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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第九章 仄白き虚ろ
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第五十一話



シャルロットは村のあらゆる場所を探し回った。しかしどの家にもいない。


大穴に行ってみる。穴は何も変わらない。もちろん縄梯子が下ろされているということもない。


「……オークーさま」


オークーは穴の底へ降りたのだろうか。柵を越えて身を躍らせたのか。


なぜ。


シャルロットは遠眼鏡を用いて穴を観察する。やはり白いもやがかかっており、人がいるかどうかは分かりにくい。


シャルロットは数日待つことにした。誰もいなくなったリハットの村で、ひたすらに待ち続ける。冬守りとしての仕事がほとんどない村でただ一人、それは退屈とも不安とも言えない宙に浮いたような時間。


7日が過ぎた頃。シャルロットは柵に縄梯子を結わえ付け、縦穴を降りていた。


仮にオークーが穴に落ちていたならどうなるのだろう。引き上げるべきだろうか。しかし100メートル近い縦穴。人間を背負って縄梯子を登るのは不可能ではないが、かなり困難だろう。


そもそも確認することに意味があるのだろうか。この穴を飛び降りたなら生きているはずはない。


オークーが荷物を持って出た形跡はなかった。山を越えて他の村へは行けない。穴に落ちたにせよ、村を出たにせよ、一月も経てば命の火が絶えたことは明白である。


だが、確認しないという選択はない。穴の底にはオークーがいるかも知れないから。この時代、人間そのものが希少な時代において、誰かを見捨てるということは許されない。


「……縄梯子で100メートルも降りられるはずはございませんね。ものの本では、安全に降りられる距離はせいぜい30メートルほど。この縄は古いものかも知れませんから、せいぜい10メートルまでにしておきましょう」


ロープの素材は豊富にあった。シャルロットは縄梯子を最後まで降りると、鉄杭を使って縄梯子の下端を固定、さらに別の縄梯子を降ろす。


円筒形の岸壁は白い。氷が張った岩である。暖かく思えたリハットの村でもやはり氷は張るのか。


「……崖に人工的な痕跡がありませんね。やはりこの穴は何にも利用されてなかった……」


作業には1ヶ月ほどを要した。


上下したハシゴの段数は数千段。慣れない作業ははかどらなかった。


毎日、疲労の極みに達する前に引き上げ、湯に浸したタオルで両手両足を包んで横になる。全身が熱を放散し、土を煮たような体臭が部屋に漂う。そして一時間以上かけて関節を揉みほぐす。


やがて、最後の縄梯子が降ろされ、シャルロットが大穴の底へと折り立つ。


この時、シャルロットは背中に日記を結わえ付けていた。何かがあれば記録するつもりだったが、それはまだ背中にある。


「暗い……」


大地は岩である。土がまったくないむき出しの岩場。だが岩と岩の隙間に苔が生えている。緑色のもの、黒っぽいもの、ぼんやりと発光するもの。緑があったように見えたのは苔のためと分かる。


大地はじわりと熱を持っていた。触れてみると確かに温かい。この苔は地熱によって育つのだろうか。


「そうですね、深さ100メートルの縦穴です。発光する苔では光源としては不足。白いもやのために明るく見えていたためで、本来はとても暗い場所なのでしょう」


何もない。


岩に根を張った立ち枯れの木。誰かが落としたのか木片や布きれ、大気の動きは地上よりさらに少ない。白いもやという神秘性のヴェールをくぐれば、ただの荒れ地でしかなかった。


「オークーさま」


呼びかけてみる。だが、誰もいないことはすぐに分かった。


壁に横穴もなければ、人が隠れられるような遮蔽物もない。もやがかかっていたために、はっきりと見えていなかっただけだ。


もちろん飛び降りたという冬守りたちの死体も、人を魅了するという谷間の精霊ナパイアもいない。ただ暗い岩場。その事実は物悲しいものがあった。


があん、と。


岩に跳ねるのは鉄杭。そして縄梯子が落ちてくる。


「……」


上空を見る。穴の縁が円形に見える。


「オークーさま」


呼びかける。遥かに100メートル上空であるが、声は円筒形の空間に反射し、発声よりも大きくなって上に届くかに思われる。


「あなたが、冬守りたちを落としていたのですね」

「ええ、そうよ」


オークーの声も穴の底まで届く。反響がそうさせるのか、それとも実際には声など聞こえていないのか、すべての問いかけと応答はすでに終わっているのか。


オークーの声は悪びれるというより、つまらなそうな印象だった。言葉は義務として言わねばならないが、それを自分に対するひどい仕打ちであるかのように語る。


「最初に落ちたのはひどい男だった。他の冬守りたちを暴力で従わせようとした。だから刃物を突きつけて穴の底に下ろした。太く頑丈なロープにしがみつかせて、みんなが協力して下ろしたの。懲罰のつもりだったのよ。でもあの男はおそろしい悪態ばかりついた。だから食べ物も与えなかった。やがて動かなくなった」

「そのお方は……死体はどうなったのです」

「さあ、すべて消えたから、わからない」

「消えた……」


オークーの声が穴から離れた印象がある。虚空を眺めながら話しているのか。


「二人目は若い女だった。私の恋人だった男を誘惑しようとした。だから穴に落とした。穴の底でぴくりとも動かなかった」

「これほどの高さです。当たり前でございます」

「三人目の冬守りは、そのことで私を責めた。だから落とした」


説明が大幅に省かれていると感じる。オークーは説明を面倒がると言うより、ほとんど思い出そうともしていない。


「三つの死体が穴の底に残った。まだ長い冬が始まって数年。私は王都からの役人が来ることを恐れて、山の上に身を隠した。鉱夫が使う小屋がたくさんあるの」

「なるほど……宝石の鉱床は山の上にあるのでしたね。今回もそこに身を隠していたのですか」

「そしてしばらくして戻ってみると、穴の底にいた三人は消えていた。どんな人間だったか、果たして本当に落ちたのか、知ってるのは私だけ、だから私が自由に決める」


オークーには少しの高揚があると感じる。声が少しずつ弾んできている。つまらない第一幕が終わり、好ましい第二幕が始まるのだと。


「望ましくないものは穴に落とせばいい。そうすればすべて消える。あとは私が決めればいいの。シャルロット、あなたという素晴らしい冬守りが村にいて、そして私のあとを継いでくれた・・・・・・ことにする・・・・・

「それは妄想でございます」

「そうかしら? 死んだあとのことなどすべて妄想のようなものでしょう? 私はたくさんの冬守りたちと幸せな時間を過ごして、そして何一つ不安を残さずに死ぬの。私にはそれができるの」


奇妙な幻視がある。


声の主はまるで若い娘のようだ。可憐で華やかで、それでいて悪意を秘めた魅惑的な笑顔。眩しいばかりの少女。


オークーという人物が生きてきた数十年が、すべて少女一人の妄想であったのかと、シャルロットにもそのような幻視がよぎる。


「あなたもやがて消える。理屈など分からない、きっとそうなる。消えなかったとしても、私はあなたが落ちたことを忘れる。それですべて終わりよ」


シャルロットは。

雪惑いの女性は目を細め、ひそやかに声を放つ。


「オークーさま。私は期待していたのです」


声は返らない、だが聞こえていると感じる。


「穴に落ちたものが消える。それは素晴らしい魔法になり得た。リハットの村には縁のないことですが、この長き冬の時代、大雪に悩む村は多いのでございます。もし、投げ込んだものが消えるという事象が魔法であるなら、雪を処理するのにどれほど役に立つことか。人はまた、大いなる冬に立ち向かう武器を手に入れられたのに」


オークーの声は返らない。だが、もやにかすむ中に点のような人影を見た気がした。シャルロットが何を言っているのか分からず、怪訝なまなざしを落とす人影が。


「だがこの穴は魔法ではない。私を消すための何らの道理もないのです。雪惑いにはそれが分かる。真なる魔法の影が分かる」

「何を……言っているの」


オークーの声に、鋭い視線を返す。


「ここには魔法はない、しかし穴に落ちた冬守りたちが消えたなら、それは明らかに超常的なこと。ご存じですかオークーさま。長き冬の時代にのみ現れる二つの魔法。かりそめの命を持つ二つの神秘、呪い、歩き回るおとぎ話とでも言うべきもの」

「分からない……何の話をしているの」

「一つは商人。永続なる命を持ち、無数の魔法を操る冬の支配者。だがあなたに何も破滅が訪れていない、ではもう一つの可能性」


日記が。


背中に負っていた日記がひとりでに開き、ページが半円形にめくれる。空気の動きのないこの穴の底で。


「あなたが山の上に逃れていたとき、この村を訪れた何者かがいた。無人の村と、穴の中の三つの死体。その人物はどう考えたでしょうか。墓穴を掘ることもできない岩場。背負って登るのは困難な高さ。せめて亡骸なきがらの悲哀なることを癒すため、その死体を消すしかできなかった」

「死体を……消す」

「ご存じですか、雪惑いの日記には嘘を記すことが許されない」


ページが凄まじい速さでめくれている。一体その日記にはどのぐらいの紙が挟み込んであったのか、櫛の歯を指で弾くような音を立てて、半円形の残像を残して。


「なぜ許されないか、それは雪惑いの日記にはひとかけらの・・・・・・嘘もないから・・・・・・

「何を……何を言っているの、あなたは一体」

「この地にて冬守りたちの歴史あり」


一枚の紙片が日記帳から外れ、ツバメのように周囲を旋回する。シャルロットの指には油煙ゆえんの色をたたえた万年筆が。


(……2カ所、かなりしんどそうです)


「すれ違いのいさかいあり、一人を残しすべて大穴に落ちたる悲劇、その死のむなしきことに憐れみあり。この地を訪れたる者、すべてを斬る剣を持ち、夢幻ゆめまぼろしの境界より到れる者」


紙片がシャルロットの正面で静止する。複数の方向から巨大な腕で引っ張られるように紙が引きつった硬直を見せる。シャルロットの万年筆と、紙との間に奇妙な斥力が働く。きいい、と高音が縦穴を駆け登る。


そして文字が抜ける・・・・・・


刺繍から糸を抜くように、文字が紙からはがれて霧散する。そこに振り下ろされるペンの先端。


刻まれるのは一文、紙片と万年筆が巨大な重力場の中でもつれ合う。




かつて 越冬官 ニール いくつもの死体を 斬る


■■■ 越冬官 ニール ■■■■■■■■ 斬る


この時 越冬官 ニール 果てしなき大穴を 斬る




赤い鎧。


布飾りで飾られている、すりきれた鎧。塔のような背嚢を背負った、虚ろな面差しの男。


その手には刀身のない剣。その柄から、光の柱が。


「雪惑いが持つのは第三の魔法。あらゆる事象を記録し、再現する、言葉の神の具現。魔法の本という神秘の原初の姿」

「まさか……!」


大穴がねじれる。


そうとしか見えない事象が起こる。見上げる限り果てもない白い大穴がねじれ、その姿が細剣レイピアのような細身の魚となる。その巨躯、身をねじり襲い来るさま、白く輝く激流のごとく。


赤い鎧の剣士が前傾となり、土煙を残して走る。

目にも止まらぬ踏み込み、龍のごとき魚影と交差し、その側面に剣が。斬り裂かれる一瞬、吹雪のごとく鱗が舞って。


はっと、目を見開く。


シャルロットの脇ではオークーがへたり込んでいる。あおむけの体勢で腰を抜かし、虫のように手足を動かしている。


穴は、消えている。


ただ円形の柵だけがある。牧場でもあったのかと、そんな言葉がシャルロットの脳裏をかすめる。


「あ、ああ……」


オークーは、怯えと混乱の極みにあった。シャルロットから逃げるように動くと、柵にあたってそれでもさらに後退しようとする。


少し寒さが増した気がする。風の動きも。


「リハットの村を温順に保っていた大穴、それは消えてしまいました。この村は、少しだけ寒さが厳しくなることでしょう」


雪がちらついてくる。風が頬にあたり、寒さという言葉を久々に意識する。


「わ、私を、どうするの」

「何も」


シャルロットはきびすを返す。


「あなたが冬守りたちを落としたという証拠は無いのです。私にはあなたを捕らえる権限もございません。冬守りを続ければ良いでしょう」

「つ、続ける……」


その顔に、絶望のようなものが垣間見えた。


百年の冬を生き続ける。その苦難がまさに今から始まろうとするかのような。


シャルロットはその顔は見ていなかった。歩を進め、村の端の最後の一軒を抜けて、山道へと入る。


「越冬官さま、あのお方は超常ではありますが、完璧ではございませんね。オークーという冬守りの存在に気づかなかった」


振り返ることもない。もうあの村には何の興味もなかった。


「西方を旅していたのでしょうか。私も少し、その足跡そくせきを追ってみましょうか」


旅立ちの足取りは軽く、心は前へ前へと向いている。


雪惑いは、旅することがすべて。



心は常に、神秘と魔法に恋焦がれている。


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