第三話 ヴァンパイアの血、名もなき夜に
古書店《月ノ書庫》。
駅から離れた路地裏にあるその店は、看板もかすれ、入口の鈴も鳴らない。だが、アルにはすぐにわかった。
ここが、娘・ミドリの居場所だと。
ガラリと扉を開ける。埃とインクの匂いが鼻をつく。店内に人影はない。
「……おい、誰かいるか?」
沈黙。だが、その奥からかすれた声が返ってきた。
「……誰だよ、こんな時間に。薬、届けに来たわけじゃないんだろ」
書棚の陰から現れたのは女だった。
長いダークグリーンの髪を、ゴムも使わずぼさぼさのまま垂らし、
頬は痩せこけ、目の下には深い隈。
だがその瞳だけは、琥珀のような光を宿していた。
「……ミドリ、なのか」
「……誰?」
アルは答えず、ゆっくり一歩踏み出した。
そして、ポケットから手紙を取り出す。
「……お前の母さん、カナミからだ。亡くなる前に、俺に託した」
ミドリは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに冷笑を浮かべた。
「……手紙か。あの人、最後までそうだったな。
言葉じゃなく、紙に頼る。現実を見ないまま、理想だけで生きた」
「……お前、何を……」
そのとき、ミドリはふらつきながら近づき、彼の前で右手を突き出した。
「……薬が切れたの。金をくれ。今さら父親ヅラして来たんなら、責任とれよ」
アルの心臓が締め付けられる。
その腕の内側には、細く赤黒い痕。何度も注射を繰り返した跡。
ヴァンパイアの血を引きながら、それを抑える薬に依存している。
魔界由来の“血抑制剤”は高価で、合法だが副作用も強い。
快楽が伴う場合もあり、一度ハマれば抜け出せない。
「……俺の、娘が……そんな……」
「何? “こんなふうになってると思わなかった”って顔? 笑える。
あんたがいなかったからだよ。
母さんは強かったけど、ひとりで、あたしを守って死んだ」
「……すまなかった」
その言葉を口にするまでに、アルは何百年もかかった気がした。
「“すまない”で済むなら、父親なんていらない」
ミドリは吐き捨てるように言い、形見のロケットを投げつけた。
中には、古びた写真が入っていた。
カナミと、まだ幼いミドリを膝に乗せる男。
父親……アルだった。
「忘れてたくせに。これが、あたしの“家族”だったんだろ。嘘だよ、全部」
ミドリは声を荒らげるが、最後の一言は震えていた。
「助けてよ……」
その瞬間、アルはゆっくり近づき、ミドリの身体を抱きしめた。
彼女の体温は、血の中で静かに震えていた。
「……逃げてもいい。忘れててもいい。
けど、ここにいる。
俺は、お前の父親だ。たとえ今さらでも、目を背けねぇ」
ミドリの指が、アルのマントの裾を握った。
泣いてはいない。ただ、震えていた。
そしてアルは、呟くように誓った。
「……親ってのは、罪の塊だ。だから償う。
薬より強いものを、金をお前に渡す。薬を断ち切り再生しよう。もう一度、生きなおすために」
翌朝、曇った空の下で、古書店《月ノ書庫》の扉がぎぃと軋んで開いた。
ミドリは薄手のカーディガンを羽織り、椅子に座っていた。
薬を抜く禁断症状のせいか、唇は青く、身体は細かく震えている。
それでも、目はどこかしっかりと父を見ていた。
「……ずっとそこにいられると、落ち着かないんだけど」
厨房から、アルが顔を出す。
「じゃあ、何か作ってくる。地上風の朝飯だ」
十数分後、店内に漂いはじめたのは意外にも懐かしい匂いだった。
「……それ、味噌汁の匂い?」
「母さんがよく作ってたって、手紙に書いてあった。
初めてだが……魔界にゃ、味噌なんてなかったからな」
カップに注がれたのは、湯気の立つ味噌汁と小さなご飯、そして焼き魚。
アルは不慣れな手つきで箸を置き、正面に座った。
ミドリはじっとそれを見ていたが、箸を持つと、まるで自動的に一口すすった。
「……しょっぱ……けど、変に落ち着く味」
「味付けは、母さんの記憶に任せた。俺の記憶じゃ、薄すぎてな」
アルは苦笑しながらも、目元に涙を浮かべていた。
ミドリは、手を止めたままぽつりと呟く。
「ねぇ……薬、やめたら、私どうなるのかな。
普通に戻れるの? それとも、また“吸いたく”なるのかな」
「なるさ。何度でもな」
アルは静かに言った。
「けど、お前には俺がいる。人間としての母の血も、魔族としての俺の血も、どっちも抱えてる。
だからこそ、どっちの道も選べる。
逃げてもいい。でも、帰る場所は、俺が作る」
ミドリは、うつむいたまま、ぎゅっと箸を握った。
味噌汁の湯気が、二人の間をやさしく揺れていた。
血よりも濃いものが、そこにあった。
「……今日だけは、ありがとうって言っとく。でも明日は、どうなるか知らないよ」
「それでいい。今日だけでも、一緒に飯を食った。それで、十分だ」
外では、曇り空が少しだけ明るくなっていた。
魔族と人間の間に生まれた名もなき家族が、今、静かに“再生”の道を歩きはじめた。




