プロローグ 黒き翼の祝福
古き洋館の一室。
南向きの窓から差し込む陽光が、食卓に並ぶ湯気立つ紅茶と焼き立てのパンを照らしていた。
そのテーブルの向かいに座るのは、かつて魔界で“血塗られた伯爵”と恐れられた男アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス。
そしてその隣には、彼の手を静かに握る女性、後藤幸子。
「……今日から正式に“夫婦”なのよね」
幸子は照れくさそうに微笑む。
指には小さな銀の指輪。アルがこっそり人間界の宝石店で選んだものだった。
「式は挙げないの」と言ったのは、彼女のほうだ。
「派手なのは苦手なの」と、どこか寂しげな微笑で。
だが、それでも彼女の声が“幸せ”に震えていることを、アルは知っていた。
「……わしに、このような日が来るとはの」
静かにそう呟いた時だった。
部屋の空気がピリリと震えたかと思うと、天井の隅に黒いもやが渦を巻き始めた。
「来たか……」
アルがため息交じりに言うと、次の瞬間
“バシュッ”という音と共に、小さな悪魔が宙に舞い降りた。
「お祝いに来てあげたよ、アルの奥さん!」
ツインテールに赤いワンピース、背中にはランドセルを背負った赤黒い悪魔の羽根。片手には豪華な金箔入りの瓶、もう片手にはラッピングされた小包を持っている。
「……あなたが、さっちゃん?」
幸子が戸惑いながらも微笑む。
「うん。ベビーサタンのさっちゃんって呼ばれてる。まあ、魔界じゃけっこう有名なんだよ、有能すぎて」
「今は殺しとかやってないから安心して。今日はちゃんと祝福しに来たんだから」
さっちゃんは満面の笑みで小包を幸子に手渡した。
「ほら、これプレゼント。アルの趣味じゃ絶対選ばないと思ってね。ちょっとは人間界っぽく、華やかにしてあげようと思って」
包みを開けると、そこには優しい桃色のエプロンが入っていた。
刺繍で「SACHIKO」の文字が丁寧に縫い込まれている。
「わあ……ありがとう。すごく可愛い……」
幸子は素直に喜び、目を潤ませた。
さっちゃんはくるりと宙返りしながら、もう一つの瓶を掲げる。
「これもあるよ。魔界の花の蜜酒。ちょっとだけ心がホカホカになる不思議なお酒」
「でもね、飲みすぎると本音が全部バレるから注意してね。うっかりアルの恥ずかしい話とか言っちゃうかもよ?」
「……怖いな」
幸子が笑い、アルも苦笑を漏らした。
「さっちゃんとアルって、本当に仲が良いのね。いつからの付き合いなの?」
幸子の言葉に、さっちゃんが目をパチパチさせる。
「うーん……いつだったっけ。あたしがまだ“感情”なかったころかな?」
「ねぇアル、あの時の話って、もう話してもいいんじゃないの?」
その問いに、アルは一瞬、目を閉じた。
思い出すのは、黒い空。血の雨。炎に包まれた王国。
心を失い、命令だけで人を殺していた少女。
そして、自分自身もまた“何も感じぬ化け物”だった頃の記憶。
「……あれは、わしらがまだ“心”を持たなかった時代の話じゃ」
その言葉に、部屋の空気がひんやりと変わる。
まるで、遥か彼方の魔界の風が吹き込んだように。
「語ってもええか、幸子」
「ええ、もちろん。聞かせて。アルが、どうやって“今のあなた”になったのか」
そして語られ始める。
忌まわしくも懐かしき、魔界の記憶。
それは、一人の魔界の貴族と、一人のギアチルドレン少女が“心”を取り戻す物語である。




