呵責の縁側
「なーなーじいさん! このねこの中に白虎が入ってるんだけど!」
「……阿呆。そんな説明で理解できるわけなかろうが」
深夜だというのに騒がしい。この洋館で寝泊まりしている者はほとんどいないので、少々騒いでも問題はないが――――――。
厳夜は呆れつつも、扉の向こうにいる風牙に声をかける。
「入ってこい」
扉が開く。影斗はその瞬間、反射的に部屋の奥へ退く。
「ちょっと見てくれよ。このぬいぐるみ。すいかねこってんだけど、中に白虎が入ってる」
「こ、こら無礼者……人を宙づりにするな!!」
風牙は、すいかねこの首根っこをつかみ、厳夜に突き出す。
「あのな風牙。用件はしっかりと最初から話せ。なんだ……すいか、ねこ? 意味が分からん」
風牙はその時、部屋の隅にいた影斗を見つける。
「あ、影斗! 元気になったか? 大丈夫だったか?」
風牙は、嬉しそうに歯を見せて影斗に手を振った。そのはずみで、すいかねこは厳夜の机の上に投げられる。
風牙の笑顔が、影斗の心を強く締め付ける――――――。
あの夜、鐡夜に風牙のことを話してしまった時の記憶が蘇る。
風牙を売ったのだ。保身のために――――――それなのに今、風牙は自分に向かって笑顔を見せ、あろうことか心配までしてくれている。心の底から。何の屈託もない笑顔で。
自分が今ここにいられるのは、風牙が助け出してくれたからだ。
わずかに覚えている。やけどを負い、ボロボロで、それなのに懸命に自分を助けてくれた。
――――――本当は逃げられたんだ。でも、あえて逃げなかった。
――――――全部、自分のエゴだ。
自分のせいで、風牙が傷ついた。自分が、風牙を傷つけた。
影斗の心は、耐えられなかった。
「……ッ!!!」
影斗は勢いよく部屋を飛び出す。その時、部屋に入ろうとしていた咲夜とすれ違う。
「きゃっ」
俯き、歯を食いしばる影斗を見た咲夜は、何事かと放心する。
「かげ、と?」
一番驚いたのは風牙だった。
明らかに様子が変だった。影斗に何かあったのか。一体どうしてしまったのだろうか。
「はん! 小僧、さては汝、友だちおらんだろう。なんとなくわかったぞ今ので……むぎゅ」
厳夜は、すいかねこの口を強く押さえる。
「……なあじいさん。影斗、なんかあったのか?」
「私にはわからん。が、今のでなんとなくわかった」
「じいさんごめん。俺、行くわ」
風牙は、そう言って勢いよく部屋を飛び出す。
「待て風牙……まったく」
すいかねこは、憔悴した厳夜の顔を見て不満そうに鼻息を鳴らす。
「お前らときたら、いちいち他人の顔色なんぞ伺いよって」
「……お前、白虎か?」
厳夜は、この時初めて喋るぬいぐるみに意識を向ける。
「んな! 厳夜貴様! 余に気づいておらんかったとでも言うのか?」
「どうしてお前が……いや、それよりも影斗だ」
「おいおい待て待て! 何で余の優先度が低いのだ」
「ちょっと待っていろ。今はそれどころでは……」
厳夜は、不安そうな面持ちで部屋の入り口に立っている咲夜に気づく。
「おじいさま……ごめんなさい!」
咲夜は頭を下げる。そして、今日あった出来事を厳夜に説明する。
「今日、地蔵堂の片づけと修復を、風牙さんと私とヒカルくんでやってたんだけど、その時に部屋にあった召喚円みたいなものを見つけて……それが勝手に反応しちゃって、私がその子を呼んじゃったみたいなの」
「な……に」
厳夜が思った以上に驚いたので、咲夜は委縮する。
「咲夜。お前が呼んだんだな。間違いないのか」
「ふん。不満だが、間違いない。余を呼んだのはその小娘だ。だから、余がこんなちんけな器の中に……」
厳夜は、大きなため息をついて目じりを押さえる。そして、咲夜を鋭く睨みつける。
「咲夜。体はどうだ。どこか変なところはないか」
「えっ……うん。大丈夫よ」
「何か異変を感じたら、すぐに言いなさい。いいな」
「……わかった」
咲夜は、厳夜の様子にどこか違和感を覚える。やはり、勝手に召喚したことがまずかったのか。
先ほど脳裏に走ったあの痛みを思い出す。
何か変だ。何か、重要なことを忘れている。そんな気がする。
そんな“異変”を、祖父にきちんと言うべきだろうか。
咲夜は迷ったが、先ほど部屋を飛び出した影斗のことが気になったので、とりあえず胸に伏せておくことにする。
「ねえおじいさま。さっきの……」
「そうか。咲夜はあまり関わったことがなかったな。あの子は、厳太の孫でな」
「えっ。じゃあ、影斗くん?」
咲夜は、これまでほとんど影斗と関わったことがなかった。存在は知っていたが、夜桜庵にいた期間が長いこともあり、しっかりと顔が思い出せなかった。
「咲夜。今日はもう寝なさい。後のことは私が何とかしておく」
厳夜は、部屋の時計を一瞥すると、部屋に帰るよう促す。
「白虎。その器から出ることはできないのか」
「無理だ。小娘が余を解放するか、器が破壊されれば、話は変わるがな」
「……なら、当面は咲夜のことを守ってくれ」
「ふん! 誰がこんな未熟者を守るかたわけ」
すいかねこは、机の上から飛び降りると、勝手に部屋の外へ出ていく。
「ま、待ってねこちゃん」
「誰がねこちゃんだ!! 余をちゃんづけするなど……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、すいかねこは咲夜の肩にしっかりとつかまる。
二人を見送った厳夜は、しばらくの間扉を見つめ続けていた。
※ ※ ※ ※ ※
「はあ……はあ……」
息を切らした影斗は暗闇の中、誰もいない縁側で立ち止まる。
庭に下りられる位置に置いてあった草履を履き、夜の闇へ駆けていく。
月も星も出ていない暗い夜だった。目が慣れてきたとはいえ、数m先の森の中が全く見えない。
走るのを止めたのに息が荒い。先ほどの風牙の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。罪悪感が募り、上がる心拍数を抑えようと、影斗は自分の胸を拳で叩く。
「なんで……」
悔しくてたまらない。己の可愛さに風牙のことを売った自分が、どうしても許せない。
この屋敷に来てから、周囲との関係を自ら断ってきた影斗にとって、風牙と過ごしたわずかな時間はかけがえのないものだった。風牙は、ここに来て初めて友だちになれたかもしれない存在だった。
でも――――――ほんの少しでも、芽生えつつあった友情を自ら壊したのだ。
もう、面と向かって話せる資格は自分にない。そう思っていたのに――――――。
風牙の笑顔を見て、わずかに安心した自分がいたのだ。
「……うっ……っぐ」
影斗は庭の置石に腰かけ、涙を抑える。
厳夜に心配され、あろうことか風牙にも心配される。そんな資格は自分にはない。できることなら糾弾して欲しかった。その方がまだ、よかったのに。
「影斗!」
影斗を追ってきた風牙は、縁側から身を投げ出し、はだしのまま影斗に迫る。
それに気づいた影斗は、急いで涙をぬぐい、縁側の方へ戻る。
「どうしたんだよいきなり」
風牙を無視し、縁側に上がろうとする影斗の腕を、風牙がつかむ。
「待てよ……」
腕を握る力は強かった。影斗は風牙の顔を見る。
風牙は、本気で自分の身を案じているし、心配している。それが痛いほど伝わってくるような、そんな顔だった。
――――――なんだよその顔。やめろよ。
そう思った時、無意識にまた安心している自分がいることに気づく。
気持ちが悪い。最低だ。どこまでも自分が可愛いのか。
「なあ。なんか悩んでるなら話せよ。聞くぜ」
優しげな問いかけだった。
風牙は心底お人よしだ。わかっている。風牙は間違いなく“良い奴”だ。常に誰かのことを考え、誰かのことを思っている。自分を助けるために火事の中に身を投じたような奴だ。
――――――こんなのずるい。眩しすぎる。
こんなに、こんなにもいい奴を、自分は裏切った。
悔しさと後悔と、激しい自己嫌悪。
だからこそ、愚かな自分はもう、耐えられなかった。
「……何なんだよお前」
ぼそりと呟かれた影斗の声を、風牙ははっきりと聞いた。
今にも泣きそうな声。それでいて、激しい怒りが籠っている。
影斗は、風牙を強く睨みつける。
「おれがお前に……何したってんだよ……!! 初めて会ってたった数日しか経ってねえのに、それなのに何でこんなに……あの時もそうだ。おれが助けてくれって頼んだのか? お前は……全部勝手にやって、その上まだおれに……」
影斗は、風牙の胸倉をつかんだ。涙で真っ赤になった目を、風牙は何も言わずにただ見つめ続けた。
影斗は、体を震わせながらしばらく無言で泣き続けた後、鼻水をすすり、ぽつりと呟く。
「何も知らねえくせに……おれなんか、あん時焼け死んどきゃよかったんだよ!!」
その一言を聞いた風牙の表情が、大きく歪む。
わずかに震えた顔には青筋が立ち、振り上げられた拳が影斗の顔面を捉える。
勢いよく殴り飛ばされた影斗は、地面に叩きつけられ、雑草と湿った土の上を転がる。
「てめえ……今、何て言った」
風牙は、影斗の胸倉をつかみ返す。真っ赤に腫れた影斗の頬を睨みつける。
「さっきから聞いてりゃ、うだうだとしょうもないことばっか言いやがって。会ってから数日しか経ってねえ? んなこと、お前を助けることに全然関係ねえだろ」
影斗は、風牙の腕を強引に振り払う。
「何したって言ったか。俺はお前に助けられた。いろんなこと教えてくれたり、飯だってくれた。俺、めちゃめちゃ嬉しかった」
影斗は、拳を握りしめる。歯をギリギリと食いしばる。
そんなことは、自分が一番わかっている。風牙と過ごした一日は、間違いなく楽しかった。ようやく友だちができた――――――そんな気がしていた。だからそんなこと、言われなくてもわかっている。だからこれ以上言わないでくれ。
影斗の目から大粒の涙が流れ落ちる。
だからこそ、風牙を売った自分は、決して許されない。
「俺はお前のこと、友だちだと思ってる」
止めてくれ。もう、優しい言葉は聞きたくない。
「……何にも、何にも知らないくせに」
「あ”?」
「自分勝手なんだ……お前は!」
もう二度と、風牙のことを裏切りたくはない。
決して、裏切らない。そう誓う。
だから――――――もうこれが最後だ。
影斗は心の中で強く決意する。
深呼吸をし、風牙の目を見て、はっきりと告げる。
「おれはなぁ……お前のことなんか、一度も友だちだと思ったことねえよ。
おれは、お前を売ったんだ。お前が地蔵堂にいるってことを言ったんだ。わかるか? お前のことがキライなんだよ。初めて会った時から、ずっと!
それなのに、勝手なことばっかしやがって。おれはわざと逃げなかったんだ。おれはもう死にたいんだよ! なのに、何にも知らねえお前が勝手に……」
風牙は、再び影斗の顔面を殴り飛ばした。
背中から地面に倒れた影斗を見た風牙は、苦しそうに拳を押さえつける。
「……死にたいとか、死んでも言うんじゃねえ!!」
風牙は、震える声で影斗を怒鳴りつける。
影斗は、血と涙でぐちゃぐちゃになった表情のまま、言い返す。
「じゃあ言わねえからさ。死なせてくれよ。もう、誰かを傷つけることが耐えられないんだ」
「……ッ!! てめえ……」
風牙は影斗の胸倉を再度つかんで無理やり立たせる。
もう一度拳を振り上げたところで、影斗の顔が目に入り、拳を止める。
影斗の嗚咽が耳に入るたびに、風牙の心が軋む。
影斗は、風牙の腕を優しく払うと、震える声で言った。
「もうおれに、近づかないで」
ふらふらとした足取りで、風牙に背中を向けた影斗は縁側の方へ向かう。
風牙の全身の力が抜ける。
もう、わけがわからない。だが、影斗を殴った時の不快感が拳にこびりついている。
深く後悔した。どうしていいかわからなかったが、一つだけわかることがある。
「……じゃあなんで」
――――――影斗は嘘をついている。
「なんで……そんなに泣いてんだよ。お前の背中」




