と話したことはないかもしれない。
「そうか! ありがとな!!」
風牙に礼を言われた影斗は、自分が赤面していることに気づく。
顔を伏せ、咳払いし、平静を装う。
――――――やはり、このバカといると調子が狂う。
「……おれが作ったやつより、食堂の専属調理師が作ったやつの方がうまいから」
影斗は、ぼそりとつぶやいた。空になったタッパーとラップのゴミをひったくり、部屋を出る。
空になったタッパーは、レバニラ炒めのタレが残り、茶ばんでいた。
「なに勘違いしてんだ、おれ」
今日の自分は、少しおかしいのだ。主人に頼りにされ、世話をしているやつに褒められ、舞い上がっている。
――――――おれには、そんな資格はない。おれは、どこまで行っても落ちこぼれたシミだ。このタレみたいに。
フッ、と自嘲した影斗は、丸めたラップをゴミ箱に投げ捨てた。
* * * * *
時刻は一時を回る。風牙は孤独だった。
縁側に座って、気持ちのいい太陽の光を浴びている。
「いたたた……」
厳夜からもらった仕事リストには、午後からのスケジュールも書いてあった。しかし、午前の無理が祟ったらしく、足に痛みが生じ始める。痛がっている様子を影斗に見られ、絶対安静を言い渡されてしまう。残りはすべてやっておくと告げ、消えた影斗を見送り、こうして縁側に座っていることすでに一時間。
――――――うつらうつらと目の前がぼやけてくるので、自らの頬を叩いた。
(くそー。このままじゃ、屋敷調べるどころじゃねえ……)
――――――浄霊院紅夜の手がかりを探す。
この一週間、風牙はうずうずしていた。ようやく調べられると気合を入れていた矢先。再発しては、動き回って探すどころではない。
(失敗した時は、ハンセイだな。ハンセイハンセイ!)
風牙は、腕を組んで失敗を顧みる。
風牙の脳裏に浮かんだのは、小さい鬼のような、オバハン。
仕方がなかったとはいえ、トシミに目を付けられたことがかなりの痛手だ。
「くそーあの小さいオバハン!! ぜってー俺のこと認めさせてやるからな!!」
森に向かって宣言したはいいが、現状どうすることもできない。そもそも、どうやって認めさせるのか。風牙は、面倒になって考えるのを止める。
再び、強い眠気に襲われる。もういっそのことこのまま寝てしまうのもいいかもしれない。
(ねるこはなおる、だったけ。ことわざ。忘れた。まあいっか……)
そのまま瞼を落とし、寝ようとした。その時だった。
――――――誰か、私を助けて。
「えっ!?」
風牙は、勢いよく立ち上がる。
ふわりと風に揺れる、藍色の着物の袖――――――風牙の目に、少女が映る。
少女はまるで蝶のように、木々の間をするりと消える。
風牙は、幻を見たのかと自分を疑った。
目をこすり、何度も瞬きをした。しかし、視力はいたって正常である。
だが、風牙は確信していた。
――――――震えていた。今にも泣きそうだった。とても、悲しげだった。
風牙は勢いよく立ち上がる。足が痛んだが、気にせず森の方へ駆けていく。
過去の煤けたトラウマが蘇る。助けを求めているのならば、放っておくことなどできない。
足を庇いながら、木々をかき分け進む。
「おーい!!!」
風牙は叫んでみた。しかし返事はなく、冬の閑散とした森が広がっているだけだ。
風牙は、どんどん森の奥へ進んでいく。
葉の落ちた、一本の太い木の根を跨いだ。
ぴり、と何かが顔に当たる。
静電気かと思い、顔をぶんぶん振ってみる。何も起こらない。
(なんだ今の)
風牙が首を傾げると、視界の先が揺らぐ。
森が突如開き、目の前に大きな塀が現れた。
高くそびえ立つ白亜の壁―――見た目は、どこにでもある普通の石壁である。
(なんだこれ)
風牙は、塀に沿って歩いてみる。二十歩ほど歩くと、塀の角に達する。
そのまま塀に沿って進む。一周したところで、入り口が無いことに気づく。どうやっても中には入れそうにない。
「おーい!!!!! 誰かいねーのかー?」
風牙は塀に沿って歩きながら、壁に向かって語りかける。
先ほど見た着物の少女が、風牙の脳裏に蘇る。声も確かに聞いた。
根拠はなかったが、この壁の向こうにいる気がする。
しかし、何度呼んでも反応はなかった。
叫び疲れた風牙は、塀の前に胡坐をかいて座る。これからどうしたものか。
「でてこいよー。いるんだろ? さっき、俺に助けを呼んだじゃねーか」
風牙は、耳を澄ます。静寂が場を支配し、風の音一つ聞こえなかった。
何かが変だ。ここは、普通じゃない。
風牙は壁を乗り越えようと決意する。痛む足に喝を入れ、立ち上がる。
足を傀朧で強化する。助走をつけ、腕をぶんぶん回し、気合は十分だ。
今にも走り出そうと、足で地面を蹴る。
「……誰かいるの?」
その時、壁の向こうからか細い声が聞こえてきた。
次回はようやくヒロイン(?)の登場です!




