咲夜の冒険
――――――夜が更ける。風が吹く。間もなく日付が変わる。
咲夜は、庭に咲いていた黄色いゼラニウムの花を摘み、束にすると壁の外へ向かう。
咲夜は、大穴が空いた壁の前、敷地と外の境界線に立った。
緊張と共に、心臓が高鳴る。二年ぶりの外の世界は、どうなっているのだろうか。咲夜の脳裏に、かつて住んでいた浄霊院本邸の景色が蘇ってくる。
「すー。はー」
咲夜は胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。喜びと緊張が複雑に絡み合い、胸が落ち着かない。
花を握りしめ、一歩踏み出す。目の前には、夜の森が不気味に広がっている。
「よし!」
頬を両手でぎゅっと押さえる。咲夜の心に恐怖はなかった。
木の根につまずかないように気を付けながら、月明かりを頼りに進んでいく。
ひたすら真っ直ぐ行けば、本邸の南側に出るはずである。
枯草を踏み、枝の下を潜り抜け、感覚だけで進む。
道が開け、目の前に広がっていたのは、記憶と変わらない本邸の姿だった。
(よかったぁ……)
二年前と変わらぬ本邸の様子。手入れされた本邸の周囲には、落ち葉一つない。
しかし、深夜であるにもかかわらず本邸の明かりは煌々と灯っており、人の気配があった。
(みんな寝てない、のかな……)
咲夜は、バレないように身をかがめ、大きな物干し竿の傍を通り、お堂の方へ進む。目指すのは、敷地の中央に伸びる長い石段。その先の鐘楼を過ぎ、四分の三ほど登ったところに、地蔵堂へと続く道が伸びている。
咲夜は、階段の下までやってくる。年季の入った白い石段は、月明かりに照らされ、淡い光を放っていた。
咲夜は、久しぶりに山中を歩いたせいで、ずいぶん息が上がっている。
階段を前にして、ひとまず呼吸を整える。
(どうしたんだろ……)
咲夜は、休憩がてら本邸の様子を観察する。耳をすませると、人の声が聞こえる。どうやら大勢で話をしているようだ。その時、階段の上から、誰かが下りてくる気配がした。
驚いた咲夜は、すぐさま茂みに身を隠す。次第に会話が近づいてくる。どうやら二人組のようだ。
「厳夜様とは未だ連絡が取れないらしい」
「まじかよ。結界にも異常があるって、義光さんが言ってたぜ」
バレないように、恐る恐る葉と枝の間から階段を見つめる。咲夜の目の前を通ったのは、浄霊院本家守備隊の制服を着た二人の男だった。
「西浄昏斗……全部あいつのせいだ。一体どこの間者なんだ? 今すぐに吐かせればいいのに……」
「だめだめ。西浄昏斗は、厳太さんが拘束してんだ。何とかしてくれるって」
二人は会話に夢中で、咲夜に気づく様子はなかった。二人の声が聞こえなくなるまで待ち、咲夜は再び動き出す。
(さいじょう、くらと? 誰のことかしら)
咲夜は、引き続き階段を上る。冷たい空気が肺に負荷をかけ、焼けるように痛い。
普段全く使うことのない足の筋肉が悲鳴を上げている。
しかし、咲夜は足を止めない。
脳裏にボロボロの風牙の姿が浮かぶ。こんな苦しみ、痛みなど、風牙に比べればなんてことない。黄色いゼラニウムの花束を握る手に、力が入る。
あと、もう少し――――――地蔵堂へ続く道が見えてきた。
咲夜の顔は、自然とほころぶ。
階段を上りきると、小さな道に入る。
咲夜は、木々の間に隠れるように建っている小屋の前までたどり着くと、両ひざに手を当て、下を向いて何度も息をする。
「はあ……はあ……やった」
咲夜の心に達成感が満ちる。久しぶりに外に出られたのが嬉しかったのと、純粋にかくれんぼをしているような臨場感もあって、ちょっぴり楽しかった。
息を整えた咲夜は、扉の前に立つ。少し緊張してきた。
風牙に改めて、感謝を伝えなければ。
壁を壊し、外に出してくれた。そのお礼を言いたい。
扉を――――――開ける。
中に入った咲夜の目に飛び込んできたのは、椅子に拘束された風牙の姿だった。
「きゃあ!!」
「うわっ! びっくりした!!」
想像と全く違う風牙の姿に、思わず悲鳴を上げた咲夜は、すぐさま風牙に駆け寄る。
「なんで……!? どういう、こと?」
「おうさくや! 無事だったんだな!」
風牙が暢気に笑う横で、咲夜は焦って縄を解こうとするが、硬くてどうにもならない。
「ん……ああこれか? なんか知らねーけど、執事のおっさんが、俺を殺すって」
「ええっ!? そんな!?」
咲夜は頭が混乱する。今にも頭から湯気が出そうである。
「ああ、ごめん! 間違えた! 殺されるから、おっさんが守ってくれる……じゃなかったかな。忘れちまった。よくわかんねーんだよな」
咲夜にとって、殺すのも殺されるのも、あまり意味は変わらない。なぜ、風牙が殺されなければならないのか。わからなさすぎて、混乱が増す。
「わ、私……すぐ厳太に言うわ!」
「いいよいいよ。俺が自分で何とかすっから」
風牙は、全身に力を籠め、拘束を解こうと試みる。バキッと木が音を立てるが、拘束されていることに変化はない。
少しがっかりしたような顔をしたかと思えば、咲夜の方を見て笑う。
「それよりもさ、お前、壁から出られたんだな! よかったな!」
咲夜はハッと意識を戻す。風牙に感謝を伝えに、ここまで来たのだ。気をしっかり持たなければ。
顔を赤らめ、握りしめていた花を風牙に差し出す。
「あのっ! 私ね、貴方にどうしてもお礼が言いたくて……本当にありがとう! 貴方のおかげで外に出られた。感謝してもしきれない……」
咲夜は頭を下げる。風牙は、鼻先に突き出された黄色い花を不思議そうに見つめる。少し萎れていたが、綺麗な花だった。
「こんなんじゃ、お礼にならないけど……今は何にもお礼ができないから、せめてお見舞いだけでもって思って」
風牙は、花から爽やかないい匂いがしたので、鼻をすんすんさせてから、ニカッと笑った。
「別に礼なんていらねーよ。俺は、当たり前のことをしただけだ。泣いてるやつを放っておくなんて、男のすることじゃねえからな!」
風牙はふん、と胸を張る。
――――――かっこいい。
感謝と、風牙に対する思いが胸に溢れる。
目にじんわりと涙があふれてきた。
ダメだ――――――また泣いたら、風牙を困らせるかもしれない。
咲夜は、涙を抑えると、精一杯笑った。
――――――ザッ、ザッ、ザッ。
風牙は突然、真剣な表情になって地蔵堂の扉を睨みつける。
遠くから近づいてくる草履の音。扉の外に誰かがいる。
「……さくや。俺の後ろに隠れろ」
「えっ……?」
「早く」
ピリッとする殺気が放たれると同時に、地蔵堂の扉は蹴破られる。
それに驚いた咲夜は、風牙の背後に身を隠す。
「よぉ。功刀風牙ってのは、テメエか?」
現れたのは、赤髪ソフトモヒカンヘアの若い男だった。邪悪な笑みを浮かべ、風牙をまじまじと見つめる。
「だっせ。捕まってるってのはマジだったんだなァ」
男は、ずけずけと地蔵堂に入ってくる。風牙は、男をじーっと睨みつける。
「なんだお前」
「オレは、浄霊院鐡夜。覚えてから逝け。テメエ、どこの回しもんだ? 答えろ」
鐡夜と名乗る男は、風牙の前に立つと、腰に差していた刀を抜く。鋭い切っ先を風牙の首元に突きつけると、冷たい表情で殺気を放つ。
「何言ってんだお前」
風牙は首を傾げ、全く動じない。鐡夜は怒りが込み上げてくる。
「わかってねえようだなァ……テメエは死ぬんだよ。今から」
鐡夜は、刀に傀朧を走らせる。その瞬間、風牙の背後にいた咲夜が飛び出してきた。
「や、やめて……!」
「なっ……」
鐡夜は驚いて、刀を下ろす。
「……咲夜、様?」
「誤解なの。この人は私の恩人! だから、やめて」
咲夜は、震える小さな体で、鐡夜の前に立ちふさがる。
鐡夜が以前見た咲夜の姿が、脳裏に蘇ってくる。
五年前、まだ咲夜が閉じ込められていないころに、一度だけ見たことがあった。
遠くから見ただけだった。だが、はっきりと覚えている。
――――――美しい銀髪を靡かせ、神妙で静謐な気配を漂わせる、浄霊院家の次期当主。
存在感と身に纏うオーラは、忘れることなどできないほど、鮮烈だった。
しかし今――――――目の前にいる、このか弱い少女はなんだ。
視点も定まらず、震えて、必死に“敵”である功刀風牙を守ろうとしている。
その様子を見た鐡夜は、怒りに震える。
「何なんだよ……」
二人に聞こえないほどの声で、ぼそりとつぶやいた鐡夜は、刀を鞘に納める。
それを見た咲夜の緊張が、少し解ける。しかしつかの間、
「クククククク……ヒヒヒヒヒヒ……馬鹿みたいじゃねえか」
鐡夜は頭を抱えて笑い始めた。
咲夜は――――――“当主”に選ばれたくせに才能のない、ただの弱い少女。
才能がなかったから、二年間閉じ込められてきたのだ。それをこの屋敷で働く者たちは、外敵から守ってきた。時に仲間が死ぬことだってあった。それなのに――――――こいつは敵を守ろうとするのか。
鐡夜の怒りが爆発する。
咲夜を睨みつけ、強引に腕をつかむ。
「痛っ……!」
「下がっていてください。邪魔なんで」
鐡夜は、咲夜の腕を強引に引っ張り、風牙から引きはがそうとする。
「何すんだやめろ!!」
それを見た風牙が叫ぶ。拘束を解こうと暴れるが、結界の効果で力が入らない。
「なに勘違いしてるのか知らねえけど、ウゼェんだよ……さっさと離れろや!」
咲夜は何とか離れまいと抵抗するが、鐡夜は冷たい表情のまま、力を入れ続ける。
咲夜はとうとう、前のめりに転んでしまう。
「いい加減に……しろ!!!」
風牙は、全身から傀朧を放出する。びりびりと空気を震わせるほど、怒りが伝わってくる。
(こいつ……!)
爆発的に発生した傀朧に危険を感じた鐡夜は、再び刀に手をかける。
「……テメエは危険だ。拘束があるうちに殺す!」
「やってみろよ……!」
風牙はあふれ出す怒りの傀朧で、全身を強化しようと試みる。
鐡夜はそれより早く刀を抜き、風牙の首を斬り落とそうと刀を振るう。
――――――ゴーン。ゴーン。ゴーン。
鐘の音。
鐡夜はその音に驚き、風牙の首を斬り落とす寸前で、刀を止める。
「鐘……だと」
このような深夜に、通常鐘が鳴ることはない。
三連続の鐘の意味、それは緊急事態を告げる警鐘。
遠くで爆発音が聞こえた。次いで何かが倒壊する音。本邸の方角だ。
鐡夜は唇を噛むと、刀を持たない左手で風牙の顔面を殴りつける。
「何しやがった!!! 言え!!」
焦る鐡夜は、何度も風牙の顔面を殴る。
「やめて!!」
咲夜は、背中から鐡夜に抱き着き、止めようとする。
「チッ。ウゼェんだっつってんだろ!!」
咲夜の数秒の抵抗の間、風牙は腕の拘束を解くことに、全傀朧を集中させる。
「うおおおおおおおおりゃあああああああ!!!!!」
風牙の咆哮と共に発せられる傀朧の圧が、空気を伝う。結界を構成している地蔵にひびが入る。力を出せるようになった風牙は、腕の拘束を椅子ごと破壊する。自由になった風牙は、すぐさま咲夜を守ろうと鐡夜に突進する。
「なっ……!」
風牙は、咲夜を庇うように鐡夜から引き離すと、鐡夜に向かって拳を突き出す。拳に纏わせた傀朧の塊が、鐡夜の顔面で炸裂する。
殴られた鐡夜は、地蔵堂の壁を突き破って外に転がった。
「……く、クソがァ!!」
鐡夜は、顔面を押さえ、悶絶する。
――――――痛い。殴られたはずなのに、突き刺されたような痛みがする。
このままでは、風牙を逃がしてしまう。鐡夜は、刀を構えようと立ち上がる。
“グチョ、グチョ、ギギギ……”
――――――その時、鐡夜の背後で何かが蠢くような音がする。
「……はあ!? 今度はな……」
背後に突如現れた、冷たい傀朧――――――鐡夜が振り向いた時、黒くて弾力のある大きな腕が、鐡夜の全身を押さえつけようと伸びてくる。
「……ッ!!」
巨大な腕が鐡夜を包み、鐡夜は地面に押さえつけられる。刀で何とか黒い腕を押しとどめるが――――――重い。とても長くは持ちそうにない。
「な……なんなんだよォ!!」
鐡夜を襲ったのは、黒い人型の化け物だった。体長は二メートル以上あり、太くて弾力のある腕を持っている。顔にあたる部分には、般若の面が付いていた。
鐡夜は、何とか地蔵堂の方へ顔を向ける。
風牙が化け物を呼んだのか。そうとしか考えられない。
鐡夜の目に、半壊した地蔵堂の壁から出てくる風牙が映る。このままではまずい。やられてしまう。
「……なんかよくわかんねーけど」
――――――刹那、風牙は化け物を殴り飛ばす。
吹き飛ばされた化け物の体は、木を数本なぎ倒し、停止する。
「は……」
鐡夜は、呆気にとられる。
風牙が、自分を助けた。わからない。意味がわからない。
「傀異か、これ?」
鐡夜は戸惑うも立ち上がり、再度風牙に刀を向ける。
「何がどうなってんだよォ!!」
「あ‟!? さっきからうるせえな!! ボコスカ殴りやがって! んなこと俺が知るか!!」
風牙は頬を押さえると、不貞腐れた表情で鐡夜を睨みつける。
行きつく暇もなく、二人の耳に入るのは爆発音。次いで、人の悲鳴。
それは、地蔵堂よりも山の下、本邸の方角から聞こえてくる。
状況はよくわからない。だが、この屋敷で何かが起こっている。それだけはわかる。
行かなくては――――――人を、助けなければ。
いつだってそうである。風牙の心を突き動かすのは、心に刻まれた使命感だった。
煤けた記憶――――――浄霊院紅夜にすべてを奪われたあの夜に、風牙が目にした地獄のような光景。
――――――人を助けろ、男なら。胸を張って誰かのために。
「おい」
風牙は、冷たく鐡夜に話しかける。鐡夜はその声にビクッと反応する。
「さくやに、ちゃんと謝れよ」
風牙はそう言い残して、夜の森へ駆けていく。
「………おい!! どこへ行く! 待て!!」
鐡夜は手を伸ばすが、風のように去った風牙を止めることはできなかった。
「ふざけやがって……!!」
地蔵堂から一連の流れを見ていた咲夜は、走り去る風牙を見ていた。
風牙はまだ完全に回復していないのではないか。行かせてはならない。そんな気がして、咲夜は地蔵堂を飛び出した。
歯を食いしばる鐡夜の横を、通り過ぎる。
「待って……!」
咲夜は、風牙の後を追って森に入る。
足元のおぼつかない山の斜面。履いていた草履が脱げそうになる。転びそうになっても何とか踏ん張った。
(だめ……行かないで)
何が何だかわからないくらい、状況が目まぐるしく変わりました……わかりにくかったかもしれません。
黄色いゼラニウムの花言葉は、「予期せぬ出会い」です。
まさに、この2人の出会いは咲夜にとっての予期せぬ出会いだったのでしょうね。
ちなみに、ゼラニウム全体の花言葉は、「育ちの良さ」「尊敬」「信頼」「愚かさ」など。
プラスの意味とマイナスの意味、両方あります。
作者的に、2人にぴったりだと思い、選出しました笑
さて、次回はいよいよ1章の佳境! 屋敷のピンチに風牙はどうするのか。
戦闘シーンが、あるかな? (緊張案件)




