雑用するぞ
明朝五時。
気温は、一日の中で最も低い時間に差し掛かっている。
まだ暗闇に包まれている浄霊院邸の小さな一室。そこで、風牙はいびきをかきながら寝ていた。
浄霊院家お抱えだという医者が、風牙の足を診察してからわずか一週間。薬を塗り、リハビリを繰り返すことで、みるみるうちに痛みが取れていった。
この医者は、傀朧医と呼ばれる数少ない特別な医者だった。
傀朧医は、想術を使った特別な治療を行うことで、傀瘡と呼ばれる傀異から受けた傷も治すことができる。想術で自然治癒力を向上させるため、深い傷であっても早期治療が可能である。
傷が治ってきたということで、大きな客間で寝ていた風牙は、小さな部屋に移動させられる。
物置として使っていたため、部屋の有様はひどいものだった。一日かけて掃除をした風牙は、気づけば疲れ果て、眠っていた。
「起きろ。朝だぞ」
入り口の引き戸が開き、厳夜が声をかける。
風牙の寝相は悪く、毛布を蹴飛ばし、浴衣がはだけていた。全く起きそうにないので、もう一度、大きな声で風牙を起こそうと試みる。
「起きろ」
風牙はむにゃむにゃと何かをつぶやくと、寝返りを打った。
「……」
厳夜はため息をつく。この少年と関わってから、何度ため息をついただろうか。
自嘲気味に笑い、風牙の布団を勢いよくはぎ取った。
「……んん」
「変な声を出してないでさっさと起きろ」
厳夜は部屋の明かりをつけ、テキパキと布団をたたむ。
ようやく自分が起こされているのだと気づいた風牙は、目をこすりながら体を起こし、胡坐をかく。
「……今何時?」
「五時半すぎだ」
「はあ? 早すぎだろ」
自分の家では、気ままに睡眠時間を決めている風牙にとって、こんなにも早く起きることは苦痛でしかない。
「これくらいに起きるのが普通だ。ここで働くなら寝坊は許さん」
厳夜はきっぱりと言い放ち、冷たく風牙を睨む。
「さっさと着替えろ」
「ちぇー」
ギロリ。
厳夜の視線の圧に耐えかねて、風牙は慌ててリュックから服を引っ張る。
ジャージのズボンに、パーカー。家から持ってきた風牙の服は、動きやすい服装ばかりだった。
風牙が着替え終わるのを待って、厳夜は廊下の方へ目配せをする。
「本来ならば、私が色々と教えてやりたいところだが」
厳夜に手招きされ、廊下から顔を出したのは西浄影斗だった。
手ぬぐいの代わりにニット帽をかぶり、手袋をはめ、防寒対策のばっちりとれた温かい恰好をしている。
「私は今日、仕事で一日家にいない。代わりに影斗に面倒を見てもらえ。一日の流れや仕事の仕方をしっかりと学んでおけ。いいな」
風牙は、返事の代わりに大きなあくびをする。
影斗は、丸い目を必死に細めて風牙を睨みつける。文句を言おうと身を乗り出した時、厳夜が代わりに声を出した。
「功刀風牙」
厳夜はぐいっと、風牙に詰め寄る。
――――――顔が怖い。目力強すぎ。体から傀朧にじみ出てるし。
風牙は体を引いた。目は当然、はっきり冴えた。
「お前が私に言ったこと。あれは嘘ではないな」
「あ、当たり前だろ!! わかってる。ちゃんと働くって」
「では約束が二つある」
厳夜はスーツの胸ポケットから、小さなメモ帳を取り出すと、さらさらと文字を書き始める。
「一つ。決して自分の本名を言うな。特に苗字、“功刀”は口走るなよ。お前は一応、影斗の従兄妹、西浄昏斗ということになっている。その設定を忘れるな」
「えー。だっせえ名前」
風牙は、信じられないと顔を顰め、影斗を見る。影斗は、風牙と目を合わせようとしない。
「一つ。くれぐれも他の住民たちと揉めるな。中にはお前のことを怪しんで、喧嘩を吹っ掛けてくるやつがいるかもしれんが、買うな。わかったな」
喧嘩をしなければいい。
そう言葉を咀嚼すると、ずいぶんと簡単な気がした。
「わかった! まかせろ!!」
ようやく頭が働くようになってきた風牙は、元気よく返事をする。
厳夜は、メモをちぎって風牙に渡す。
「それをよく見ておけ。今日のお前の仕事内容だ」
掃除、洗濯、料理の配膳、鶏の世話――――――鶏の世話。
鶏の世話はよくわからなかったが、要は家の手伝いとほぼ同じ内容だ。楽勝だ。
風牙はメモをポケットにしまう。
「影斗の言うことを聞いて、まずはこの屋敷に上手く馴染め。わかったな?」
「おう!」
返事だけはしっかりする風牙だったが、厳夜の心配は拭えない。なにせ、自分で足を穿ったような阿呆だ。馬鹿正直に突っ走りそうで恐ろしい。
厳夜は、影斗の肩をポンと叩く。
「影斗。すまんがよろしく頼む」
厳夜に頼られたのが素直に嬉しかったらしい。赤く染まった頬を緩め、照れ笑いを浮かべてしっかりと頷く。
「はい! 精一杯頑張ります!」
厳夜は腕時計の時刻を確認すると、部屋を出る。
「では行ってくる」
「いってらっしゃいませ! お気を付けて」
厳夜を見送った影斗の表情は、現れた時とは真逆の、やる気に満ち溢れたものだった。
振り返り、風牙の顔を見る――――――影斗はにこにこと楽しそうに笑っていた。
「よし! いいか昏斗。スパルタで行くからな。覚悟しろよ!」
「お前、なんでそんなにやる気満々なんだよ」
二人は早速、最初の仕事場へ向かう。
* * * * *
今朝は風が強い。冷たさは、突き刺さるような痛みへと昇華する。
寝起きで体が冷え切っている風牙は、ぶるぶると震えながら両腕で箒を抱えている。
「今日は七時までに、屋敷の周りを全部掃くから、さっさと動けよ」
最初の仕事は、浄霊院本邸周りの掃き掃除だった。
ここ一週間で雪が解け、地面は乾いている。その代わりに、風に乗って落ち葉や土が運ばれ、汚れている印象を受ける。
風牙は、体を温めようと、大げさな動きで箒を動かしていく。
――――――砂が舞い上がり、余計に汚くなった気がする。
風牙は、手を止めて屋敷を見渡した。
(この家どんだけ広いんだよ)
この屋敷に来てから、風牙はあまり外に出たことがなかった。
浄霊院家が、広大な面積を有していることは風牙も知っている。巨大な仁王門からこの屋敷までの距離も、ずいぶんとあったように思える。
最初に訪れたお堂も、かなりの大きさだったと記憶しているのだが――――――。
風牙は改めて本邸の広さを目の当たりにし、開いた口が塞がらなかった。
「なあ影斗」
「ん?」
「この建物って、どんくらいでかいの?」
影斗は手を止めずに、慣れた手つきで落ち葉やゴミを掃いている。
「たしか五百坪くらいって言ってたな。隣の洋館を合わせたら八百坪」
「……つぼ?」
風牙の頭に、丸い陶器の形が思い浮かんだ。
影斗は、いまいちピンと来ていない様子の風牙を見て補足する。
「おれもよく知らねえけど、一坪で畳二枚くらいの広さらしいから、だいたい畳千枚の広さってことになるな」
「畳千枚!?」
「大体だぞ、大体」
風牙がなんとなく広さを理解して、目を回したところで、影斗が腕時計を確認する。
「あと一時間だぞ。ペース上げろ。間に合わねえぞ」
風牙のやる気が低下する。まだ四分の一も掃いていない。
(うげー。落ち葉めっちゃあんのに、全部とか無理だろ)
影斗は、かなりの精度で落ち葉を掃いている。真似をした方がいいのかもしれないが、細かくやっていては間に合わない。それに、はっきり言って面倒くさい。
風牙は、とりあえず汚いところだけを掃いていくことにした。
(テキトーでいいよな。別に誰かが監視してるわけじゃねえし)
風牙は、気を楽にして、口笛を吹きながらさっさと本邸の周囲を進んでいく――――――。
角まで差し掛かったところで、ドン、と誰かにぶつかった。
「うお! すんません……」
風牙は目を丸くする。風牙とぶつかったのは、かなり小柄の女性だった。
頭は男のような刈上げ、細目。黒いエプロン姿で、腰にはハンディモップが刺さっている。手には、ペンとメモ帳。体は小さいのに、何やら怒っているのか、圧を感じる。
「ちょっと」
「へ?」
「あんた!!」
「なんすか!」
女性はいきり立つと、風牙の残した落ち葉を鋭く指さす。
「こーれーは。なーんーだーろーうーね!!!」
風牙にぐいぐい詰め寄ると、顔に皺を寄せる。
一瞬幼女かと思ったが、よく見ると、ずいぶんとおばさんである。
風牙は、小柄の女性から顔を背ける。どうやら、適当に掃いたのが気に入らなかったらしい。
風牙は誤魔化そうと、へらりと笑った。
「わりいわりい“おばさん”。掃除の続きするから、そこどいてくれよ」
ピクリ。女性の皺が、より深くなる。
やってしまった、と思った時には、もうすでに遅かった。
小柄の女性は、顔を真っ赤にして激怒した。腰に刺さっていたモップを抜き取ると、風牙をぺしぺしと叩く。
「誰がおばさんだこらーーーーーーーーー!!!」
その後、一時間近くこの女性のお説教が続いた。
風牙は何も言い返すことができず、終わるころには抜け殻のようになっていた。
* * * * *
「昏斗。大丈夫か?」
「何だったんだよあのおば……じゃなかった、女の人」
時刻は午前七時すぎ。
結局終わらなかった掃き掃除を強制終了する。風牙は、箒を掃除用具入れにしまい、一息ついた。
「あの人な……浄霊院本家の自称家政婦長、“トシミさん”。古株で、四十年くらい前からこの屋敷で働いてるんだけど、仕事にすげー厳しいんだよ。おれもよく、あんな風にお説教される」
風牙は、先ほどのトシミの説教を思い出して、背筋が凍る。
弾丸のように罵詈雑言を浴びせては、こちらが言い訳する隙を与えてくれない。
最後の方は、顔がアホっぽいとか、散々なことを言われた気がする。ほとんど記憶にはないが。
「あー。腹減った」
言葉にすると同時に、腹が豪快に鳴る。
「次の仕事場は食堂だけど……」
「やったぜーーー!! 待ってました!」
「待て待て。いいか。絶対に先走って食うなよ。絶対だからな」
「はあ!? なんで。知ってる!! フリだろそれ」
「ち、ちがっ!! あーもう時間ないからさっさと行くぞ!」
二人は、駆け足で食堂に向かう。道中、影斗は仕事の説明をする。
「うちの食事は、麓から毎朝来てくれてる専属の栄養士さんと調理師さんが三食作ってくれてる。おれたちはその手伝い。浄霊院本家には通いのお手伝いさん含め、大体二十人くらいいる。その人数分作るのも大変だけど、運ぶのも大変。だから、おれたちは配膳の手伝い」
「じゃあさ、俺たちいつになったら食えんの?」
「全員食った後」
風牙は、露骨に嫌そうな顔を影斗に向ける。
「文句言ったって、それがルールなんだよ。当番制なんだ。我慢しろ」
食堂に近づくにつれ、焼き魚のいい香りがしてくる。風牙は、無意識に食堂に入っていこうとする――――――服を引っ張られ、廊下に引き戻される。
「話聞けってアホ!! ダメだって言ってるだろ!?」
「腹減った」
「アホ。そんな顔してもだめだ」
――――――このままでは、何かトラブルが起きそうな気がする。いや、絶対に起こる。
そう確信した影斗は、風牙の服を引っ張ったまま裏口から食堂に入る。
中にいた調理師に軽くあいさつし、風牙にエプロンを渡す。
「とにかく。さっさと配膳終わらせたら食えるから、仕事すんぞ」
「よっしゃ!! わかったぜ。さっさと終わらせりゃ、食えんだな!!」
「切り替えだけは早いよなお前」
二人は防寒着を脱ぎ、エプロンに着替える。
調理場から覗いた食堂は、和食レストランさながらの広さと内装だった。
影斗は腕の時計を確認する。食事の時間まで、あと二分もない。
「七時半になったら、各々食堂にやってくる。本来なら、初めに旦那様の部屋に配膳するんだけど、今日はお出かけだからしなくていい。おれたちの仕事は、お盆に料理を乗せて、机に配膳していくことだ」
「わかった!!」
風牙が返事をすると、すぐに数人の男たちが食堂に入ってきた。次々とやってくる気配がある。
二人は早速、盆に料理を乗せていく。
今朝のメニューは、白ご飯、みそ汁、ほうれん草のおひたし、焼き鮭一切れ。
影斗の手際は、掃き掃除に続いて非常に良い。丁寧に、確実に、配膳している。
(えっと……置く向きはこうか……?)
風牙は、影斗の真似をしながら配膳を進めていく。
手際は良くなかったが、量は影斗がカバーしてくれる。何の問題もないはずだった。
――――――ドカッと、トシミが風牙の前に座るまでは。
「まだなの?」
「うげ……」
風牙は嫌な表情を隠し切れない。トシミは、さっさと持ってこいと言わんばかりに、腕を組む。まるで悪質な小姑のようだ。
(やべえ! 遅いとまた文句言われる!!)
急いで、お盆に料理を乗せ、トシミの前まで持っていこうとして――――――。
「あ」
風牙は、躓いてしまった。絵にかいたように、料理が空中を舞い、
「……」
トシミの頭の上に、みそ汁がかかる。
ワカメが顔にへばりつき、崩れた豆腐が頭の上に乗った。
鬼のように変貌していくトシミの顔を見た風牙は、やっちまったと舌を出した。
トシミさん。結構気に入っています(笑)




