本当の強さ
浄霊院厳夜は、暗い自室で古い日記を読んでいた。
日記は、五十年以上前に自身が書き記したものだった。それを読んで、当時の心境や状況を思い出しながら、双子の兄であった紅夜との日々に思いを馳せる。
――――――当主の座は、兄である紅夜が継ぐはずだった。
すべての歯車は、自分が〈十二天将〉に選ばれたことにより狂ってしまう。成人になる直前、十八歳で当主となった厳夜が知ったのは、浄霊院家が千年貫いてきた鉄の掟。
厳夜は表情を曇らせ、ベッドの横に置いてあった白い札―――スマホのような形をしたものを睨みつける。
「長かった。だが、これで運命が動く」
厳夜は白いスマホを掴むと、部屋の入口に投げ捨てた。
札を投げた先に小さな猫のぬいぐるみ、すいかねこがいて、札を全身でキャッチする。
「五十年経った」
「ああ」
「五十年間、私は浄霊院家の定めに従い、想術師繁栄のために生きてきた。想術師協会を立ち上げ、発展させ、国家上の重要機関に位置づけられるほどには、組織を大きくした。だがそれは、協会のためではない。お前たち、初代十二天将の手駒として、その〈六壬神課の御札〉に従い、予言する未来の通りに行動しただけだ」
「そうだ。だったらなぜ、今更裏切ったのだ、厳夜」
すいかねこは、寂しげな、それでいて怒りに満ちた視線を厳夜に向ける。
「なぜ……浄霊院幾夜なる存在を抹殺しなかった。良く見せていたが、汝なら、できたはずだな?」
「……面白いことを言うな白虎」
「……」
「抹殺? できるわけない。なぜならこれが、私たちの計画だからだ」
「何?」
厳夜は口元を緩ませると、カーテンを開いて窓の外へ視線を移す。
雲の間からうっすらと光が差し、それが室内に入ってくる。
「白虎。安倍晴明曰く、世界は滅ぶのだろう?」
「……ああ。間もなく滅ぶ。それが結末だ」
「させんよ。お前たちに未来を決定させはしない。絶対だ」
「……」
すいかねこは白い札を重そうに背に抱え、部屋を出ていく。
「〈十二決議〉の結果、満場一致でお前の力を剥奪する。もう我らの傀朧は自由に使えんぞ。浄霊院家は滅ぶ。お前も……そして、お前が守ってきたものも」
「わかっている。だが、本当の強さはそこにはない。本当に強い者はな、白虎」
刹那、青い光を身に纏った厳夜は瞬間的に移動し、白虎の頭上に蹴りを入れる。壁に大きな穴が開き、硬直したすいかねこから、白いスマホを取り上げた。
「どれほど打ちのめされても、立ち上がる者だ」
グシャ、という音と共に、白いスマホが厳夜の手で握りつぶされた。
「今までありがとう、友よ」
「わかった。余はもう何もせん。どうせこの姿だ。力も出せんしな」
厳夜はすいかねこに背を向け、廊下を進んでいく。
★ ★ ★ ★ ★
左肩に新しい包帯が巻かれた風牙は、何もしゃべらずに項垂れていた。番匠宙は水の入ったコップを部屋の机に置くと、椅子に足を組んで腰かけ、ため息を吐く。
「そんな顔、似合わないぞ」
「……」
部屋の時計の音だけが響く、沈黙の時間だった。宙は机に肘杖をつき、風牙を見つめる。
拳を握りしめたままの風牙は、ぽつりと沈黙を破る。
「……守れなかった。仇も討てなかった。俺は……昔と何も変わってねえ」
淡々と吐き出された言葉に力はなかった。自分の無力さを呪うように、ギリギリと歯を食いしばる。風牙の脳裏に浮かぶ、廊下で血塗れになった死体。その傍らで泣く少女。やけどを負った義光。そんな姿と、かつて町を覆いつくした炎が重なる。
勝てなかった。自分は、七年前と何も変わってはいない。炎に焼かれ、死んでいった人たちを見つめることしかできなかった、あの時の自分と――――――。
力がなかった。だから、あの声に。
ドクン、と心臓が鳴り、恐怖がじわじわと込み上げてくる。
自分が自分ではなくなる、あの感覚。すべてを破壊しそうな、すべてを殺してしまいそうな、そんな自分。恐ろしい自分が、目の前で風牙を嗤っている。
「うぬぼれるなよ、少年」
そんな恐怖を、宙の低い声がかき消す。顔を上げた風牙が見たのは、鋭くこちらを睨む宙の表情だった。
「力がない? 守れなかった? そんなもんは君だけじゃない。私も厳夜さんもみんな思ってんだ。それなのに、自分が自分がって、ガキのくせに一人で背負い込んで、何言ってんだ」
宙は立ち上がると、ぐいっと風牙に顔を近づける。
「君の過去のことも、今回のことも、一人で何とかできる範囲を超えてんだ。君以外なら救えたのか? それはない。一人で背負い込むな」
宙の目にうっすらと涙が溜まっていた。それを見た風牙の心が締め付けられる。目を背け、再び俯いた風牙の頬を、両手でつかんで押さえる。
「君は笑ってろ。笑って、でかいこと言って、その明るさでみんなを励ませ。私の未来を変えたみたいに、胸張って堂々としてろ」
風牙の頬を両手でつかみ、無理やり変顔にした宙は、込み上げてきた涙を抑え、風牙の瞳をまっすぐ見つめた。手を離し、解放された風牙は、宙を見つめ返す。
――――――恐怖が、心の中から這い出てくる闇が、ぱったりと消えていた。
「……宙のねえちゃん」
「宙、でいいよ。長えし恥ずかしいだろ」
「ありがと。ちょっとだけ、気持ちが楽になったぜ」
「ふん。そんな顔、功刀風牙には似合わない。ただそれだけ」
風牙は少しだけ、いつものようにニカッと笑い、ベッドから身を起こす。
「俺、行くわ」
「うん。咲夜ちゃん心配してたから、早く行ってあげろ」
しっしと手を振る宙に、風牙は頷いて部屋を出た。
「じゃあな少年」
宙は風牙と戦った時のことを思い出して、腕を組んだ。
「君は私の未来を変えられたんだ」
寝間着姿の、ちっぽけな背中。風牙が落ち込み、絶望している姿など似合わない。
「きっと、大丈夫」
宙は、風牙の背中にガッツポーズを送ると、その足で屋敷を出る。
もう二度と、ここに戻ってくることはない。ずいぶんと名残惜しかった。こんな気分になったことはあまりない。
しかし、このまま屋敷にいることはできなかった。
宙は、森の中に入り、道なき道をまっすぐ進む。結界が張られている箇所を超え、しばらく進むと、わずかに森が開けた場所があった。
「ケジメはつけます。真夜さんも、きっとそうしに来たんだろうし」
風牙の真似をして二ッと笑った宙の周りを、黒い影が一瞬で覆いつくす。
常人では息をすることすらままならないほどの、冷たい殺気。まるで闇そのものかのような、黒い布に覆われた存在が十数人。目深にかぶったフードからちらりと見えたのは、口元に鋭い牙があしらわれた漆黒の仮面だった。
「番匠宙特別一級想術師様。我々と共に来ていただけますか」
「はいはい。大人しく連れていかれる。その代わり、絶対に屋敷には手を出すなよ、漆扇」
宙は殺気を殺気で塗りつぶすように、周囲を傀朧で威圧する。
森が揺れ、葉や枝が地面に落ちる。
『我らが主、法政局長より、そのように仰せつかっております故』
宙と黒い影たちは、吸い込まれるように森に消えていった。
★ ★ ★ ★ ★
雨がひんやりと熱を奪っていく。咲夜の話を聞いた和服の女性は、空を見上げて煙を吐いた。キセルをくるりと回し、綺麗な白い灰を雨の中に落とす。それは青色の光を放ち、雨に溶けて消えた。
すっかり落ち着いた咲夜は、和服の女性に寄りかかって目をつむっている。
「泣いて疲れちまったのかい。部屋に戻ろうか」
咲夜は自分が見てきたものをすべて話した。そのどれも、咲夜にとって辛い話ばかりだった。しかしその中で唯一、表情が明るくなった話題があった。
壁を破壊し、咲夜を助け出した少年の話――――――。
彼の話をしている時は、とても安心したような、それでいて楽しそうな表情だった。
和服の女性は微笑し、咲夜を抱きかかえる。涙の痕がくっきりと残った娘の顔を見て、抱きしめる力がわずかに強まる。
「すまないね、咲夜……」
安心したのか、疲れていたのか。咲夜は小さな寝息を立てて寝てしまった。和服の女性は、洋館の中にある咲夜の部屋に向かう。
階段を上り、廊下を進む。咲夜の部屋の前で、肩で息をしている少年の姿が目に入った。
「……咲夜ッ!」
「しー」
和服の女性は、口元に人差し指を当て、こちらに走ってくる少年を制止する。
「あんたが風牙だね」
「えっ、そう、だけど……あんた誰?」
和服の女性はドアを開けて部屋に入り、咲夜をベッドに優しく寝かせると、風牙に向き直る。
「積もる話はあるけど、まずは礼だ。咲夜が世話になったね。感謝するよ」
突然、丁寧に頭を下げた和服の女性に、風牙は首を傾げる。
「あたしは浄霊院真夜。咲夜の母親だよ」




