第三十四話
永い冬の時代。
百年続くとも言われる停滞と静寂の時代にあって、それでも人は生き続けていた。
雪をかき分けてその日の糧を求め、身をひそめて命の熱を守り続ける。
冬の時代でも育つ黒槍樹。鉛ガラスを用いた温室。ゴーと呼ばれる優れた家畜。そして冬守りと呼ばれる人々。
百年の長い時間を、命を繋ぎ、世代を繋ぎ、人の住処を守り続ける人々。
だが百年という時間。
その長さは、それ自体が畏ろしくーー。
※
「クロノガレルの人口は、冬に入る前は2200人あまり、けして大きくはないけど、歴史のある立派な街ね」
赤布で飾られた人物。ニールがその街を見下ろす。円形にまとまった市街地があり、周辺に民家が散らばっている。冬が始まる前は広大な農地が広がっていたものか。
「えっと、確か、職人の街だったと聞いてます。時計とか、人形とか」
少女が一人。白い衣装の上から毛皮のケープを羽織っている。足元も毛皮を使ったひざ丈のブーツである。膝回りには肉がついておらず、やせ気味である。
名をリラという。外見は10代半ば。最初に会った時よりはいくぶん大人びて見えるが、まだその顔には幼さの名残りがあり、艷やかな口元は不安ですぼまって見えた。
リラは胸にギンワタネコを抱えている。特に飼い猫ではない。ギンワタネコを連れているとニールとの会話がスムーズになるためだ。ニールは先ほどから女声の腹話術で話している。
「中央にあるのが大時計塔。クロノガレルの職人たちが作った機械仕掛けの時計塔で、冬に入る前は時刻を告げる鐘を鳴らしてたそうね。リラ、聞いたことはある?」
「いいえ、私が生まれてからはありません。亡くなった父と母も聞いたことはないと言ってました」
「そう、人口2200人の街なら40人近い冬守りがいるはずだけど、まあ、時計塔を整備する余裕はなかったのかしら」
王の定めたる法にはこのようにある。冬守りは、どれほど小さな村であっても二人を選出すべし。村の人口が百人を超えるごとに、その都度さらに二人を任ずるべし。
2200人の街ならば単純な計算では44人の冬守りがいる。数百の建物を保全し、さまざまな天災から街を守るのであるから、そのぐらいは必要だろう。
しかしニールが旅をしている間、この基準が守られている村も町もほとんどなかった。果たしてクロノガレルの現状はどうなっているのか。
「ドナさん。あの街に、「怪物」がいるんでしょうか?」
「そうね、おそらくは」
リラは背後を見る。三叉の槍のような山体、霊峰スワニエルは少し遠くなったと感じるが、変わらず北にそびえている。
「リラ」
ふと、ニールが男性の声で問いかける。
「あなたはスワニエルの意思に触れたかと思います。クロノガレルに怪物がいる。それを排除せねばならないという意思です。その怪物がどんなものか分かりますか?」
「分かりません……時々、記憶を失うことがあって、その時は何だか怖いような、焦るような、そんな感情が渦巻いていました」
「分かりました。ともかく街に乗り込みましょう」
斜面を下る。この時代、道も階段もほとんど失われるか、雪の下にあって見つけられない。ニールは慎重な足取りで雪の斜面を下り、リラがそれに続く。ニールは背後のリラの気配に注意している。リラが転んだときはすぐに助けるつもりなのだろう。
「ちょっとニール。まず遠眼鏡で観察すべきじゃないの」
「いいえ、雪崩が不完全だったことは気付かれているはずです。向こうからは斜面を下る我々がよく見えます。見張っているならすでに見つかっています」
ニールが行う腹話術は何なのだろう。とリラは考えていた。ニール自身は、越冬官としての務めを果たすため、女性的な視点を飼っているのだと説明していた。
しかしドナと呼ばれる女性の声と、ニールの間には何らかの関係性がある気がする。おそらくはドナのほうが年上。ニールを教え導く立場ではあるが、ニールが頑固者なためになかなか言うことを聞かずに難儀している、そんな印象だ。
ドナという女性は、かつて実在したのではないか。それは自然な想像だった。
それを聞いてみたくもあったが、今はともかくもクロノガレルである。
そしてリラは、石造りの街というものを初めて見た。
すべての建物が大きく感じられた。
二階や三階建ての建築物が並び、ガラス張りのショーウインドウを持つ商店がある。色彩豊かな看板があり、剥がれかけてはいるが商品のポスターもある。水路があり小さな橋がある。空き地には山積みにされた石材や木材がある。
土壁に飾り皿が埋め込まれている。花壇があり、花が咲いているように見えたが、それは木で造られた造花だった。外壁の補修のために足場が組まれた建物がある。黄色に塗られたベンチがある。
リラは物珍しそうにそれを眺める。建物の屋根は雪が降ろされており、褐色のレンガの屋根や、タールを塗った黒い板の屋根もある。上から下まで珍しいものに溢れていた。実際には風景のほとんどは灰色の石であったが、リラにとってはこの世の色彩をすべて使い尽くすような極彩色に思えた。
こふ、とわずかな咳の音。
ふと視線を向ければ、辻で大工仕事をしている男がいた。どうやらドアを作っているらしく、息を白くしながら木材に彫刻を施している。
その人物はニールとリラに気づき、にこりと笑いかける。
「やあ、旅の御方ですか」
年の頃は15、6か。赤毛の髪がぼさぼさのまま膨らんでおり、目を半ば隠している。丈夫そうな作業用のツナギの上に白いエプロンをして、手袋をしてない指は赤らんでいた。
「はじめまして、越冬官のニールといいます」
「へえ越冬官さま、本当にいなさったんですねえ」
職人らしき少年は手を止めずに言う。ドアには蝶の行列を思わせる図柄が彫り込まれていく。こふ、と小さな咳を時おり挟む。
「僕はエリオと言います。クロノガレルの大工仕事を一手にやってますよ」
「こ、こんにちは」
リラがやや遅れて頭を下げる。好奇心旺盛な年頃ではあるが、いかんせん、生きた人間は片手で数えるほどしか見たことがない。まだ緊張しているようだ。
「エリオ、この街の冬守りの方々と話をしたいのですが」
「冬守り? ああ、冬守りですか。お役目のことですね。でもまあ、今は男たちは黒槍樹を伐りに出てますから、夕方までは帰らないですよ」
「女性の方々は」
「え? さあ、みんなそれぞれの家にいるんじゃないですかね。共用の洗い場なら街の東側ですが」
と、ぽんと手を打つ。
「それより越冬官さま、宿は街に一つきりですがご存じですか。僕が先に行って話をしときますから。ほら、ずっと向こうに赤く塗ってある建物があるでしょう。あそこまで来てください」
と、ドアを手近な建物に立てかけ。走っていってしまう。リラはあっけにとられてそれを見送る。
「この街では冬守りの意識が希薄のようですね。皆さん、平穏に生きているようです」
「冬守りのこと、忘れかけてるってことですか、そんなこと」
「あら、それは喜ばしいことよ」
リラの腕の中で、ギンワタネコが長いあくびを漏らす。
「冬守りは責務ではあるけど、追い立てられるものであってはいけない。自然に生きているならそれが一番いいのよ」
「それは……そうかも」
リラは何となく納得する。そういえば自分もあまり冬守りの役目に追い立てられてはいなかった。もう一人の冬守りが働き者だったせいでもある。
「行ってみましょう」
ニールが歩き出し、そして三百歩ほど歩くと赤い建物に着く。エリミューズ・ホテルという看板が出ていた。
「ニールさん。ホテルって何ですか?」
「旅人などを泊める宿泊施設です。お金を貰って、その対価としてベッドや食事などを提供します」
「お金……って、あれですよね、銀でできた丸いやつ……」
リラの認識はぼんやりしている。ニールはそんな
リラのほうを振り返り、その目に何とも言えぬ複雑な感情を浮かべる。
「いらっしゃい、越冬官さまだってね」
宿の亭主は60がらみの白髪の男である。奥からふくよかな女性も出てきて、ニールの姿をしげしげと眺める。
「あれまあ、旅の御方の噂に聞いたことはあるけど、ほんとにおられたんだねえ」
「私の噂を?」
「ええ、海峡の街では山ぐらいあるクジラを斬ったとか、断崖絶壁の村では人魚を斬ったとか、いろいろとんでもない話が伝わってますよお」
ニールは薄く微笑むのみで、肯定も否定もしない。代わりに宿の内装を眺める。一階には受け付けのカウンターと、テーブルが二つに椅子がそれぞれ三脚ずつ。一階の奥は厨房になっており、シチューの匂いが流れてきていた。
「クロノガレルの街は人の往来があるのですね」
「ええ、週に何人か。外からのお客が来てますよ。昔はもっと多かったんですがね」
「良いことです。宿を求めたいのですが、おいくらですか」
「一日で銀貨4枚です。食事が朝と夜中に出ます。素泊まりもできますが、食堂はここしかないですよ。雑貨屋と服屋もありますから、この地図を……」
「エリオ」
と、ニールは脇にいたエリオを呼ぶ。腕を後ろに組んでいた青年は小首をかしげる。
「どうしました?」
「できればあなたに案内してもらいたいのですが、よろしいですか」
「はあ、僕ですか?」
「手間賃はお支払いします」
そして街を巡る。
水場であるとか、共同で運営している温室であるとか、入浴のための施設もあった。リラはやはりすべてが珍しく、やや遅れがちだった。
「ねえドナさん、なんでニールは案内を頼んだんだろう」
話しかけてみるが、ギンワタネコに反応はない。リラは駆け足でニールに追いつく。
「ニールさん。ドナさんが」
言いかけて気づいた。ドナが喋らなくなった、と言おうとしたが、最初からギンワタネコは喋っていない。
「大勢の人間がいるところでは、ドナが出てこないことがあります」
だが、ニールからはそんな反応が返る。
「目立つことが嫌いな方ですからね。猫が喋るのは一般的には珍しいそうです」
脇にいたエリオはきょとんとしている。
「ええと、越冬官さま、この街灯はですね」
「失礼しました、説明を続けてください」
「はい、台座にガスのタンクが埋まってまして、それはもう明るいんです。3ブロック先まで光が届くんですよ。街の工房で作ってる鏡とガラスを使ってて……」
こふ。
また咳をしている。あまり体が強くないのだろうかとリラは思う。リラの知識には流行り病であるとか、持病という概念はまだない。
一通り街を見終わるのは数時間後だった。何度か町の人々とも出会い、あいさつ程度の会話を交わす。エリオがいると自己紹介がスムーズに進むため、そのために彼に案内してもらったのかと考える。
リラは健脚であり、ニールも当然そうだった。逆にエリオは少し疲れが見えてきた。ふうと一息をついたとき、ニールが口を開く。
「長らく付き合わせてしまいました。後は自分で見て回ります」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。まだ洗い場と井戸も見せてないですし、郊外にある家畜小屋なんかも」
「いえ、日も傾いてきました。リラさんを宿に送り届けていただきたいですし」
自分の名が出て、リラは西の空を見る。まだ夕映えも始まっていない。リラとしてはまだまだ見て回りたい気持ちがあった。
「エリオさん、私たちは宿に戻りましょう」
だが自重する。そもそも観光に来たわけではない。そのことを数時間ぶりに思い出す。
ニールは穏やかな笑みを浮かべて言う。
「エリオさん、見たところクロノガレルは立派な街ですね。この分なら何の心配もいらないでしょう」
リラにはその言葉は方便だと分かったが、エリオはぱっと顔を輝かせる。
「ありがとうございます。いい街でしょう? 小さいですけど歴史と伝統があって、確かな技術が受け継がれていて、大好きな街ですよ」
こふ。
「男手が帰ってきたらぜひ見せたかったものもあるんです。クロノガレルの時計工房ですよ。繊細で華麗な時計工房と、その技術を生かした人形がまるで」
こふ。
「生きてるかのようで」
嘔吐するような咳。
エリオは腰を大きく曲げ、湿っぽい咳を繰り返す。その様子にリラは心配になるというより恐怖を覚えた。そのような症状を見たことがないからだ。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
なんとか話しかけるも、咳の勢いがやまない。咳き込むうちに立っていられなくなり、地面に両手両足をついてそれでも咳を続けて。
何かが。
かしゃん、と繊細な音とともに、石畳の地面に散るもの。
それは銀の華のような。
鈍く輝く、金属の歯車だった。
章タイトルの読みは「ぎんかゆうえん」です




