第五十四話
雪惑いの日記。それは真実のみの日記。
雪惑いが五感で得たすべてを記述し、撹拌し圧搾し、抽出した言葉だけが刻まれる日記。
ハルニアの語る言葉、その一挙手一投足、顔立ちから衣服まで。すべてを記述した上で絞り出された言葉は一つ。
「林檎は完成しない……」
円楼を歩きながらつぶやく。
それは常識的感覚というものだろうか。氷点下の世界で実をつける果樹はない。だからそう言っているのか。
「しかし……無駄な努力だと確信しながらシェットを応援していることになります。なぜそのようなことを……」
シェットは林檎の完成を疑っていない。おそらくは、かつて雪の中で見たという光景のためだろう。それが本当にあった光景か、それとも何らかの錯覚か、幻想か、そこまではシャルロットにも分からない。
円楼は六角形の回廊が中庭を囲む構造である。他の円楼と繋がっているため、考え事をしながら歩くといつの間にかかなり離れた場所まで行ってしまう。構造的に行き止まりが存在せず、ひたすらに歩き続ける。
それから、さらに日々が流れる。
その日は朝から雪が降っていた。ハルニアは広めの作業部屋にいて、大きな板にずっと絵を描いている。それは天井板になるという。
シャルロットは円楼の屋根から雪を下ろし、いくつかの雑事を終えてから作業部屋に来る。顔料を溶かす油の匂い。真新しい木材の匂い。ハルニアは板に這いながら作業を続けている。
「見事な絵でございます」
「そう、ありがとう」
ハルニアはそぞろに答える。虫の足のように小さな筆で、複数枚の板材に細密画を描く。
絵は抽象的なものだった。迷路のように曲がりくねった線が絡み合いモザイク画を描く。赤と青が混在する場所は遠目には紫となるが、色はけして混ざり合わない。すべての色は顔料から得たそのままの色で置かれるが、人間の目はそれを混合色で捉える。数十色の顔料が数千色に変化する。
絵筆を置き、しばらく絵を見つめる時間もある。
「ユウエンの円楼は美の世界なの」
そのように言う。独り言だったのかも知れない。
「円楼は生き物でもあるし、複雑な機械でもあるし、一つの芸術でもあるの。細かな色で大きなものを表すの。大きな流れがささやかなものを表すの」
「ハルニア様は、そのような美の心得を誰から」
「ユウエンの冬守りなら誰でもできる。円楼がすべて教えてくれる」
「すべて……」
「私たちのいる場所が、私たち」
詩のように言う。それはハルニアが信条としている言葉だと分かった。常に己に言い聞かせ、人格と同一視されている言葉。
「ユウエンの村人は円楼とともに生きる。円楼の美しさは、私たちに美を生み出す力を与える。円楼の機能美は、私たちにそれを理解する力を与える。円楼が私のすべて、円楼もまた、私からすべてを受け取る、そして新しく生まれなおすの」
幻視。
色彩のなかで記憶が融ける。
過去と現在、彼岸と此岸、自己と他者が混ざり合う。座標の消失。
本に囲まれていた。
積み上げられた日記は旅のなかでくすんだ色となる。壁を飾るタペストリ。モザイク模様の板の間を這うのはたくさんの子供たち。立てかけられた絵画。
――多くを見て、多くを聞きなさい。
老婦人が一人、あぐらを組んで座している。緑のショールをかぶっていて顔は見えない。どこかから香る高貴な音色。誰かがオルガンを弾いている。
――かぐわしき香りを嗅ぎ、微細なるものに触れなさい。
蝶の形をした金属細工をもてあそんでる子がいる。絵画を眺めている子も。
老婦人は長い筒で煙草をくゆらせる。その香りは大樹の幹のよう。
――雪惑いは己の感覚だけを信じる。主観の世界に偽りは許されない。
子供たちは言葉を交わさない。互いに触れて、匂いを嗅いで、目と目で意志のやりとりをする。そのように鍛えられている。あらゆる感受性の枝を無限に伸ばされる。
――禁忌なることは、言葉。
音はない。すべては日記の記述。世話役である老婦人たちもひと言も発することはない。
――言葉に耳を傾けてはならない。言葉は他者の主観だから。
日記の記述が、何度も同じ言葉を繰り返している。
日記が雪惑いを作り、雪惑いの一生が日記となり、その円環が永遠に――。
「どうしたの」
ハルニアの言葉は丘の上から響く晩鐘のようだった。ゆっくりと意識が戻ってくる。
「いえ、何も」
シャルロットは頬が熱くなっていると感じた。今の忘我は数秒か、あるいは数時間のことか。金盞花の館にいた頃の記憶。
ゆっくりと頭を振り、そして艷やかな唇に指で触れてから言う。
「ハルニア様、雪惑いは嘘を恐れます」
「? 何の話?」
「雪惑いの日記は嘘が許されない。記されることすべてが真実でなければならない。だから我々は問いかけることを恐れます。問いかけるというのは、真実の探求においてはきわめて危うい行為だからです。言葉である以上はけして事実ではない。お分かりですか。言葉は実存とは別次元の事象なのです」
シャルロットも座り、描きかけの天井画を眺める。細緻にして極致なる色遣い、すべての色は規則に沿って並んでいると分かる。
「問いかけることはいけないの?」
「はい、言葉には真実ではないものが混ざる。偽りを語るというだけではございません。語り手がこうだと信じていても、事実とは違うこともある。そして問いかけてしまったからには、その返答に重きを置かねばならない。だから恐れるのです」
「ふうん」
「ですが、雪惑いが真に追い求めるものは……」
それは真実でも、事実でもない。
確信でも、証拠でも、歴史でもない。
真に追い求めるものは、絵空事の彼方。
この世の摂理を超えしもの。あり得べからざる事象。時に言葉にては語れず、目にも見えないもの。
「どうしたの?」
「いえ、これは私の、興味からの言葉である、ということです」
意を決するように息を吸い、シャルロットは震える唇を開く。
「なぜ、林檎の木が完成しないと思っておられますか」
「――ああ、そのこと」
ハルニアは膝を抱え、シャルロットに静かな流し目を送る。そこに妖しげな光がある。
「記録、ぜんぶ捨てたから」
「捨てた……のでございますか?」
「シェットのお父さんの記録よ。林檎なんか完成してない。シェットが雪の中で林檎の木を見たって言ったでしょ。あれはね、ただの勘違い」
「勘違い、というのは」
「温室の林檎を寒空のなかに植えただけ」
それは実験だったらしい。温室に外気を取り入れて気温を下げていき、最も低い温度まで耐えていた樹を雪の中に植えた。
「もちろんそんなことがうまくいくわけない。すぐに凍害で枯れてしまった」
すべての葉は落ち、樹皮は水気を失い、林檎もすべて落ちてしまった。土を掘ってみても根を張っておらず、見るも無残に枯れてしまったのだ。
「林檎の木を一本だめにする。とても許されることじゃない。実験というより、完全に捨て鉢になっていたの。きっと、シェットのお父さんは絶望していたのね。冬守りを続ける気力がなくなって、奥さんと一緒に村を出た。それが真相。くだらないでしょ」
「それは、悲しい話でございますね」
「そうかしら。滑稽な話よ。長い冬の時代にはどこにでもありそうな話。冬の長さに耐えかねて気がふれてしまったというだけの話でしょ」
ハルニアは薄く笑って、紙を破るような仕草をする。
「その記録は私が破り捨てた。結局、冬に実をつける林檎なんてないの。シェットの実験はきっと成功しないけど、別にいいよ。冬守りとしてこの村で生きていけばいいだけ」
ああ、やはり。
胸をせり上がる感情がある。シャルロットの体が震え、膝を抱えて感情の波に耐えんとする。手の甲が粟立ち、呼吸が浅く速くなる。
「あなた泣いてるの?」
「ええ、そうでございますね」
ゆっくりとハルニアの方を向く。驚いた顔と目が合った。シャルロットは大粒の涙を流していたから。
「どうして泣くの……」
「やはり、問いかけなどするべきでなかった、と思ってございます」
「……シェットに同情してるの?」
「いいえ、いいえ」
雪惑いにとって言葉を求めることは禁忌。言葉は重んじるが、問いかけてはいけない。自分はなぜハルニアに問いかけたのだろう。そんな必要はまったくなかったはずだ。
ただ、触れたかったのだ。冬に実る林檎という神秘に触れたかった。だからそれを信じないハルニアが理解できなかった。言葉を求めようとした。
なぜなら、あの林檎は。
「ハルニア様、あの林檎は完成するかもしれないのです」
「え……」
「ハルニア様がどう思っていようと、過去にどんな真実があろうと、たとえ自然の摂理に反していようとも、世に生まれてくるものがある。それが魔法。冬守りが何十年という人生をかけて、生み出す魔法なのです」
「どういう……」
「もうお暇いたします」
シャルロットは立ち上がる。その目は腫れぼったくなっており、感情の震えは一つの点に収束しつつあった。
それはひと言で言えば、恥ずかしいという感情。
わずかだが雪惑いの禁忌を犯した。円楼の美しさ、絵本のような美の世界の中で我を忘れたのだ。ハルニアから、実は信じているという言葉を聞きたかった。なんと愚かなことをしたのか。
「5年後、いえ、10年後にもう一度だけ訪れようと思います。もし冬に実る林檎が完成していれば、私の日記に記録いたします」
「な、何を言っているの……そんなものできるわけが」
「ハルニア様の認識はそれで結構です。ですが、魔法とはけして定まった世界のものではない」
この場から消えたかった、あるいは世界から。
立ち上がり、逃げ出そうとする瞬間。
「待って!」
裾をつかまれる。絵筆を持ったハルニアがそこにいる。シャルロットはその声の必死さに振り向く。
「待ってよ……本当に林檎は完成するの? 完成したら……完成したら、きっとシェットは」
「きっと、林檎を広めるために旅に出るでしょう。そうしなければ意味がありません」
「でも私は旅についていけない……旅をしたことないし、ユウエンの村を、円楼を守らないと……」
「いかんともしがたい事にございます。人が魔法を手にしたならば、生き方はきっと魔法が決める。魔法に引きずられて生きるのでございます。私たちのように」
「そんなの……そんなの嫌よ。どうしてそんなことになるの。シェットも私も、何も悪いことなんかしてないのに。この村で生きていければそれで十分なのに」
「魔法がなぜ生まれるかは誰にも説明できないのです。ただ、超常なる人生の中で生まれる。常ならぬ時代、常ならぬ境遇に置かれた冬守りの方々が魔法を生むのです」
「常ならぬ……」
「もう行かなければ、ご容赦ください、ハルニア様」
そしてシャルロットは部屋を出て。自室に行って己のコートをひっつかむ。
荷物はすべて持ってこれなかったかもしれない。背後からハルニアが呼んだかもしれない。どこかでシェットとすれ違ったかもしれない。
もはや脇目も振らず、雪の振りしきるなかに出る。
日は西の果てに落ちかけている。道とおぼしき範囲には膝まで雪が積もっている。吸い込む空気が一気に肺を冷やし、雪をかき分ける一歩に耐えがたい重さを感じて、それでも歩く。
どこまでも、行けるところまで、旅のなかに己を投げ込むように――。
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「そう、旅を続けなきゃいけないなら、仕方ないね」
シャルロットが消えたことを説明したが、シェットは軽く返すのみだった。
シャルロットの豹変と遁走、ハルニアももやもやとした感情を抱かぬではなかったが、それ以上にほっとしている自分も感じていた。
(……仕方ないよね。雪惑いは一生、旅を続けるって言うし)
シャルロットがシェットを誘惑する。それをどこまで本気で心配していたのかも忘れてしまった。いなくなってしまえば、それ以上に心配する義理もないだろう。
「ハルニア、ところで天井画はもうできた? 大変なら手伝おうか」
「もう少しだけど、大丈夫だよ、シェットは自分の仕事してて」
何も変わりはしない。
この村を2人で守っていく。何十年でも。
「ありがとう、もうじき目処がつきそうなんだ、新しい方法を試してるんだけど、かなり有望なんだよ」
まなじりに、痛みが。
「ハルニアも楽しみにしてて。5年、いや10年以内には、きっと……」




