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「……ぅ」


 心地いい夜の風が、咲夜の顔を撫でる。ゆっくりと目を開けた咲夜の目に、淡い光が差し込む。ベッドの傍の窓辺では、月明かりに照らされたレースカーテンがふわふわと揺らめいていた。その隣、窓辺に備え付けられている机に、風牙が突っ伏して寝ている。


 寝ている間、風牙が傍にいてくれたのだ――――――咲夜は思わず微笑んだ。

 頭が重い。随分と怖い夢を見ていた気がする。久しぶりに母と会って、たくさん泣いて、疲れてしまったのだろうか。壁にかかった時計は二十時を過ぎていた。


「……なんだろう」


 咲夜の枕元に、五つの花弁の青い花が置かれていた。その下に、綺麗な字でメモ書きが添えられている。


『親愛なる咲夜様へ。心中お察しいたします。どうか、ご自愛ください』


 達筆な字でそう書かれたメモ書きを見て、咲夜は首を傾げる。


「誰の字……?」


 その時、風牙が目を覚ます。


「あれ……さくや?」

「風牙さん……!」


 二人は目を合わせると、自然と笑いあった。風牙は咲夜の傍まで来て、フカフカのベッドに勢いよく座る。その衝撃で、咲夜の体が揺れる。


「ありがとな、その……俺が寝てた間ずっと傍にいてくれたんだろ? だからそのお返し」

「ありがとう……」


 風牙は咲夜に向かって頭を下げる。


「ごめん。俺……みんなを守れなかった」

「ううん。風牙さんのせいじゃないよ。それに、風牙さんのおかげで、私は今生きてる」


 咲夜は風牙の手をそっと握る。ぬくもりを感じた風牙は、その表情をわずかに曇らせた。


「……仕方がなかったって」

「えっ」

「俺の故郷が燃えた時、たくさんの人が死んだ時、みんな、俺に助けを求めたんだ。手を伸ばしてきた。でも誰一人救えなかった。それなのにさ、みんな口をそろえて言ったんだ。仕方がなかったんだって。お前のせいじゃないって」


 風牙の青い双眸が、咲夜の手を悲し気に見据える。


「俺の頭の中にずっと響くんだ。助けて、助けてって。苦しむ声がずっと、聞こえてくるんだ。助けられなかった人たちがみんな、ずっと俺を呼んでる。仕方がなかった、なんて言えねえ。言えるわけねえ。俺が、みんなを見殺しにしたのは消えねえんだ」

「……」


 咲夜は息を飲む。風牙はこれまで見たことがないほど、弱弱しく俯いた。咲夜がかける言葉など何も存在しなかった。

 でも―――それでも否定したいと思った。そんなわけはないと、風牙のせいではないと、そう言いたい。


「だからさ、俺はお前が思っているような人間じゃない。ごめんな」


 風牙は今にも泣きそうな顔で、再度咲夜の目を見て謝罪した。その顔を見て、咲夜の心が静かに悲鳴を上げる。


「俺、ちょっと考えたんだ。考えんのとか、苦手だけど。それなりに考えた。んで、決めたんだ……俺、出ていくよ。もうここにいる資格はねえ」


 風牙は一転して明るく告げると、いつものようにニカッと笑った。


「じゃあな」


 その時、風が勢いよく部屋に入り、カーテンを捲し上げる――――――。

 思わず咲夜は目を細めた。達筆なメモ書きが舞い上がり、ひらひらと床に落ちる。


 風牙は咲夜に背を向けていた。いつか見た、ボロボロの背中と同じ背中が、咲夜の目の前にある。背中がゆっくりと離れていく。遠く、遠く離れていく――――――。

 咲夜の目に、涙があふれた。どうしようもなく湧き上がる感情が、咲夜の体を動かす。


「ばか……ッ!」


 咲夜は風牙が振り返るのと同時に、風牙の服を引っ張る。涙でぐしゃぐしゃになった真っ赤な顔で、風牙を睨みつけた。


「そうやって……!! 一人で抱え込んで……自分のせいって決めつけて……ずるいわ。そんなの卑怯よ……!」


 咲夜は風牙の胸に飛び込むと、何度も拳で肩を叩く。


「誰もいないって、そう思ってた。私なんか消えてしまえばいいって。夜桜庵にいた時に、ずっと……そう思っていたの。でも違った」


 咲夜の涙が、風牙の服に落ちる。


「貴方がいたもの」


 壁を壊し、ボロボロの腕を差し出してきた時、咲夜の世界が変わった。

 絶望していた心に、温かい風が吹いたのだ。その時咲夜は、確かに風牙に救われた(・・・・)のだ。


「貴方は言ってくれた。俺がお前を守るって。嬉しかったの。私も貴方みたいになりたいって、そう思った! 貴方は私のヒーローなの! だから、だから……!」


 肩を叩く力が、一気に弱まる。咲夜は項垂れ、風牙の胸に顔を埋めた。


「いなくならないで……お願い」


 咲夜の嗚咽が、風牙の耳に響き続ける。風牙は何も言わずに、咲夜を受け止め続けた。


「……俺は」


 風牙は自分は間違っていたのかもしれないと、この家から出ていくことがお互いにとっていいことだと、そう思っていた。

 だがそれは、もう誰かが傷つく姿を見たくないという風牙のエゴでもあった。


「俺……もう、見たくなかったんだ。お前も、影斗も、義光のおっさんも、みんな傷ついていく。今度は死ぬかもしれないって、そう思ったんだ。そう思った途端、急に怖くなった。それに……俺の中の違う俺がいて、自分が自分じゃなくなるかもって」


 咲夜はゆっくりと首を横に振る。


「私が受け止める。貴方の抱えているものを、私にも分けて?」


 ――――――ああ。

 風牙の硬い鬱屈な心が、炭酸の泡のように溶けてほぐれていく。

 嬉しかった。この上なく嬉しい。風牙の目から、大粒の涙が零れ落ちる。


「ごっ……ごめ……おれ……おれっ……」


 二人は声を上げて泣き続けた。


 風牙の頭に、ずっと響いていた声が止み、代わりに浄霊院家に来てから風牙と関わった人たちの声が聞こえる気がする。


 ――――――君は、一人じゃない。


 そんな二人の様子を、すいかねこは廊下の陰からずっと見ていた。


「……」

「まだいたのか、白虎」

「……(厳夜)


 厳夜はそっと、すいかねこの横に来て、壁に背をつける。


「お前はあの二人を見て何を感じ、何を思う」


 厳夜は真剣な顔つきで、腕を組み天井を眺める。

 すいかねこは、風牙と咲夜のことを考え、思いを馳せる。


「あの小僧共は……もしかすると乗り越えられるのかもしれない。運命を変えることができるのかもしれない。そう、思ってしまった……いや、まどろっこしいな。情が湧いた。ただそれだけだ」

「同感だ。なあ白虎。お前さんたち〈十二天将〉は、本当にこのままで良いと思っているのか?」

「……無論だ。運命は覆らない。予言の通り、間もなく人間たちの進化が始まる。そうなれば、この世界は一旦滅びるだろうな」

「嘘を吐くな白虎」


 厳夜はすいかねこの体を持ち上げ、ぬいぐるみの体をぎゅっと握りしめる。


「諦めているだけだ、お前は」

「ならば、(うぬ)はどうなのだ厳夜! (うぬ)とて運命を変えることはできぬ! それなのに、どうして……」

「だからこそ私は、私の意志ではなく、彼ら若者たちの意志に懸けたい。そう、決意したのだ」

「ふん……莫迦な」


 厳夜はすいかねこから手を放す。ぽふっと床に転がったすいかねこは、天井を見て動かなくなった。


「もし、わずかでも情があるのなら……お前さんが行動してみろ。そして感じてみるがいいさ。あの二人の意志を。運命に翻弄されるだけが、人間の性ではない」


 その場から去る厳夜は、半分だけ顔を振り向かせニヤリと笑うと、ぐっと親指を立てて廊下を進んでいく。

 それを横目で見たすいかねこは、思わず厳夜から目を背けた。


「余は……」


 すいかねこはボロボロの体を引きずり、部屋に入ると、泣いている風牙と咲夜の前に立った。


「ねこ……ちゃん?」

(うぬ)らに、一つ質問をしたい」


 その声に、二人は顔を上げる。


「もし、未来が定まっているとして、もし、自分たちが滅びるのだとして、それでも(うぬ)らは前を向き続けるか」


 その質問に、二人は閉口する。


「余は、今から(うぬ)らを眠らせる。それが、余の仕事だからだ」

「……」

(うぬ)らは、どうする?」


 風牙はすいかねこを見て、疲れたように笑った。


「そんなボロボロで、どうやって眠らせるんだよ。もしそうだとしても、俺、やりたいことができちまったから眠らねえよ」


 風牙はすいかねこを抱え、ニカッと笑う。


「俺には、咲夜が、みんながいてくれるって気づいた」


 その風牙の言葉に、すいかねこは口元を緩ませる。


「わかった。なら余は、仕事をサボる。そして(うぬ)らに、余の加護を与えよう」

「かご? なんだそりゃ」

「その代わり約束しろ。絶対に、最後まで諦めないと。何があっても、だ」


 その言葉に、風牙と咲夜はこくりと頷いた。


「ああ。逃げねえよ」

「今度は、私も一緒に」


 すいかねこは、その言葉に満足したように目をつむった。


「わかった。ならば、西浄影斗を追いかけるぞ。今すぐに」




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