ルアーナ編 思考する者は、引き金を引かない
クロノ・ロックの残骸は、もう“装置”とは呼べない。
それはただの瓦礫だった。
だがルアーナには、まだ聞こえている。
微細な因果の軋み。
未来が分岐するときに鳴る、音にならない音。
研究室の床いっぱいに広げられた結晶片。
魔導回路は砕け、刻印は溶け、
それでも“未来を書き換えた痕跡”だけが残っている。
「……世界は、これを“救われた”って言うんでしょうね」
誰にともなく呟く。
壁際の椅子には、
もう座らない老人のコートが掛かっている。
正しさの残骸
ルアーナは知っている。
あの装置を止める方法は、他になかった。
アイゼンハワードの判断は、
論理的にも、統計的にも、倫理的にも――
最小犠牲で最大多数を救う、完璧な答えだった。
それが一番、許せなかった。
「正しいってだけで……
誰かが消えていい理由には、ならない」
ペンを走らせる。
【仮説:未来干渉における非致死条件】
【条件1:不可逆な死を代価としない】
【条件2:選択権を奪わない】
どれも、理論上は“不可能”とされている。
だが彼女は、
不可能の上でしか生きたくなかった。
因果律のゆらぎ
観測装置が、かすかに震える。
――未来確率:0.0003%
――変動値:上昇
「来てる……」
ルアーナは立ち上がる。
クロノ・ロック消失後、
世界には“揺らぎ”が生まれた。
死なないはずの者が死に、
死ぬはずの者が生き延びる。
秩序でも、無秩序でもない。
中途半端な自由。
それが一番、危険だった。
「管理するべき?
それとも……見守るべき?」
彼女の答えは、まだ形にならない。
非致死型干渉魔術
ルアーナは杖を取らない。
代わりに、
結晶片を指で弾く。
未来分岐理論――
干渉ではなく、“傾ける”。
殺さず、決めず、
選びやすくするだけ。
それは魔術師としても、
研究者としても、
最も臆病なやり方だった。
だが。
「私は、あの人みたいにはならない」
誰にも聞こえない声で言う。
正しさを選ばない。
犠牲を前提にしない。
その代わり、
迷い続ける責任を引き受ける。
思考する者の戦場
窓の外、
街の未来線が、細かく分岐している。
誰かがまた、
“未来を固定したい”と思い始めている。
ルアーナは眼鏡を直し、
研究ノートを閉じる。
「……さあ」
引き金は引かない。
剣も持たない。
だがこの世界で、
一番危険な武器は、思考だ。
「未来を守るってこと、
まだ誰もちゃんと定義してないもの」
彼女は歩き出す。
アイゼンハワードが盗んだ“始まり”の先へ。
その続きを、犠牲なしで書くために。




