うぃるゆーまりーみー?
風牙は慌てて咲夜に駆け寄る。咲夜の体は発熱しており、呼吸が荒い。
「てめえ……何しやがった!」
風牙は熊に殴りかかろうと拳を振り上げる。しかし熊は、風牙の顔に手のひらを向けて、制止させる。
「小生に攻撃しても無駄なのでございます。
この傀域のルール。さっきも言いました、“試練”。その内容を詳しくご説明いたします。
日本人夫婦やカップルは、恥ずかしがって愛の言葉を囁かない傾向がある! これはとっても由々しきことなのでございます。見ればアナタ方、まだプロポーズの言葉も交わしてない模様。特に風牙氏! アナタ咲夜氏を愛しているなら、しっかりと言えるはずですよね愛の言葉。長くなりましたが、これがルールでございます。アナタが愛の言葉を心から咲夜氏に伝える……もしそれが出来なければ、咲夜氏は毒に犯されて命を失うのでございます」
「な……」
毒――――――その言葉が風牙の脳内で繰り返される。よく見れば咲夜の体に、この空間を形成しているのと同じ傀朧が入り込んでいた。それは今この瞬間も、咲夜の体を蝕んでいる。傀朧はエネルギーの塊であると同時に、使い方次第で人体に悪影響を与える。
「だ、大丈夫だよ……心配しないで」
「大丈夫じゃねえって!」
『さあさあ! しっかりとお互い愛を伝えるのでございます! それが結婚なのです! それが出来なければ…………。
見るも無残に爆発してください。風牙氏、咲夜氏』
風牙は激しい焦燥感で思考が停止している。どうしたらいいのかまるでわからない。
愛の言葉など、言えるはずもない。これは偽装結婚だ。本物の結婚ならまだしも、偽装結婚に愛などあるはずがない。
「ぁ……ぅ……おれ……」
風牙は回らない頭で考える。
嘘でもいいのだろうか。嘘なら吐ける。好きと、言ってしまえばいいのだろうか。
しかし、功刀風牙という人間は、嘘を吐くのが大の苦手だった。思っていないことを口にするのは、彼にとって苦痛以外の何でもない。
目が泳いでいる風牙の様子を見て、咲夜は自然と口が動く。
「ごめんなさい風牙さん……」
咲夜は、懸命に体を起こした。心拍が上昇し、呼吸がより苦しくなる。
「咲夜……?」
その様子を心配した風牙の手が咲夜に伸びる。しかし、咲夜はそれを払いのける。
咲夜はゴクリと唾を飲み込み、熊のぬいぐるみに告げる。
「私が言うわ。それでもいいでしょう?」
「おや。咲夜氏は、お強いですね。それに比べて旦那のくせに臆病ですなぁ」
ぎりり。風牙は歯を食いしばる。咲夜は、今にも殴りかかってしまいそうな風牙の手のひらを握る。
安い挑発だった。この熊のぬいぐるみは、自分たちを試している。
「私は……」
動くたびに、体に傀朧が回っていく。その辛さは、簡単に耐えられる程度のものではない。しかし咲夜は、気丈に立ち上がり、告げる。
「風牙さんのこと……好きよ」
風牙に微笑みかけた咲夜の顔から、汗が滴れ落ちる。辛い。苦い。けれど、決して負けない意志の強さがそこにはあった。
――――――私のヒーロー。
ボロボロになりながらも自分を、屋敷を守るその姿が、鮮明に咲夜の脳裏を駆け巡る。
強くて、かっこよくて、決して折れないそんな姿に、咲夜は強い憧れを抱いていた。
恩を返したい。
私もああなりたい。
支えたい。
――――――どこか遠くへ行ってしまう前に。
ぐちゃぐちゃだった強い思いが今、鮮明な形となって咲夜を奮い立たせる。
「私は風牙さんのことを、心の底から……」
――――――しかし咲夜は、その言葉を言う前に倒れた。
「咲夜っ!!!」
風牙は咲夜の体を揺さぶる。息はまだあった。しかし、先ほどよりももっと荒い。
このままでは命に係わる。咲夜を救うためには、一刻も早くこの空間から出るしかない。
『ほんと、強いお方だ』
熊のぬいぐるみは、ぽつりと言い放つ。
そして、顔を思いっきり歪ませ、心の底から風牙を嘲笑った。
『ほらほらぁ!! どうしたのでございますかぁ? そこに、愛はないんですかぁ?』
「うっせえよ」
咲夜の言葉は決して嘘ではない、真実の思いだった。
風牙は咲夜の苦しそうな表情を見て、胸の奥が締め付けられる。
「わりい咲夜。俺のせいだ。情けねえ」
――――――助けになりたい。
純粋に嬉しかった。これまで生きてきた中で、自分を心配する人の声や姿はたくさん感じてきた。大切なものを失った後、時に憐れみに似た白い目を向けられたこともあった。
しかし風牙自身、そんな声は全く気にしたことがなかった。というより、理解できなかった。人を助ける。その姿勢を特別視したことなど一度もなかったから。
――――――もっとお前は、自分を大切にしろ。
祖父から何度も言われた言葉を思い出す。
理解できなかった。自分の生きる意味を、自分の存在意義を否定されたような気さえした。
そんな中、咲夜は助けになりたいと言ってくれた。
風牙は、これまでの咲夜の行動や言動を意識する。
泣いていた。心配。花。寝ている姿。看病。
困っていたのは咲夜だった。だから助けただけ。
けれど今、咲夜は紛れもなく自分を助けるために、体を酷使したのだ。
情けない――――――!
風牙は咲夜に頭を下げる。そして咲夜に精一杯の笑みを見せる。
口を大きく開き、迷いのない、まっすぐな瞳で言い放つ。
「俺、お前のこと好きだぜ! 愛、とか結婚、とかはよくわかんねーけど俺、思ってることちゃんと言う。
もし、お前が困った時、お前がピンチになった時、呼んでくれ。
俺がお前を守る。約束する」
咲夜の目に、じんわりと涙が浮かぶ。
「……うん」
私も頑張る―――そう言いかけた時、白い世界が一瞬にして崩壊した。
「ぐお」
体が落下した。見ると、咲夜の下敷きになっていたのは、カメラを持った厳夜だった。
「咲夜様……!!」
老紳士は下敷きになっている厳夜そっちのけで、咲夜の手を取る。
「お怪我はありませんか……?」
「うん。大丈夫よ」
風牙がいたから。
そう目で訴えた咲夜を見て、老紳士はそっと胸をなでおろす。
「さ、咲夜が無事なら何も言うまい……」
「おじいさま!? どうしたの?」
「お前がカメラの中から出てきていきなり私の上に圧し掛かった」
咲夜は老紳士に手を引っ張られ、その勢いで厳夜から離れる。
厳夜は不貞腐れた表情で、カメラを睨みつけていた。
老紳士は、次いでカメラの中から飛び出してきた風牙の顔を見る。
清々しくも、どこか虚ろな目――――――。
(この短期間で何かあったのか)
老紳士は風牙に問いかける。
「何があったのですか」
「んー……よくわかんねーけどさ」
風牙は頭上に向かって両手を伸ばし、大きく伸びをする。
「結婚、できたんじゃねーかなって。知らねーけど」
ニカッと笑った風牙に、老紳士の表情が緩む。
「そうですか。お二人とも、これは偽装結婚ですよ」
「わわわ……わかってるよ厳太」
「やっぱ俺、よくわかんねー。結婚したらやっぱしちゅーとかすんのかな」
赤面する咲夜。笑う風牙。
「ええ。するんじゃないですか本物の結婚なら」
老紳士はにっこりと口角を上げる。
内心最もびくびくしていた厳夜は、三人の様子をそっと伺い、本気で安心していた。
「よかった……本当によかった……」
「厳夜様」
老紳士の冷たい呼び声に、背筋が凍る。
「は、はい」
苦笑いする主人を見て、一際大きなため息を吐く。
「そのカメラについて、きちんとお二人にも説明してください」
「そうだぞじいさん!! なんなんだよあの変な熊のぬいぐるみ」
「そうなのおじいさま。くまさんが出てきて、それで……」
「熊……だと……?」
それを聞いた厳夜は、顔を引きつらせる。
「わかった……私が馬鹿だった。煮るなり焼くなり好きにしろ」
「だからちゃんと説明を……」
老紳士の言葉を遮り、風牙と咲夜が前に出る。
二人は顔を見合わせると、目をギラギラ輝かせる。
「じいさん、言っとくけどよ……結構大変だったんだからな。咲夜死にかけたし」
「死にかけた!?」
「そうよ。今は全く平気だけど、結構苦しかったんだから」
厳夜の顔が真っ青になっていく。両手を合わせ、許しを請う。
「すまん……本当に……これを作った大馬鹿者は、私が消しておくから」
「消すなら、きちんと説明責任を果たさせてからにしてくださいね」
「じょ、冗談だ……一応友人だから」
風牙は厳夜の持っていた例のカメラを手に取った。
「じゃあさ、これで写真撮ろうぜ。みんなでさ」
「うん! それいい!」
「皆で、ですか」
意外な提案に、老紳士は目を丸くする。
「おう。みんなで撮ったら、多分大丈夫……だよな」
「くまさんがもう一回出てきてもいいんじゃないかな」
けらけら笑う二人を見て、厳夜は首を傾げる。
「そうか……なら厳太、お前も入れ」
「しかし……」
「いいから」
咲夜の横に厳夜が立ち、風牙の横に老紳士が立つ。
厳夜は、瞬間移動し、どこかから三脚を持って戻ってくる。カメラの自動シャッター機能を使ってタイマーをセットする。
『はい、チーズ』
パシャリ。
撮られた写真の片隅に、小さな熊のぬいぐるみが映りこんでいることに気づくのは、数日後のことだった。
※ ※ ※ ※ ※
想術師協会本部
コンコンコン。
浄霊院幾夜は、洋風アンティーク調の家具で埋め尽くされた室内で、一人書類に目を通していた。
ノックの音がやけに軽やかだ。ノック音は注意深く聞いていると、叩き方や感覚で誰が来たのかわかる。
来訪者が誰なのか瞬時に理解した幾夜は、書類から目を離すことなく無視をした。
「うい~っす」
扉が開き、顔を覗かせたのは茶髪の男だった。色は抜かれ、少し天然パーマが入っている髪は、いつになくボサボサだった。そういえば今日は雨が降っている。湿気のせいだろうか。
「入れ、と言ってないだろう楽斗」
「いやいや、いつも無視するじゃないっすか」
幾夜は、フッと鼻で笑ってから来訪者を見る。
楽斗と呼ばれた青年―――年齢は二十前後、ゆったりとしたTシャツの腰に、赤い上着を巻いている。そして膝上が豪快に空いたダメージジーンズを履いていた。
「せっかく連れてきたのに。幾夜っちが言ってた協力者」
「そうか」
軽く返事をした幾夜は、書類を机の脇に移動させる。
肘をつき、両手の上に顎を乗せ、ドア付近を見つめる。
「さ、入るっす」
楽斗に促され部屋に入ってきたのは、黒いローブ姿の小柄な男性だった。フードを深く被っており、顔は見えない。
幾夜の前にあった応接用のソファに促され、男性はゆっくりとソファに近づく。
男性の体がわずかに震えていることに気づいた幾夜は、目を細めた。
「よく来たね。いや、お久しぶりとでも言うべきかな。浄霊院衝夜」
「よく来た……だと」
名前を言われた男性は、勢いよくローブを脱ぎ捨て、幾夜の胸倉をつかむ。
露わになった顔の右半分には、鉄仮面がついている。年齢は、楽斗と変わらないようだったが、髪は白髪交じりで目は虚ろだ。
ローブの下に着ていたのは、着物型の獄衣。元は白色だったようだが、みすぼらしく薄汚れている。
「今更……何なんだよ……! オイラを鼻で嗤うために呼んだのか。あ‟!?」
「まあそう怖い顔をするな。座りなさい」
しかし、衝夜は座らず幾夜を睨み続ける。衝夜の虚ろな目には、激しい憎悪の火が灯っていた。
「答えろ! どういう風の吹き回しだ幾夜。オイラに情けでもかけたつもりか……?」
「質問が多いな。饒舌に語れるほど、私の機嫌は良くないが」
幾夜は全身から傀朧を放出する。
びりびりと室内の空気を震わせるほどの質に、衝夜の額から汗が滴れる。
「もう一度言おうか。座りなさい」
衝夜は、歯をぎりりと噛みしめ、ソファに座る。
体の震えが増し、衝夜は体を両手で力強く押さえつける。
「今更何なんだってんだよ……こんな今更、何をしようってんだ……!!」
「今更ではない。準備ができたんだ。私たちの復讐の準備がね」
低く言い放たれた言葉に、衝夜の震えが一瞬だけ止まった。
「復讐……だと。どうやって!! どうやってあのバケモノに復讐するってんだ……あいつは……厳夜は、人間じゃない! どうやったって勝てねえだろ!」
「それを今から君に説明する」
幾夜は立ち上がると、ソファの後ろに立ち、衝夜に耳打ちした。
「……っ!!」
衝夜の顔を見ることなく、幾夜は長々と続ける。
しばらくして、衝夜が落ち着いていることに満足した幾夜は、不敵にほほ笑み席に戻る。
「すでに賽は投げられている。復讐は、浄霊院家の生き残り。つまり君にも、私にも資格があるということだ」
幾夜は衝夜に手を差し出す。
「オイラは……お前には頼らねえ……あの時オイラたちを見殺しにした……お前には……」
「それは君たちが、私たちに黙って下らぬ道楽に興じていたからだろう。厳夜の大嫌いな、選民思想の道楽だ。自業自得だよ。でも大丈夫。私が君の願いを叶えてあげるよ。楽にしてあげよう。従兄妹としてね」
幾夜はゆっくりと、衝夜の肩に触れる。
すると、定まらなかった衝夜の視点が定まり、体のこわばりが抜けていく。
こくりと頷いた衝夜は、ソファの上で意識を失った。
「おっ。何したんすか幾夜っち。精神支配っすか?」
一連の様子を見ていた楽斗は、興味深そうに衝夜を見つめる。
「違うよ楽斗。私はそこまで悪魔ではない。彼の中にある恐怖や不安、そしてあの男に対するトラウマを取り除いてあげただけさ」
にい、と口を歪ませた幾夜の目は、ひどく澱んでいた。
「何それこっわ。オレっちにもやってみてくださいよ」
「君には何もしないさ。だって君は、私を裏切ったりしないだろう?」
その一言に、楽斗はにんまりと笑う。
「当たり前っすよ幾夜っち。んじゃ、オレっちはこれでー」
「衝夜をよろしく頼むよ楽斗」
衝夜を軽々と抱えた楽斗は、仰々しく手を振って部屋を出ていく。
「さてと、衝夜にはしっかりと踊ってもらうとしよう」
幾夜は椅子に深く腰掛け、足を組むと天井を見上げる。
「第二フェーズの始まりだ」
くまのぬいぐるみが映りこんだ写真はガチでホラー(笑)




