第1話 記憶の欠落
最初の異常は、ニューヨークの地下鉄で起きた。
通勤ラッシュの構内で、少女が突然叫んだのだ。
「ここ、どこ? お母さん、って誰……?」
通報を受けた警察官が駆け寄ると、少女は名前も、自宅の場所も、言語すらおぼつかなくなっていた。
彼女はその日から、文字通り「誰でもない人間」となった。
それは序章にすぎなかった。
数日後、ベルギーの国会議員が会見中にフリーズし、その場で自分の名前も所属も忘れていた。
エジプトのアスワンでは、観光バスの乗客全員が同時に記憶喪失に陥り、身元確認すらできなくなるという前代未聞の事態が発生する。
記憶は、まるで“狙い撃ち”されるかのように、特定の人間だけから抜き取られていった。
国際社会は混乱し、医療機関は対応に追われるが、原因は不明。
各国は情報の秘匿に走り、国連特別調査団までもが“沈黙”を続けていた。
だが、その陰で一人の魔族が動き出していた。
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パリ。十一月。濡れた石畳が冷たい靴底を受け止める。
「……相変わらず、腐ったチーズの匂いが鼻にくるな」
黒のロングコートを羽織り、帽子を目深にかぶった男
アイゼンハワードは、鼻をつまみながら街を歩いていた。
その背には年代物の剣と、魔導具が詰まった鞄。
目指すは、地図にすら載っていない場所。
旧ナチスが戦中に建設し、その後パリ市政府に封印されたと噂される
「地下秘密都市」。
かつて彼が所属していたMI6《対異能特務課》から届いた一本の通信が、今回の行動のきっかけだった。
“パリ地下に、記憶を失った子供たちがいる。しかも、誰も彼らを迎えに来ない”
“そして、共通するのは瞳の奥に“誰かの記憶”が宿っていることだ”
地下都市への入り口は、13区の古書店の奥にあった。
鉄の格子を開き、古びた螺旋階段を下ると、冷たい地下の空気が肌を刺す。
だが、アイゼンは平然と歩き続けた。まるで、昔の戦場をなぞるように。
ようやく扉の先に出たその空間は静かだった。
地下鉄の廃線跡を改造した居住スペース。
ガス灯の明かりに照らされた床に、子供たちが静かに座っている。
どの顔も、無垢で、空っぽだった。
「……まるで魂だけが抜けたみてぇだな」
アイゼンがそっと近づくと、一人の少女が彼を見上げた。
だが
「あなた、パパ?」
その声には、何の感情もなかった。
まるで、“別の誰かの記憶”を借りて言葉を発しているようだった。
アイゼンは静かに目を細めた。
ここにあるのは、ただの記憶喪失ではない。
もっと根深く、狙われた“精神そのもの”の書き換え
「あの兵器が、まだ動いてるってのか……“ミメシス・ゼロ”」
かつて旧大戦で封印されたはずの禁断の精神兵器。
アイゼンハワードは、忌まわしい過去の影に、再び踏み込むことになる。
地上では誰も気づいていない。
“世界の正気”が、今まさに静かに壊され始めていることに




