誘い
夕焼けが西の空に沈むころ、浄霊院幾夜はデスクに肘杖をつき、ぼんやりと窓の外を見ていた。白いブラインドから差し込むオレンジ色の光が、間もなく訪れる夜の気配を色濃く醸し出す。次第に勢いを失い、光が無くなっていく感覚に、幾夜の心が黒く澱んでいく。
夜は嫌いだ。死ぬほど嫌いだ。
何も持たない者は、暗闇にただ沈むしかない。何も見えない暗闇の中、足掻く弱者は哀れでならない。
夜の闇を照らすことのできる存在は、全てを導く。全てを壊し、全てを創る。あの男のように。
気づけばマイナスな思考に陥っていることに辟易し、幾夜は部屋の電気をつける。ブラインドを閉め、夕日をシャットアウトすると、机の上に飾ってあった写真立てを見つめる。二人の老夫婦と共に映る中学生の自分。その横には、無邪気に笑う一人の親友がいた。
それを見て、ひどい頭痛に襲われる。
「なーにしみったれってんすか幾夜っち」
「……入る時はノックしろと言ってるだろう」
「いいじゃないっすか、誰もいないんだし」
「なら、お前のその胡散臭いしゃべり方も直せ、岳人」
ニヤッと笑った天然パーマの青年、御剣岳人は幾夜が見ていた写真を奪い取る。
「嫌っす~。胡散臭いとか心外なんすけどねー。オレっちは自然派ですよ?」
岳人は写真を一瞥し、幾夜に返す。
「これ、中学ん時の写真っすね」
「そうだな」
冷たく言い放った幾夜は、引き出しに写真立てをしまう。
「それで、何の用だ。ただ喋りに来たのか」
「うんうんそうっす。ちょっと思い詰めてないかな~なんて思っちゃって」
「安心しろ。すこぶる快調だ。もうすぐ、厳夜が私の存在に気づき、行動してくるだろう。私はその一歩上を行こうと思ってね」
幾夜の目はひどく澱んでいる。歯をギリギリと噛み締め、憎しみを抑えているように見える。
「奴の驚く顔を見たら、調子もさらに良くなるかもな」
「うーん。なんかちょっと怖いっすね幾夜っち~」
岳人は、「てい!」と言って幾夜の頭をチョップした。
「……なんだそれは」
「んんー? もう一回!」
「いらん」
幾夜の表情が少し緩む。それを見て岳人は、してやったりと言いたげな表情で部屋から逃走する。
「全く……」
幾夜は、頭痛が治まっていることに気づく。大きく息を吐き、椅子に深く腰掛ける。
「……わかっているさ親友。俺はもう戻れない」
天井を睨みつけ、息を吐き出すともう一度呟く。
「奴のすべてを否定し、すべてを壊す……そのためにあのお方に魂を売ったのだから」
※ ※ ※ ※ ※
夜が更ける――――――。
厳夜の執務室は静まり返っている。
真っ暗な中、もう一時間ほど腕を組んで座っていた。
月明かりがない夜だった。浮かない厳夜の心に、薄暗い夜の気配が侵入してくる。しかし、厳夜はその感情を受け入れようと思考を停止させる。今は暗くても、それでもいいと思った。
ゆっくりと立ち上がり、自室の窓を開け、籠っていた生暖かい空気を外に逃がす。外から入り込んでくる風は冷たい。もうすぐ桜が咲くころだと思った厳夜は、ふと妻の顔を思い出した。
亡き妻と同じ名前の、あの花が咲く季節――――――。
厳夜は桜が好きではなかった。
散ることこそ美しい、という考え方や感性が受け入れられない。多くの人間の散り際を見てきた厳夜にとって、他人の死は虚無の象徴だった。
桜は、散り際に自らの美しさをばらまくために、一年間生きてきたのだろうか。ふと、そんなことを思う。
死に様と生き様は似て非なるものだ。因果応報という言葉がちょうどいい。醜い生き方をしてきた者に、死に様は選べない。
(私の死に様は、さぞかし醜いものなのだろうな)
それでもよい。むしろ、多くの人間を殺してきた自分が楽に死ねるとは思っていない。因果応報。今まさに、業が返ってきている。
厳夜は、机の上に置かれたシンプルな白い封筒を見て、自らを心の中で嘲笑した。
『浄霊院厳夜様へ』
表にそう書かれている。そして、裏にひっくり返せば、
「浄霊院、幾夜より……か」
これが届いた時、心臓が締め付けられて止まるかと思った。
浄霊院幾夜。
忘れもしない二十七年前。想術師協会を二分する内乱の最中、厳夜が滅ぼした弟のたった一人の子どもだ。炎の中、厳夜は全てを破壊した。血のつながった人間を何人も殺した。その中にいた、意識を失った二人の子ども――――――。
一人はひどいやけどで見るも無残な姿だった。そしてもう一人は、雪のように白い肌だった。
生き残ったのはその二人だけ。
あの時の、白い肌の小さな少年が今、自らに復讐しようとしている。
(どうしてこのタイミングなのだ……まるで計算されているかのような)
功刀風牙がこの屋敷に来てから、多くの出来事が起こった。じわじわと屋敷に脅威が迫っていることは承知している。そして、その一連の首謀者が彼であることも、想術開発局の佐藤熊吾郎から情報を聞いたあの時から薄々わかっていた。しかし、いざ直接的に行動してくるとは思ってもいなかった。
なぜこんなにも心臓が締め付けられたのだろうか。心のどこかで、そうじゃないと否定していたからか。信じたくなかったからか。
いや、そうじゃない――――――自分の罪の清算をする時が来たからか。
「……」
都合が良すぎる。厳夜は自己嫌悪に陥る。
兄―――浄霊院紅夜が生きているとわかったあの夜に、もう少しだけ生きてみたいと思ってしまったからなのか。もう一度でいい。一目でいいから会いたいと思ったからか。
厳夜は、心の中のあらゆる自問自答に耐えられなくなり、大きなため息を吐いた。
コンコン。
部屋をノックする音。
次いで扉が開き、ひょいと顔を覗かせたのは番匠宙だった。
「入ってもよかった?」
「ああ……」
生気のない厳夜の顔を見て、宙はため息を吐く。
「大丈夫? 無理してない?」
「………大丈夫だ。ちょうどよかった。お前と話がしたくてな」
それを聞いた宙は、部屋の扉に人払いの術式が編み込まれた式札を張る。
「これを見て」
宙は、ジャケットの胸ポケットからネズミ型の小さな式神を取り出し、厳夜の机の上に投げる。ネズミは厳夜の机に落ちるとすぐに、青い炎に包まれて消える。
「屋敷の中の調査は今日一日であらかた済ませました。それで、これを」
「……」
宙は応接用の椅子に座る。厳夜は暗い顔のまま机を見つめている。
「……焼け落ちたところを見ると、犯人の特定は難しそうだな」
「実はそうでもないかも」
宙は浮かない顔の厳夜を見つめる。そして、机に指で星を描く。
「まあこの際、犯人はどうでもいいか。厳夜さん、私は風牙に負けた。だから約束通り咲夜ちゃんを連れていけないから、バレたら懲戒処分ものの虚偽報告をしなくちゃならない」
「……すまんな」
「謝ることはないわ。だからこそできることが山ほどある。
私に、協力させてほしい。この屋敷で今何が起ころうとしているのか、それを突き止め、場合によっては阻止したい」
宙の顔は力強い決意に満ちていた。それを見た厳夜は、目をつむる。
「ありがとう。お前が味方でいてくれて、これほど頼もしいことはない」
「だからこそ、教えてほしい。今厳夜さんが抱えているものを共有して。私も今わかっていることを共有するから」
厳夜はゆっくり頷いて肘杖をつくと、手の甲に額を乗せる。
「単刀直入に言うと、おそらく一連の出来事に裏で関わっているのは、浄霊院幾夜だ」
それを聞いた宙は、首を傾げる。
「浄霊院幾夜? 確か、厳夜さんが昔養子に出した……」
「そうだ。もう二十五年以上も前の話だ。もう浄霊院性でもなければ、想術も使えない。そう思っていた」
厳夜は、壁の棚から古いアルバムを引っ張り出してきて、一枚の写真を見せる。
そこには、カメラに向かって照れ臭そうに笑う幼い少年と、首元にマフラーを巻いた少年が二人が映っていた。
「二十七年前のことだ。幾夜の両親を含む三つの分家が反乱を起こした。多くの想術師が犠牲になり、協会がひっくり返るかもしれなかった大事件だ。それを私が粛清した時、私は関係者すべてを殺した。彼らは皆、狂気にあてられたように血を求め、人を殺していたからだ。理由はわからん。もちろん例外はない。分家にいた子どもも、全部殺そうとした。だが唯一幾夜は無傷で生き残った。なぜか無害だったからだ。想術も一切使えず、幼かったおかげで、両親のこともろくに覚えちゃいない。もし、そんな幾夜を殺せば、私が分家を粛正する意味がないと思った」
「二十七年前……どうしてそんなことに?」
「お前も少しは知っているだろう。私のことが気に入らない者たちが集まり、手を組んで私を倒そうと動いた。力で正義を語り、すべてを押さえつけてきた私のやり方が気に入らなかったのだろう。そのせいでたくさんの人間が狂い、死んだ。私の大切な仲間も、友も……私はあの時、弟二人と信頼していた当時の副会長を殺した。家族を守るために。いや、違うな。妻を失った怒りと悲しみに任せ、暴走したと言った方がいいか」
厳夜は、声を震わせる。頭を抱え、俯いた姿を見て、宙は心中を察する。
「ごめんなさい。思い出させてしまって」
「大丈夫だ。幾夜の話に戻ろう。幾夜は、私が殺した二番目の弟の子どもだった。私から見ると甥にあたる。私は幾夜を、想術師とは関係ない一般家庭の子どもとして養子に出した。すべての経歴、記憶を抹消してからな。何の問題もなく成長し、現在は普通の会社員として生活していると。そう聞いていた」
厳夜は、机の上に置いてあった紙の束を宙に差し出す。
「これは?」
「想術開発局の知り合いに調べてもらった幾夜のデータだ。とりあえず、見てくれ」
宙は紙の資料に目を通し始める。そこに書かれていたのは、浄霊院幾夜という名前の男性が、これまでに想術師協会で行ってきた数々の実績だった。
「なに……これ」
特定危険傀異の単独討伐による表彰、傀具管理の新たな枠組み作り、途絶えていた青源和紙の復活など、どれも写真付きで大きく載っている。
そして最後のページには、『浄霊院幾夜、歴代最年少で想術師協会総本部長に就任』と書いてあった。
「何この役職? 聞いたことない」
「そこだ。そんな役職は、私の記憶する限り存在していない」
宙は自身の知らないことが公的文章として載っていることに、強烈な違和感を覚える。
思考が乱れ、うまく事態が飲み込めない。
「ちょ、ちょっと待って。この調べた人がグルってことは?」
「ない。佐藤熊吾郎は変人だが、信頼度は私の中で群を抜いている」
「他の人は知っているの?」
「副会長と傀朧管理局長に、バレんようそれとなく聞いてみた。答えは、『よくできた甥っ子さんですね』だ……これほど衝撃を受けたことはない」
宙は言葉を失い、厳夜は言葉を続ける。
「宙……私は最初、お前が幾夜の協力者なのではないかと疑っていた。なにせタイミングがタイミングだったからな。お前が監査に来るという連絡が入った時、このデータを受け取った。正直、気味が悪かった」
「何それ……」
「状況をまとめる。一つ、なぜかお前と私は共通で幾夜のことを知らなかった。これには必ず理由があるはずだ。私たちは忘れているのか、それとも何か別の術中にはまっているのか。こればかりはまだわからん。しかし、先ほども言った開発局の協力者、佐藤熊吾郎も、幾夜のことを知らなかった。ここは特筆すべきかもしれん。
そしてもう一つ……これを見て欲しい」
厳夜は、先ほど見つめていた白い封筒を宙に見せる。
「幾夜から手紙が来た。このタイミングで、だ」
宙は厳夜に促され、中身を開く。
『積もる話があるでしょう。三日後、四月二十七日。想術師協会本部“陰陽堂”で待っています。時間は九時ぴったりで』
書いてある内容はそれだけだった。
「ネズミの式神だけじゃないのかもしれないわね。こちらの動きを完全に読まれてる。私たちが驚くのも計算に入れてるのかな。監視されてるみたい」
宙が顔を歪めると、厳夜は静かに「だが行ってくる」と呟いた。
「罠だったら?」
「その時はその時だ。だから共有した。もし、私の身になにか起こった場合、お前がすべてを把握できる」
「待って。危険すぎる。私も……」
宙は自分も行く、と言いかけて止めた。冷静に考えると、この場合厳夜だけで行く方が安全かもしれない。行けば起こっていることが分かる上に、厳夜の実力からすれば、足手まといがいない方がかえって安全だろう。
しかし――――――嫌な予感がする。
何かとてつもない危機が迫っているような、そんな予感が。
「厳夜さん。私、この屋敷にしばらくいるね」
「いいのか?」
「一応、虚偽報告をした上で調査を続行する、という体にしておくわ。それなら自然だし、もしすぐに帰って、報告がバレたら言い訳がたたないしね」
厳夜は深く頷く。
「引き続き、私も協力する。だから、くれぐれも気を付けて」
「わかった」
宙は、忘れていたことが一つだけあったので、厳夜に伝えることにする。
「私からも一つ、いい? 法政局からの情報なんだけど」
「何だ?」
「七年前……最後の粛清での生き残り。浄霊院衝夜が釈放された」
「……なんだと」
「気を付けて。このタイミング。何もないと考える方が不自然だから」
「わかった」
厳夜は、古いアルバムを棚に直そうと席を立つ。その時、ひらりと一枚写真が落ちる。
それを拾い上げた時、厳夜の目に涙が浮かぶ。
若いころの厳夜と、綺麗な女性のツーショットだった。偶然この写真が出てきたことに、運命を感じた厳夜は、桜に励まされているような気がした。
「桜……わかっている。家族だけは……必ず守り抜いてみせる」
写真をアルバムに戻し、棚にしまった厳夜の顔は、力強く優しいいつもの顔に戻っていた。
さて、ここからはいよいよ壮大な幾夜の復讐計画が本格始動します。
消えることのない怨嗟に突き動かされる幾夜の目的、復讐計画の全容とは?
次回より二章も佳境! まだまだ長いですがお付き合いいただけると嬉しいです!




