閑話―東郷旭灯の憂鬱
「ふあ~。ねっむ」
体調があまりよくない、と東郷旭灯は目を細める。大きなあくびはこれで何度目だろうか。とにかく体がだるくて、何もする気にならない。
今日は学校が休みだ。しかし、休みだからと言って夜更かしすることはなく、昨日の夜はいつもの時間にきちんと寝た。学校まで片道二時間はかかる旭灯にとって、体内時計のリズムは重要である。休みの日でもきちんと早朝に起きて、軽く運動した後に勉強をするのが基本だった。
「んん……なんやろ、天気のせいか?」
お気に入りのふわふわ抱き枕の上に、ぐったりと寝転がりながら、ぼんやりと縁側を眺める。
四月二十七日。今日は午後から学校に行かなければならない。こんな調子では、行きたくなくなってしまう。なにせ街中の高校にいくまで片道一時間以上かかるのだ。
「よー!! あーちゃん起きた?」
「うわ。何?」
旭灯の部屋は和室である。廊下との仕切りはふすま一枚であるので、廊下で発せられた音がよく聞こえる。ふすまの向こうから聞こえたのは、聞きなれた少年の声だった。
すぐにふすまが勢いよく開く。歯を見せて、ニコニコ笑っている朱色の短髪。まだ肌寒い日もあるが、半袖短パン姿で、頬と右足に大きな絆創膏を張っている。
「勢いよく開けんな。もしうちが着替えとったらどうするつもりやねん」
「ええやん。あーちゃんやし」
「意味わからんし、しばき回すで」
いつも能天気で、楽しそうに笑っているこの少年の名は良平。旭灯と歳は五つ離れており、昔から弟のように接してきた。ちなみに、綺麗な朱色のつんつん頭は地毛である。
「なーなー見てーな! やっとレアモンゲットできてん。五時間かかったわ」
「五時間もゲームすな。あんた、仕事どないしたん?」
嬉しそうに携帯ゲーム機の画面を見せてくる良平に、旭灯は苦い顔をする。
「今日は厳夜様おらんからええねんええねん」
「良くない。ちゃんと仕事してき」
良平は、つまらなさそうな顔で、渋々ゲームの電源を落とす。
「俺、仕事とかしたないねん。修業したい! 修行! 想術の」
「アホ。余計あかん」
旭灯はため息をついて頭を抱える。良平はいつも想術師になりたいという言葉を口にする。
「俺、将来は厳夜様みたいな想術師になって、みんな守ったんねん」
今日もまた、そう口にする。それがこの上なく嫌で、心に引っ掛かる。旭灯は、真剣な表情で良平の顔を見る。
「前から言ってるやろ。想術師になるのはあかん」
「嫌や! なんであかんねん」
「無理や。あんたがなれるもんと違う。それに、想術師なんて碌な仕事じゃない」
良平は、ムキになって声を荒げる。
「なるし! なんでいつもあーちゃん、俺の夢を否定すんの?」
「……うちらが想術師に何されたか、忘れたんか!?」
旭灯はつい大声を出してしまった。それを聞いた良平は、目をうるうるさせて口を曲げる。
「厳夜様がどう言ってるかは知らんけどな、うちは認めへん。勉強して社会に出ぇ。その方がよっぽどええわ」
良平は、地団駄を踏むように部屋から出ていく。少し冷たく言い過ぎたかもしれない。でも、想術師になるという良平を傷つけてでも止めることに、何の抵抗もなかった。
「……厳夜様みたいな想術師は、めったにおらへんねん」
――――――想術師は嫌いだ。
幼いころに染みついた、想術師に対する拒絶反応。七年経った今でも、それが消えることなどない。想術師は私利私欲のために簡単に人を殺す。目の前で自分と同じ境遇の子どもたちが殺される光景を見た旭灯にとって、拒否反応が起こるのは当然だった。
善人ぶっていつも笑っていたあの男――――――浄霊院燵夜。
思い出すだけで震えが止まらなくなる。冷や汗が額に滲み、恐怖が全身を支配する。
「あー、だるいわ。ほんまに……消えろや」
ネガティブな精神状態だと、余計に過去を思い出してしまう。もう七年経つのだ。未だにあの時のことを引きずっている自分が情けない。自分は強く生きなければならない。死んだあの子たちのためにも。
「……早めに学校行こ」
旭灯はもこもこの部屋着から制服に着替えようと、重い腰を上げる。その時、人影が森の方へ入っていくのが見える。
「……影斗?」
ふらふらと力なく森の方へ歩いているのは、旭灯もよく知っている影斗だった。
いつもと同じ、てぬぐいを頭に巻き、甚平を着ている。違うのは、力のない足取りだ。まるでゾンビのように、ふらふらと森へ歩いていく。
「影斗―。どこ行くん?」
旭灯は大きめの声で呼びかけた。しかし、影斗は反応せずに歩き続け、すぐに見えなくなった。変に思った旭灯は、草履を履いて影斗の後を追いかける。
※ ※ ※ ※ ※
森の中に入った旭灯は、すぐに影斗を見失ってしまった。この辺りの森は薄暗く、視界が悪い。かなりゆっくり歩いていたはずなのだが、一体どちらの方向へ歩いていったのか。
「どこ行ってん……」
旭灯は、つい心の声が漏れてしまった。草履を履いてきたのが間違いだった。足場が悪く、何度も脱げそうになる。
仕方がない。一旦引き返そう。そう決めた時、
「……えっ」
寒気が全身を駆け巡る。微弱ではあったが、この傀朧の気配は――――――。
間違いない。忘れるはずなどないのだから。
「……なんでやねん。なん、で……おかしい。絶対おかしい!!」
心が警鐘を鳴らし、焦燥感が込み上げてくる。
七年前に死んだのだ。浄霊院燵夜は厳夜の手で殺された。生きているはずなどない。だが、この止まらぬ寒気が、あの男が近くにいることを知らせている。暗い地下室で、あいつがやってくることに恐怖した、あの日々を思い出す。
旭灯は確かめずにはいられなかった。心臓の鼓動が速度を増し、呼吸が浅く激しくなっていく。気配を必死に殺し、森の奥へ進む。
勘違いであってくれ。自分のメンタルが落ち込んでいるから、このような幻影を見た。それでいい。そうあってくれ。
祈るように草の陰に身を落とし、ゆっくりと目の前を見る。少し森が開け、光が差し込んでいる。この先には結界が通っていたはずだ。
「!!」
息を飲む。旭灯が見たのは、結界に空いた小さな穴だった。
こんなこと、本来ならばありえない。すぐに厳太が気づくはずだ。しかし、誰もここに来る気配はない。
――――――ザッ。ザッ。
枯草や枯れ木を踏む音。すり足でゆっくりと結界に近づいてくるのは、影斗だ。旭灯が見たのは、影斗の顔に張り付く白い能面だった。何の概念かもわからないどす黒い傀朧をまき散らし、影斗の顔に張り付いている。さらに影斗の手には、小さな仏具のようなものが握られている。独鈷というのだろうか。影斗はそれを結界の小さな穴に突き立てる。
すると、結界が弾け、人が十分通れるような大きな穴が開いた。
「ああ……なんて幸せなんだ。ずっと会いたかった息子が迎えに来てくれるなんて」
結界の先で恍惚の笑みを浮かべる男。旭灯の息が止まる。
夢であって欲しかった。しかし、願いは一瞬で崩れ去る。現実に、目の前に現れた浄霊院燵夜は、結界を通り抜けると、影斗を抱きしめる。
「あああああっ生き返るううううううう。七年だ。お前に会えないことがこんなにも、辛くて、苦しいなんて……」
燵夜は目に涙を浮かべ、影斗と目線の高さを合わせる。
「これで……これでようやく……」
影斗の顔についた仮面をゆっくりと剥がす。現れた影斗の顔は、虚ろな目でどこか遠くを見ていた。
足がすくみ、言葉も出ない。何もできない。ただ、見ているだけ。
――――――だめだ。このままでは影斗が連れ去られてしまう。
恐怖で満たされた心の中で芽生えた、そんな思いが旭灯の体を自然と動かしていた。草の陰からゆっくりと立ち上がり、浄霊院燵夜と対峙する。
「……やめろ」
旭灯の手には、野球ボールサイズの大きな石が握られていた。
しかし、旭灯を一瞥した燵夜は、何事もなかったかのように影斗の方を向き、優しく顔を撫でる。
「やめろって言っとるやろ!!!」
それを見た旭灯は、怒りでブーストさせた傀朧を、手のひらに凝縮させる。殺意を込めて握りしめた石を、大きく振りかぶり、全力で投球する。
石は目に見えぬ速さとなり、空中で発火する。それ自体が光の弾のようになった石は、浄霊院燵夜を捉える――――――。
しかし、顔をかすめるだけで命中せず、光の弾は背後の森に吸い込まれる。
炸裂音を響かせ、遅れてやってくる衝撃。大きな土ぼこりが発生し、三人は包み込まれる。
「はあ、はあ、はあ」
全力の殺意だった。しかし命中しなかった。横にいた影斗を考慮したからか。いや、そうではない。燵夜は微塵も動かなかった。
ためらったのだ。殺したくてたまらないあの男を、自分は殺せなかった。
土ぼこりが次第におさまると、旭灯の目の前で浄霊院燵夜が笑う。
「野蛮だが、美しい。今の一撃はよかったよ旭灯」
自分の名前を呼ばれたことに、動揺する。
「だがね、殺したいのならば、きちんと狙わないとね……」
土埃の中から現れた燵夜の顔を見て、旭灯は恐怖する。
顔の左半分がえぐれていた。外したとはいえ、発火するほど高威力の石が、そばを通ったのだ。それだけで衝撃は計り知れない。
「さて、今日は退散するよ。君を見ていたら、少し別のことに興味が湧いてしまったからね」
燵夜はそう言い残すと、空気に溶けるように消失する。
「どうせ、影斗は手に入る」
緊張の糸がふと切れた旭灯は、すぐさま影斗の元に駆け寄る。
影斗の体は、力なく崩れ、旭灯にもたれかかる。
「影斗! しっかりしぃ!!」
生気のない影斗の顔に、面は張り付いていなかった。
またキャラを増やしてしまった……ちゃらん。
もう増えません。浄霊院家のキャラはこれで最後ですから許してください(笑)




